天地道士

黒崎リク

第1話 柱の異変



 四柱五岳しちゅうごがく崩れる時、分かたれた天地は再び一つとなり、世界に混沌が訪れるであろう――。



 万古ばんこ大陸神話『天地開闢てんちかいびゃく』より





第一話 柱の異変



 霧のような静かな雨が降る夜のことだった。

 道観(道士達が修行をする場所)の門扉を誰かが叩いている。

 雨音に紛れて、かすかに女性の声もした。雨がもう少し強ければ、声は番をしていた門弟に届くことは無かっただろう。

 気になった門弟の一人が外の様子を窺えば、門に縋りつくようにして若い女性が蹲っていた。手燭の明かりに照らされた女性の顔は血の気が無く真っ白で、身に纏った衣には赤黒い染みが所々付いている。

 知らせを受けた道観の長とその夫人が急いで駆け付けた時には、すでに女性は虫の息で、門弟に支えられていた。

 女性は力を振り絞るようにして、大事に抱えていたものを彼らに差し出す。布に包まれた中には、まだ一歳にも満たぬ赤子が眠っていた。死の間際にある女性とは対照的に、赤子のふくふくとした頬は淡く色づいて、確かな生を感じさせた。

 狼狽えながらも夫人が赤子を受け取るのを見た女性は、ほっとしたように表情を和らげる。


「……せいう……」


 眠る赤子を見つめながら、女性は愛しげに目を細めて呟いた。そして、雨音よりも静かな息を一つ零して、その目をゆっくりと閉じたのだった。




  ***




 かつてこの世界は、靄のような混沌とした状態であった。

 混沌の中で生まれた巨神・盤古ばんこは、腕を突き出して混沌を押した。すると、軽く清らかなものが上に上がって天となり、重く濁ったものが下に沈んで大地となり、天と地が生まれた。

 天と地が開かれた後も、天地が再び一つになって混沌に戻らぬよう、盤古は天を高く押し上げ、大地を強く踏み固め続けた。天は限界まで高くなり、大地も限界まで厚くなった。

 計り知れない時が流れ、やがて力を使い果たした盤古は死んでしまったが、彼は世界の万物の元となった。その息は風や雲に、声は雷に、流れる血は河に、汗は雨に、左の眼は太陽に、右の眼は月になった。

 そして、両手と両足は天と地を結ぶ四本の柱となり、頭と胴体は天と地を支える五つの山となった。

 これを『四柱しちゅう五岳ごがく』と呼び、これらが崩壊するとき、天地に再び混沌が訪れるという……。




 嘘だぁ、と文机の前に座った子供の一人が声を上げた。


「そんな大きな柱、見たことないよ」

「天まで届く柱なんて、本当にあるの?」

「それに、五岳じゃなくて四岳じゃないの? 東の泰山たいざん、西の華山かざんでしょ、ええと、それから、名前忘れちゃったけど北と南の山で、全部で四つだよ!」

「ねえ、盤古って神様なのに死んじゃったの? 神様や仙人は不老不死なんでしょ。道士様は不老不死になるために修行しているのに、そんなのおかしいよ」


 口々に言い出して騒ぎ始める子供達に、今まで朗々と『万古大陸神話』を読み聞かせていた若い女性は、細い眉を顰めた。

 ここは百雲観びゃくうんかん。万古大陸の北東平野の中央にある古都・霄漢しょうかんで、最も古く大きな道観である。

 道観は、不老不死の仙人を目指して道士達が法術を学び修行する場のことであり、各地にそれぞれの門派がある。

 その中で、百雲観は『地道四家』に入る、伝統ある大きな門派の一つであり、数百人以上の道士が在していた。

 本殿にある議事堂や書室では若い弟子達が師匠から座学を受け、奥にある修練場や広場では年長の弟子達が武術や法術の修行に専念している。

 そして別院にある小さな書室に、道士ではない幼い子供達が集まっていた。

 百雲観では近所の子供達に読み書きを教える私塾を開いており、本日の講師を務めるのは百雲観の宗主・周慈淵しゅう・じえんの長女である周鈴麗しゅう・りんれいだった。

 長い黒髪の上半分を結い上げて銀の簪を挿した、凛とした雰囲気の美人だ。二十四歳の彼女は、若い弟子達の中では年長に当たる。宗主の娘でもある彼女は実技も座学も優秀で、年下の弟子達を指導する立場にあり、皆から師姉と呼ばれていた。

