第7話 国酒、あるいは政治の香り

 簑山晴樹みのやまはるきは草の陰に身をうずめた。彼の視線の先、前方三〇〇間の位置に、砲兵が布陣している。

 砲兵の指向する方向には、簑山の所属する大隊、その主力がいた。大隊主力が敵を引き付け、側面に回り込んだ一個中隊が側擊を行う。そういう手筈だった。

 砲口が光り、一瞬にも満たない間の後に轟音が鼓膜を叩いた。しかし着弾の土煙はたたない。空砲だからだ。現在、大隊主力は攻撃を受け、死傷者を続出させていることに

 金笛ラッパの高らかな音が響いた。奏でられた旋律が示すのは突撃命令。簑山から少し離れたところで、中隊長が怒鳴った。

「目標、前方敵砲兵陣地!第二中隊、突撃にぃ、移れぇっ!」

 それを聞いた簑山は腰の軍刀を抜刀し、掲げた。上官の命令を復唱し、下令する。

「躍進距離三〇〇!小隊、突撃にぃ、移れっ!」

 息を吸い込み、中隊長や他の小隊長たちとほぼ同時に叫ぶ。

「突撃!」

 土を蹴り、埃を巻き上げて兵どもは駆けた。手には着剣した燧石銃が握られている。

 蛮声を上げながら簑山は走る。そろそろかな。そう思った簑山は目の前の泥に飛び込んだ。動きを止める。すぐに下士官の絶叫が聞こえた。

「小隊長殿、戦死っ!」

「第三小隊は鈴木少尉が掌握するっ!我に続け!我に続けぇっ!」

 簑山の手を離れ、小隊は前進していく。敵砲兵陣地が制圧されるのも、時間の問題だろう。


「演習終了ー!演習終了ー!各隊指揮官は報告書を提出、負傷した者は救護所へー!」

 のっそりと、簑山は身体を起こした。半年前に仕立てた将校服は、いまや中着まで泥にまみれ、汗と相まって不快極まりない。

「お怪我ありませんか、少尉殿」

 駆け寄ってきた曹長がいった。第三小隊の最先任下士官で、奇遇なことに出身が簑山と同じ祿穣ろくじょうだったので、なにかと気にかけてくれているのだった。

「ありがとう曹長。永山の遠足で転んだときのことを思い出した」

「そいつはなんとも。自分も永山で泥んこになったことがあります。山道登ってすぐのところ、滑る場所があるでしょう。そこです」

「ああ、あそこか。ところで曹長、小隊の様子はどうだ。僕は戦死したからな。その後を知らんのだ」

 曹長は苦笑しながら頷き、すぐさま顔を引き締めた。永山の梺の金物かなもの屋の三男坊から、軍歴二〇年を超えた練達の下士官へ切り替わったのだ。

「まあ及第点です。が、ちょっと走練を増やした方がよいですな。突撃躍進のとき、遅れとるのが何名かおりました」

「なるほど、ありがとう。──おや、へばっとる奴がいるな。曹長、よろしく頼む」

「お任せください。それが下士官の商売ってもんですから」

 曹長は敬礼すると振り向き、声を張り上げた。

「こらぁ!貴様ら、たるんどるぞ!これより装具点検を行うっ!不備のあった者は腕立て二〇!」

 簑山は部下の仕事を静かに見守った。何人かの腕立てが終わった頃合いを見計らって告げる。

「これより駐屯舍へ帰投する。諸君、演習ご苦労でした」


 それより三刻ほど後、簑山は駐屯舍にほど近い呑み町、その二本裏道を歩いていた。演習の報告書やら何やらは、勿論手早く処理している。それに明日は、聯隊のうち第二大隊の公休日だ。よって、猿貫さるぬきの呑み町は軍服でごった返していた。

 そんな表通りに反して落ち着いている裏道を歩いていくと、目当ての暖簾の紺色が見えてきた。

「簑山晴樹です」

 店の前に待機していた初老の男にそう告げると、男は頷き、簑山を座敷へ案内した。

「演習ご苦労さま、少尉殿。泥にまみれた感想はどうだい」

 並べられた小鉢を前に律儀に簑山を待っていたらしい男が言った。緑とも茶ともいえない地味な色の羽織を着ており、どちらかといえば、商家の若旦那といった風合いだ。名を、島橋由数しまばしよしかずという。公家方寮くげがたりょう──公族間の調整役──の一等文官だ。

「畏こくも陛下の将校になり仰せたんだ。泥風呂に入るのもやぶさかではないさ」

 金線が六芒星に縫い込まれている将校用の軍帽と黒の詰襟に五つの金鈕が並んだ将校服を壁に掛けた簑山は、小包を由数に寄越した。中には洋酒の一升瓶が包んである。

「親父さんにだ。お前にじゃないから呑むなよ」

「おっ、アルムラントのツァランカじゃないか。六二年か?」

「五八年だ」

「へぇ、当たり年だろ、たしか。貿易商家様々だな」

「それがな、親愛なるアルムラント造酒があるツァール国がどうもきな臭くてな。今後の成行じゃ、皇国の外酒市場は危ないかもしれない。何せ、ツァールの酒はうちの国でも人気だからな」

「なんだ。ツァランカが呑めなくなるってのか」

「俺は将校だぞ。外国そとくに付き合いは専門外だ。あくまでも、田舎貿商のせがれの独り言だ。それより」

 簑山は手近な小鉢──成瀬蛸なるせだこ長洲胡瓜ながすきゅうりの酢締めに手を伸ばす。

「──今日はおまえの話だ。内裏の御様子は」

「平穏だよ、表立っては。まだ何も起こっていない、そういうことになっている」

 由数は唐芋からいもの出汁煮をつまんで答えた。

「ただ、一部の金と物が妙な動きをしてる。それだけならいつものことなんだが、それがやけに回りくどく動いててな。送り主と送り先がよくわからん」

「わかるところまででいい。どういう道筋で動いてる」

「少なくとも間に大馬木屋おおまきや久方屋ひさがたや熱川屋あたがわやを挟んで、公非公問わず大量の回船やら荷運びやらで動かしてる」

「それはまあ。そこまで面倒だと匂うな」

「ああ、それとは別に、こないだ珍しい顔が晩酌してた」

 唐芋を平らげた由数は机を見回し、次の小鉢を見定めた。貝割れ大根と鱈子の和え物にしたようだ。

「誰だ」

「三條家の家老頭と古神奈家の若殿が」

「へえ、なるほどね」

 女将が皿を持ってきた。上洲鯛かみすだいの華風蒸しだ。話は一度中断し、二人でそれをつつく。鯛とその上の筍やらの野菜が、醤油によく合う。無論、酒も進む。酒を煽るがいまだ明瞭さを保つ簑山の思考は時勢を考えていた。

 懸念はある。考えなければならない要素もたんまりと。しかし、確信できることが一つある。

 都はいま、政治の季節を迎えようとしている。

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