第4話 文庫官の或る日 弐

 作業には、四、五刻を要した。

 御文庫閲書殿えっしょでん(御文庫には、本を閲覧する為の部屋が幾つか併設されていた)の庭に荷車を運び、馬を馬務舎ばむしょに連れていく。

 そこから一冊づつ、まず春一が題、内容、を確認する。紐の緩みや破れがあるものは、妙子が修繕を。そしてその目録作成を、友美が請け負っていた。

 そうして、とりあえず手近な部屋に運び込めたのは正午を過ぎた頃だった。思ったより、手早く済んでいる。外をみれば、白いものが空を舞っていた。降雪だ。間に合ってよかった。

「さて、一休みにして、昼飯にしましょう」

 そう言った妙子は、作務所備え付けの小さな台所で手早く昼食を拵える。

 半白米(白米と雑穀を混合している)、緑菜の浸し、塩漬鴨の網焼。それと、友美が手ずから淹れなおした茶。今朝は煎茶だったが、今度は緑茶にした。

 春に採れた茶葉は久城家の茶蔵(茶道楽にひどく邁進した先々代の久城公が建てたもの。ほかに、御抱えの茶農家が数件ある)に長く置かれたおかげで、その緑の中にどこか赤みが混じっているような気がした。塩漬鴨の味が濃いだろうから、お茶は少し渋めに。

 卓に食事が並んだのは、茶が湯呑みに注がれるに値する状態だと友美が判断したのと、ほぼ同時だった。彼女等は、ほかの皇国衆民が習慣としてそうしているのと同様に、両手で輪を作る。そこから自身がいただく食事を覗き唱和した。

御上おんかみ、いただき申す」

 元来、初帝ういのみかどである明拓帝めいたくていに日々の食事を感謝することば。しかしそれは習慣化され、その意味が顧みられることも無くなった。多くの者にとって、食事は生存行為に他ならない。こころに余裕ができるのは、もう半百年待たねばならないだろう。


 食後の一息。これから行わなければならない労働を横目に見つつ、茶を楽しむ空間。用件が持ち込まれたのは、そうした一時だった。

「御免下さい」

 若い、しかし育ちの良さを感じる声。

 はぁい。と、友美が応じて出てみれば、彼女とそう歳の変わらないであろう役人が立っていた。この天気だというのに、傘を持ち歩かないようだ。頭はところどころが白い。

「なにかご用で?」

「はい。自分は、祿穣街府ろくじょうがいふ街史編纂室の雀原すずはら二等文官です。室長の命により、史料の返却へ参りました」

 雀原は落ち着きのある、しかし若者らしい張りをもった声で言った。その姿はもう少し年上の、仕事にこなれた頃合いの文官を想起させる。

「大手門の迎客官げいきゃくかんには」

「ええと」

 落ち着いた顔つきのまま、雀原は首をかしげた。どうやら踏むべき手順を踏んでいないようだった。

「久城家への来客、その用件を問わず管理するところです。色々面倒が起こるので、先にそちらへ。ご用件は承りました」

「了解しました。では後程、改めて」

 そう言うと雀原は小走りで本邸の方へ駆けて行った。

 用件を春一に伝えると、彼は数瞬思案してから言った。

「多分それは六番書蔵の二階八番棚イの段だ。悪いが、その文官と一緒に返してきておくれ。ああ、鍵は先に取って行きなさい」

「はい」

 春一の机に備え付けてある蔵鍵箱くらかぎばこに目をやりつつ、友美は答えた。


 雀原が戻ってくるのに、そう時間は要さなかった。

「お待たせを」

「いえ。史料は──それですね。では、こちらです」

 友美の先導で、二人は作務所をくるりと回り込み、書蔵へ向かった。二階建ての蔵が、数列に渡り並んでいる。それだけで街の一区画、その半分を占めていた。

「六番書蔵は、あった」

 首筋に落ちる雪に小震いしながら、友美は蔵の鍵を解く。宮要杉みやかなすぎの扉をひらくと、古びた紙特有の匂いがただよった。やはり壮観なのだろう。雀原はきょろきょろと辺りを見回している。

「こちらです」

 足元に気をつけながら、二階へ。歩くたび床板は鳴るが、不安があるわけではない。

「ええと、この棚ね。では史料を」

「はい」

 雀原から手渡された包みを開き、軽く検分する。抱えてきた六番書蔵の目録、その記載と状態が一致した。間違いなく、貸し出された久城の蔵書だ。

 史料は紐綴じの為、最近の本のように立てては置かない。所定の位置に平積みにする。きちんとその積む順も定められているから、取り出すときに迷うこともない。

「──これでよし。ありがとうございます」

「ええ、こちらこそ。しかし、まあ、ここはいいところだなあ」

 蔵を見回し雀原はいった。友美はそれに同感だと思った。本やその他に囲まれた空間。それを嗜好する者たちにとって、ここは楽園に等しい。

「名残惜しいけど、帰らなくては」

「私用で来られては。貴重書の類いでなければ、お出ししますよ」

「おお、なんと。魅力的な誘いだ。では、いずれ」

「ええ、待ってます」


 蔵を出て雀原が帰る頃には、雪は止んでいた。しかし、空が灰色で支配されていることに変わりはない。

 雀原の帰府後、友美は史料収蔵の旨を春一に報告した。春一は「彼はどんな様子だったか」などと不思議な質問をしたので、友美は「珍しかったようで、きょろきょろ見回してました」と答えた。

 春一が茶を一口啜ったところを見計らって、友美は続ける。

「でも仕方ないですよ。あそこ、とっても楽しい空間ですもの」

 春一も妙子も、それに数瞬聞き惚れていた。

 妙子が尋ねた。

「友美ちゃん。ここ、楽しい?」

 今度は友美が数瞬止まった。しかし、すぐに笑顔を浮かべる。答えは決まりきっていた。

「もちろん!誠心誠意、久城家にご奉公させてもらいます!だって、それが私の選んだ仕事ですもの」


「街府に間者?」

 夜も更けた頃、久城家主人、久城宗徳むねのりは眉をひそめた。その報告をもたらしたのは、彼の最も古く、信頼のおける臣の一人だ。

「はい、街史編纂室に一人、臭い奴がいます」

「さて──」

 宗徳は草巻シガレットを一本取り、それを喫する準備を始める。

「──中か外か、見分けがつかんな」

「三條では。東項とうこうえきの際、ひどく恨みを買いました」

「まあ、なんにせよ、きな臭いな。それに、我々も歳をとった」

「はい。最近では膝が痛んで、歩くのが億劫になってきました」

「身体は大事にしろ。それと、一杯付き合え」

 宗徳は戸棚を差した。蒸留酒がいくつか、水晶硝子の瓶で置いてある。好きなのを選べ。そういうことらしかった。

「では。御相伴に預かります、ご主様」

「ああ、上等なものだ。大事に舐めろよ、筆頭文庫官。それともこう呼ぼうか、親愛なる我が御付武官殿」

「昔の役職で呼ばれても困ります、ご主様。なにせ、いまの暮らし。古書のページをめくる暮らしを、なかなかに気に入ってるもので」

「結構だ。書痴は我らの共通癖だからな」

「では、久城くしろに」

「久城に、みかどに」

 注がれた酒は、彼の部下が淹れた茶とはまた違った趣のある──艶かしさといってもいいかもしれない──色を反射している。

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