 さて、十にも満たない子らは一度騒ぎ始めるとなかなか静まらない。これが内弟子であれば、すぐさま一喝して静かにさせるところだ。

 眉間の皺を深めた鈴麗は、いつもの十分の一ほどの口調を意識しながら注意しようとしたが、ふと、彼女の視界の端に緑色の衣が過ぎった。

 開いた窓の外。回廊の手摺に、一人の若い娘が行儀悪く腰かけている。

 年の頃は十七、八頃か。柔らかな柳色のほうに黒色の帯を締め、下に白い細身の(ズボン)を履いている。袖口は濃い緑色の手甲で留め、足には革の長靴ちょうかを履き、動きやすい恰好をしていた。これは百雲観の校服であり、彼女が修行中の道士であることを示している。

 年頃の娘達の多くは、襟や裾がひらひらとした麗しい衣を纏って女髷を結い、美しいかんざしや耳飾りを付けて着飾るのが普通だ。しかし、娘の整った顔立ちには化粧っ気がなく、艶やかな長い黒髪も高い位置で一つに括って、校服と同じ色の布紐を結んでいるだけだった。

 もっとも、活き活きと輝く黒い双眸や血色の良い白い肌、溌溂とした表情は、化粧をしてなくとも目を引いた。均整が取れた長い手足は、身に纏う校服の色も相まって柳のようにしなやかな美しさがある。

 娘は手摺に腰かけながら、こちらを見物していたようだ。大きな目とばちりと視線が合い、鈴麗は良く通る声で呼びかけた。


「そこの師妹! 四柱五岳について説明しなさい!」

「げっ……」


 呼ばれた娘は、慌てて回廊から飛び降りて逃げようとする。

 だが、「清羽せいう!」と鈴麗が怒気を滲ませた声で名指しすれば、娘は手摺に掛けていた足をそろそろと下ろした。

 渋々というように書室に入ってきた娘の名は、周清羽しゅう・せいう

 今年十八歳になる娘で、周家の養女であり、血の繋がりこそ無いが鈴麗のれっきとした妹であった。

 現れた清羽に、子供達は声を上げる。


「あ、清羽姉ちゃん!」

「また修行さぼってる~」


 けらけらと明るい笑い声に迎えられた清羽を、鈴麗はくいくいと指先を動かして前に来るよう促した。


「清羽。あなた、今は座学の時間じゃなかったかしら?」

「あー、その……陶先生が外に出ていいと仰ったので」

「どうせまた居眠りでもして追い出されたんでしょう。それで本当に出てくる馬鹿者がどこにいるの? 我が妹ながら情けないわ」


 手厳しく言う鈴麗に、清羽は小さく肩を竦めるだけだ。

 座学の中で、陶先生が受け持つのは万古大陸の歴史や古典、礼典(礼儀に関する法則)である。しかも書を長々と読み上げるだけの講義なので、若い弟子達にはやや退屈なものであった。とはいえ、これもまた修行の一環。退屈だからと居眠りするなど、以ての外である。

