第9話 手筈は整い話は進み

東書市あずましょいち?」

 適度な湿度が必要な本の管理が大変な冬が終わりの気配をみせた頃、三月の暮れの御文庫作務所で、友美は首を傾げた。その動きがあまりに自然で可愛らしかったからか、妙子が笑いを堪えている。春一はそれらを見て微笑みながら言葉を続けた。

「そう。ご主様が上京の度に立ち寄り、本を調達してくるところだ」

「それで、その東書市がどうかしたんですか?」

「ええ、お祭りよ」

 妙子が言った。いつのまにかお茶と菓子を用意している。休憩する気は満々のようだ。

「文書きの仕事始めは毎年五月いつきなの。それに合わせて書売りたちも店棚の並びを変えようと、古書の値を下げて売るのよ。まあ、年度末の決算大安売りね。当然国中から人も集まる。そこで我らがご主様は、久城から人を分遣して、祭りの警備やら売り子やらをさせようと仰せになった」

「つまり、お手伝いですか」

「そ。当然、私たちも行くわよ。そうそう、久城の人は手伝いのお礼に、祭りの前に物色させてくれるわよ」

「へぇー」

 友美は少々気の抜けた返事をする。五月、五月かあ。あの時期、妙にやる気が出ないっていうか。懐悲しいから、本が安く帰るのは気になるけど、都まで行くの、ちょっとしんどいなあ。

 友美がそう思案するのを、お茶を啜る春一は見逃さなかった。すかさず口を挟む。

「そうだ、東書市の近くに知り合いの茶葉屋がある。久城家御抱えの茶葉屋と違って、渡来物の茶葉があるんだ。なんなら、ここの消耗品扱いで、経費から出せるよ」

「行きますっ!是非とも行かせてください!」

 あまりの豹変ぶりに、今度こそ妙子は笑いを堪えられなかった。

「まだ二月先よ。焦らないでね~はいっ!今日の目録!一七番書蔵は気をつけてね。紙食蟲かみはみむしはちゃんと始末すること、あと明日の閲覧希望書の状態を確認して、閲書殿に運んでね。困ったらすぐ呼んで。無理はしないこと」

「お饅頭たべてからでいいですか?」

「もちろん食べ終わってからでいいわ。ほら、上鷺さん!論文の下書き終わったの?学会近いでしょう」

「やるよ。やるとも!そうだ、聞いておくれよ。去年ご主様が持ち帰られた明仂めいろく八年の古書があっただろう。あれの記述に気になるものがあってね、一節丸々書き直すはめに──」

「かみさぎさぁん、おーしーごーとー。あ、友美ちゃんは食べ終わったら頑張ってね~」

「はーい」

 書斎へ引っ張られていく春一を横目に、友美は饅頭を頬張る。あ、今日は白餡みたいだ。二口三口で平らげ、お茶を煽り飲む。さあ、仕事の時間だ。機嫌が良いのか、友美は鼻歌まで歌っていた。


 その晩、久城宗彦は父、久城宗義の書斎へ呼ばれていた。

「何か飲むかい」

 宗彦が入ってくるなり、宗義は瓶棚を顎で示した。

「では薄味酒うすみざけを」

「もう一七だろう。そろそろ濃くしたらどうだ」

「正酒は、婚儀で呑むと決めていますから」

 宗義の附人──初瀬川はせがわという老人が猪口ちょこに薄味酒を注ぐ。御門桜みかどざくらを浸けているらしく、春の薫りが宗彦の鼻をくすぐった。同時に、父親をチラリと見る。纏った雰囲気は父親のもので、どうやら祿穣街府ろくじょうがいふの連絡調整担当官としてでも久城家若殿としてでもないようだ。なるほど、そっち方面の話ではないか。

「それで、お話とは」

「うん。あのな、宗彦。お前、都に行くか」

「え?はあ。いいですが、何ですか突然」

「うん」

 宗義は咳払いし、ついでに酒も煽った。彼は少量の酒が入った方が頭がよく回るという政治家向きの得難い資質をもっている。

「将来の当主が見識を拡げるために上京し、そこで偶然佳き乙女と出逢う。そういう手筈だ」

「は?あの、一体何を」

「つまりな。古神奈の姫様と御忍びで会ってこい」

 宗彦は思わず猪口を取り落としそうになる。いや、なったので、せっかくの桜酒が数滴零れてしまった。

「非公式の伝統行事だ。婚儀二月前の許嫁同士が都でたまたま出逢う。それを淡い思い出にして、いざ婚儀。偶然出会ったその相手は、実は許嫁でしたー。そういう話だ。婚姻前だから、表向きは会ってないことになる。そう、記録されない顔合わせだ」

「それ、いつからの伝統なんです?」

「五〇年前」

「お祖父様か!お祖父様ですね!?というか伝統って、お祖母様の深凪みなぎ家も母上の最條さいじょう家もよく許しましたね、それ」

「それはまあなんとかな。うん。曰く、若かかりし頃の久城公は、渡来の恋幕読本を読み漁っていてな。ラヴなロマンスを追い求め、そんな蛮行に至ったそうだ。今でこそ落ち着いておられるが、あのお方は久城御歴代きっての──あれだ」

「あれ、ですか」

「うん。言葉にすれば不敬になる」

「なるほど」

 なんだよ、それ。そう思ったのか、宗彦は勝手に二杯目を注いで呑んでいる。それを見た宗義は苦笑した。彼の息子は、二〇年前の彼とまったく同じ反応と行動をしていたのだ。

「何時ですか、それ」

「五月の末。東書市の祭りに上鷺たちが行くから、それにくっついて行け」

 宗彦は溜め息を吐いた。すでに三杯目に突入しようとしている。つまみのアルガン豆の塩煎りが入った小皿は、空っぽになっていた。

「──承知しました。行きます。その代わり、この薄味酒を瓶でください」

 しまった。良い酒呑ますんじゃなかったな。そう思った宗義は「おう。持ってけ」と吐き捨てた。予測はついている。恐らく宗彦は今晩中にあれを呑み干すだろう。ひどく緊張して、さまざまな考えや感情が脳裏や心中を駆け回るからだ。二〇年前の久城宗義がそうであったように。

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文庫官篠原友美の奔走 奏條ハレカズ @sojoharekazu

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