 鈴麗は溜息を吐き、清羽にぴしゃりと言いつける。


「この子達に、四柱五岳を分かりやすく教えてあげなさい。少しは陶先生の苦労を知るといいわ」

「はぁい……」


 姉に叱られた清羽はさすがに少し反省したようで、大人しく子供達の前に立つ。

 清羽は少し考えるように目線を上にあげた後、しゃがみこんで懐から紙の包みを取り出した。そうして、手のひらほどの大きさの平べったい薄餅を一枚、文机の上に置く。


「これが万古大陸。それから……これが五岳」


 今度は腰に下げていた袋から、小ぶりの赤い干し棗を取り出し、薄餅の上――東西南北の位置に、真ん中を開けて十字を描くように四個置いた。

 焦げ目の付いた白い薄餅に、しわしわの赤い干し棗。

 身近なおやつで表された小さな大陸を前に、鈴麗は呆気に取られ、子供達はおかしそうに笑い出した。

 集まって興味津々の態で覗き込む子供達に、清羽が問いかける。


「さあ、ここで問題。こっちが東の泰山、これは西の華山。じゃあ北は?」

「僕知ってるよ! 恒山こうざん!」

「ご名答! じゃあ、南は何でしょうか? ……右端の君、知っていそうな顔をしているね」


 清羽に促された大人しそうな女の子は、もじもじとしながら答える。


「……じゅ、寿山じゅざん……」

「うん、正解!」

「ねえねえ、清羽姉ちゃん、一個足りないよ。これじゃあ四岳だよ」


 子供の一人に問われ、清羽は包みからもう一個干し棗を取り出した。おもむろに両端を齧り取り、中の種と実をほじくり出す。そうして輪っかの形になった干し棗を、薄餅の真ん中に置いた。


「これが中央の嵩山すうざん。他の四つの山より小さいけれど、首都の嵩洛すうらくにあるの」


 首都・嵩洛を囲む環型の嵩山は、東西南北の雄大な山々に比べればはるかに低い。なおかつ、人々が想像するような、人界から隔離された優美かつ幽玄な山容とは言い難い。そのせいか、嵩山は天地を支える五岳の一つとしてあまり知られていなかった。

 また、理由は他にもある。数百年ほど前に万古大陸を統一した皇帝は、環型で天然の城壁のような嵩山の中央に大きな都を築いた。

 道士は本来、国や政には関わらないのが原則だ。首都が置かれた嵩山を、道士達は忌避するようになった。それにより、道士達が信仰する盤古の神話に出てくる五岳から、嵩山は自然と外されるようになってしまった。子供達が知らなかったのも無理はない。


「じゃあ、おさらいね。五岳は、東の泰山、西の華山、北の恒山、南の寿山、そして中央の嵩山」


 清羽は一つずつ干し棗――もとい五岳を指差して子供達に復唱させる。


「みんな分かったかな? はい、分かった人は手を上げてー」

「はーい!」


 元気よく声を揃えて手を上げる子供達に、清羽は「じゃあ次は四柱ね」と再び机の上の小さな万古大陸を指差した。


「四柱があるのは、山と山の間の、平たい大地の所……これで言うと、棗の間の薄餅の平たい部分よ。方角では、北東、南東、南西、そして北西。さて、私達がいるのはどこかな?」

「はい! ここ、ここだよ!」

「北東の『げん』の地!」

「その通り。北東は艮、南東はせん、南西はこん、そして北西はけんの地と呼ばれている。そして、柱はこの四つの大地に一本ずつあるの」


 清羽はごそごそと別の袋を探り、今度は小さな飴を四個取り出した。


「あなた、どれだけお菓子を持ち歩いているの?」


 呆れ顔の鈴麗に、清羽は悪戯っ子のように笑いながら、四つの大地の隅に飴を一個ずつ置いた。そして、北東においた緑色の飴を指差す。


千魂せんごんの森、みんな知っているかな?」


 霄漢の北東、馬で三日ほどかかる場所に広大な森林がある。

 千年以上の樹齢を持つ樹々が起伏ある丘を覆い、深い緑で閉ざされた森には滅多に人が立ち入らない。何しろ、千魂の森には不思議な力を持つ妖獣が棲み、中には人を襲う恐ろしいものもいるからだ。森に入った多くの人々が犠牲になり、無数の魂がさ迷うから『千魂』という名がついたという説もある。


「この千魂の森に、柱の一つがあるの。ただし、普通の人には見えないわ」


 緑色の飴を清羽が人差し指で突きながら言えば、子供たちはきょとんと首を傾げる。


「見えない柱?」

「大丈夫なの? そんな柱、危なくて天が落っこちてきちゃうんじゃないの?」

「師姉が話してくれた神話の中にあったはずよ。天地を支えているのは五岳、じゃあ柱は……」

「ええと……あ! 『天と地を結ぶ四本の柱』ってある!」

「そう、柱は天と地を結んでいるの。柱の役割は、天と地に陰陽の気を行き来させて、調和すること。うーん、ちょっとこれは説明が難しいから……」


 清羽は言いながら、男の子と女の子を一人ずつ呼んで向かい合せた。


「小弟弟が『天』で、小妹妹が『地』。そして、私が『柱』ね」


 二人に手を前に出させて、手のひらにそれぞれ飴を一掴み載せる。女の子の手に乗った方が明らかに多く乗せられて、男の子は不満げに唇を尖らせた。


「ずるいよ。そっちの方が多い」

「そうね。じゃあ、移動させるわ」


 清羽は飴を一個、二個……と男の子の手のひらに移す。今度は男の子の方が多くなって、女の子が悲しそうに眉を下げた。それを見て、再び飴を女の子の方に戻し、ちょうど同じ量になるようにした後、清羽は言う。


「どちらかが多くなっても、少なくなってもいけない。二人の仲が悪くなっちゃうからね。柱はこうやって『気』を調整して、天と地が喧嘩しないように、間を取り持っているのよ」


 へええ、と子供達は感心したように、それぞれの手のひらに分けられた飴を見やった。


「南東は『鳳炎峰』という灼熱の火山、南西は山みたいに大きな岩の『百魄岩』、北西は『沈龍湖』という大きくて深い湖に、同じように柱があるわ」

「ねえ、清羽姉ちゃん。なんでそこに柱があるって分かるの? 見えないんでしょう?」


 一人の子供の質問に、清羽はぱちりと指を鳴らす。


「うん、いい質問ね! 実は、この柱は、特別な人には見えるの。修行して、立派な道士になれば見ることができるわ」

「じゃあ道士様達は見えているの?」

「清羽姉ちゃんは?」

「もちろん、見えているに決まっているでしょ。私は立派な道士なんだから!」


 ふふん、と胸を張る清羽だったが、後ろから鈴麗がその頭を軽く叩いた。


「座学をさぼった癖に偉そうにしないの。別に立派じゃなくても、素質があって真面目に修行をすれば見ることができるわ」

「えー、見たーい!」

「僕もー!」


 騒ぎ始める子供達に、鈴麗はぱんぱんと手を叩いて静かにさせる。


「さあ、今日の講義はこれでおしまいよ。続きは明日。それから、その飴と棗はみんなで仲良く分けること!」


 柱の説明で使った菓子を鈴麗が示すと、清羽がぎょっとする。


「え、ちょっと師姉、何勝手に――」

「わーい! ありがとう、鈴麗姉ちゃん!」


 子供達はあっという間にお菓子を取っていく。「私の飴!」と清羽は嘆くが、色とりどりの飴は子供達の口の中に消えていった。

 おやつをもらえて満足して帰っていく子供たちを見送りながら、清羽は隣の鈴麗を肩で小突く。


「ひどい、師姉。私の飴を……」

「飴くらいでいじけないの。……後で陶先生に伝えておくわ。あなたが子供達の講義を手伝ってくれたって」

「え! やった、ありがとう、姉さん!」


 ぱっと表情を明るくする清羽を、鈴麗は横目で見やる。


 ――別に飴のお詫びで陶先生と清羽の取り成しをするわけではない。清羽の説明は子供達に分かりやすく、十分に講義として成り立っていたからだ。

 座学が苦手と自他ともに認める清羽だが、頭は悪くない。

 むしろ頭の回転が速く機転が利き、特に実技や実戦の際に発揮されることが多い。古典や礼典はともかく、法術や妖異鬼怪に関する知識は豊富で、理解も早い。

 騒がしかった子供らの注意をあっという間に引いて、理解できるように身近な菓子を使って教えた清羽に、鈴麗は内心で感心していた。


 そもそも陶先生が清羽を叱るのも、彼女の才能を認めているからで、真面目に取り組めばいいものをとよく愚痴を零しているのだ。

 陶先生に同情しながら、鈴麗は清羽の肩を小突き返す。


「まったく、こういう時だけ調子がいいんだから……後でちゃんと謝りに行きなさいよ」

「ふふっ、はい!」


 機嫌よく返事を返した清羽だったが、その顔をふと空へと向けた。

 よく晴れた空の中、天と地を貫く、一本の巨大な虹色の光がある。

 あれこそ、天地を繋ぐ柱だ。彩雲のように緑や黄、赤などの多色の模様がまだらに浮かび、時折光を反射しては模様を変えていた。

 柱は子供達に説明したように陰陽五行の気の集合体であり、天と地の気を循環させ、調和している。

 この『気』を見るためには、元々の素質と厳しい修行が必要だ。体内にある『仙骨』という特殊な器官に、己の気を練り上げて『内丹』を作り上げていくことで、気を目視するだけでなく、気を力の元とする方術を使えるようになる。

 ちなみに仙骨はほとんどの人が持っているが、人によって質や大きさが異なる。道士になるには、ある程度以上の質の仙骨が必要だった。仙骨を持ち、修行を積んで内丹を作り上げている清羽や鈴麗の目には、柱の姿がはっきりと映っている。


「……」


 清羽は無言で目を眇めた。柱の一部が歪んだように見えたのだ。

 最初は見間違いかと思ったが、何となくいつもと違うような気がする。目を凝らす清羽は、ゆらりと揺れる虹色の中に黒い渦が生まれて消えるのを見た。


「……師姉、今の見えた?」

「何を?」

「黒い、渦みたいな……」


 しばらく二人で柱を見つめていたが、あの黒い渦が再び現れることはなかった。清羽は苦笑して「やっぱり見間違いみたい」と言うが、鈴麗はその背を軽く叩く。


「父上に報告しましょう。あなたの目は、私よりもずっといいもの。それに、どんなに小さな異変も見逃してはいけないわ」


 柱の異変は世界の崩壊を招く――。

 これは決して、神話の中の話ではないのだ。鈴麗に促された清羽は頷いて、宗主であり養父である慈淵の元へ向かう。



 この柱の異変が、万古大陸を揺るがす事件の始まりであることを、清羽はまだ知る由もなかった。




 ***




 万古大陸の東に位置する泰山山脈の奥深く。深山幽谷の地は、木々の翠を吸い取ったかのような、青みがかった霧に年中覆われている。

 切り立った険しい崖の細い道を進み、永遠に続くような長い石段を上がり、苔むした門を超えた、まさに人界から隔離された場所にその道観はあった。

 白塀に囲まれた敷地には白玉の砂利が敷かれ、幾つもの瀟洒な楼閣が入り組んで建てられている。整えられた庭木や花、澄んだ水辺が作る景色は仙境のように美しい。静けさの中に響くのは、風に揺れる梢の音と庭を流れる水の音と、座学中の弟子に師匠達が書を読む滔々とした声くらいだった。

 青い海のような霧に覆われることから『青海廟』と名付けられたこの道観では、五岳の一つである泰山を治め、『天道四家』と呼ばれる名門・藍氏一族の道士達が日々修行を行っていた。

 その青海廟から少し離れた険しい山道を、一人の青年が歩いている。

 青海廟の弟子の一人である彼は、足元が悪い中をものともせず、清らかな青色の外衣をなびかせながら悠然と進んでいた。

 間もなくして小さな院に辿り着いた青年は、門を見上げる。門に掲げられた木の板には『青雨閣』と書かれていた。石垣に囲まれた青雨閣は青海廟の別所であり、小海廟とも言われている。

 清雅で優美な青海廟に比べれば、ここは質素な佇まいの院と野趣に富む庭を有し、修行する道士の姿もない。しかしながら、泰山の麓にある人里のような懐かしい風情があった。

 青年が声を掛けて敷地に入れば、中庭にある四阿に壮年の男性が腰かけていた。石造りの机には茶器が用意してあり、男性はゆったりと書を広げている。


師伯しはく


 青年が呼びかけて拱手の礼を取ると、男性――藍白浪らん・はくろうは穏やかな笑みを向けた。

 藍白浪は、藍氏を治める宗主・藍克峰らん・こくほうの実の兄であり、修行中の弟子達にとっては宗主の次に尊い存在で、『師伯(師匠の兄)』と呼ばれている。

 年齢はとうに壮年を越えているが、背に下ろした豊かな黒髪は艶やかで、玉のような白い肌も若々しい。

 厳しい修行によって練り上げられた内丹は彼の老化をとどめ、抜きんでた修為(修行によって積み上げられた強さ)の高さから、万古大陸の道士の中でもっとも昇仙(仙人になること)に近い者と噂されている。青海廟から離れた青雨閣で隠遁生活を送っている姿は質素ながら、仙境で暮らす仙人のようにどこか超然としていた。

 白浪は笑みを浮かべたまま、青年を手招きする。


景雲けいうん、こちらへ」


 景雲と呼ばれた青年は小さく頷き、四阿に歩を進めた。

 石の机の傍らには火鉢と湯の入った鉄瓶が用意されていて、白浪が手慣れた様子で湯を注ぐと、ふくよかな茶の香りが漂ってくる。

 いつ誰が訪れてもいいようにと、白浪は日中のほとんどを庭の四阿で過ごしていた。修行に悩む弟子の相談にのったり、親が恋しくなった幼い弟子を慰めたりするだけでなく、時には遠方から訪れた他の門派の道士達と長く語り合ったりもしている。

 席に着いた景雲に、白浪が茶を差し出しながら言う。


「他に客も無いのだから、伯父上と呼んでいいのに」


 景雲は白浪の甥に当たる。血の繋がりのせいか、向かい合って座る二人の涼やかな美貌はよく似通っていた。

 景雲は応えずに、わずかに目を伏せながら口を開く。


「艮の柱の調査に向かうよう、宗主から命じられました。明朝、こちらを経ちますので挨拶に参った次第です」

「おや……柱の調査とは、珍しいこともあるものだ」


 本来、四柱に関する事案に藍氏が関わることは滅多にない。しかも、宗主の息子で後継者候補の一人である景雲を派遣するとなれば尚更だ。

 少しの驚きを見せつつも、白浪はゆっくりと頷いた。


「克峰にも考えがあるのだろう。四柱はこの世の均衡を保つ大事なものだ。しっかりと任を果たしてきなさい」

「はい、分かりました」

「そういえば、景雲は泰山の麓の街以外に行ったことが無かっただろう。此度の任で、他の街を見てくるといい。きっと良い勉強になるよ。それに柱の件であれば、霄漢の周氏とも知り合うことになる。周氏は伝統ある門派で、宗主はおおらかで実直な方だ。いい機会を与えてもらったね」

「はい」


 茶を飲み終えた景雲は立ち上がり、拱手の礼を取る。


「では……伯父上、行って参ります」

「ああ。景雲、祝你一路平安道中、君の無事を祈るよ


 旅の安全を祈る柔らかな韻律に背中を押されながら、景雲は青雨閣を出て行く。

 うっすらと漂う霧と緑の木々に景雲の青い衣が溶けるように遠ざかっていくのを、白浪は静かに見つめていた。

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