第3話 文庫官の或る日 壱

 朝、一日の始まり。友美は窓覆カーテンを開き、冷える初冬の部屋に日光を取り入れる。刺すような冷気は、徐々にその柔らかさを取り戻した。

 窓の外に目をやると、山間の街らしく、家の屋根はうっすらと白化粧を被っている。

「おはよう。冷えるわね」

 火鉢のそばに丸まる猫に挨拶する。老猫は尻尾をぱたりと上下させた。猫なりの挨拶だ。それに答えるように、頭を撫でてやる。頬を撫で、顎下を掻いてやったところで猫は喉を鳴らし始めた。

「火鉢のそばでぬくぬくと。良いご身分ね、おまえ」

 そう言われた猫は、閉じていた目を開き二秒ほど友美を見つめ、また目を閉じた。微かに発せられた「にゃ」という声を聴いた友美は最後に頭を一撫ですると、よいしょと立ち上がり仕事に向かった。

 朝食を済ませ、向かうは久城の御文庫である。

 

 篠原家は確認できるかぎり、八〇〇年の昔より臣家として久城に仕えている。その序列は第六位。よってその屋形は久城の本邸より徒歩で少しの距離にあった。

「うー、冷えるなあ」

 ここより北西の方角にそびえ立つ永山より吹き下ろす寒風は、街に住む人々の悩みの一つだ。

「母さまの言う通り、外套羽織ってて良かったな」

 秋に迎えた一七の誕生日。その祝いに父がくれた、西方の王国製の婦人用外套。やはり寒い国で作られたからであろうか。冬羽織では心許ない永山の厳寒も、この外套は多少和らげてくれた。

 久城本邸の裏門を横切り、十字路を曲がるとそこに建っているのは古蔵とそれに併設された建物だ。

 本邸に比べれば多少小振りな(それでも十分立派である)門をくぐる。裏口から入り、冷えた廊下を進み、作務所の障子を開けた。

「おはようございます」

中に入ると、火鉢の熱が冷え固まった顔の筋肉を溶かしていく。

「はいおはよう」

 解析と研究のために積まれている古書の間から、壮年の男性が顔を覗かせた。

 久城家筆頭御文庫管理官の上鷺かみさぎ春一だ。

 古書分析の第一人者でもあるこの学者は、この御文庫の管理の総責任者、つまるところ筆頭文庫官の職を久城公より賜っていた。

「上鷺さん、今朝は冷えますね」

「そうだね。師走になったら、流石に寒い」

 そう言いながら春一は、小さな台所に備えられている申し訳程度の釜戸で、湯を沸かし始めた。

村上むらがみさんは、まだですか?」

「妙子くんは今日はみてないね。じきに来ると思うけれども」

 久城家御用達鋳物師いもじの六代目粟田聡一が鋳込んだ鉄急須に、茶杓三杯の煎茶を入れる。湯を注ぐ際のとぽとぽという音は、静かな冬の朝ということも相まって、心地よく聴こえた。

「はい。お茶どうぞ」

「ありがとうございます」

 机にコトリ(というよりはゴトリ)という音と共に急須が置かれる。すぐには飲まない。しばらく蒸らし、香りが一番立つ瞬間を狙って湯呑みに注ぐのだ。

 急須から立ち上る細い湯気を眺める。刻一刻と変わり行くそれを見つめていたのは、どれくらいだろうか。微かな香り、その絶頂を友美の鼻は正確に捉えた。

「今だっ!」

 素早く、しかし無音と気品を保ったまま湯呑みに煎茶を注ぐ。

 湯呑みに描かれているのは紅葉。その鮮やかな、しかしなんとも絶妙にくすんだ赤色は、若草のようなやわらかさを感じさせる緑色の煎茶と、互いにその色を引き立て合っていた。

「相変わらずお茶に拘るねえ。友美くんは」

「ええ、お茶が好きですもの。それに、飲むなら美味しいお茶が良いでしょう?」

「まったく、そのとおりだ。すまないが、私にも注いでくれんかね」

「もちろん。どうぞどうぞ」

 煎茶を一口、ホッと一息。

 さて、今日は何をすべきだったかなと思案を巡らせたところで、ガラリと裏戸を開ける音が聞こえた。

 音の主は、開けた障子の隙間からひょっこりと顔を覗かせる。

「おはよう。あら、二人とも早いのね」

 久城家次頭じとう御文庫管理官、村上妙子。寒さで頬を赤らめた彼女は、冷えた表情筋を弛ませそう言った。

「村上さん。おはようございます」

「おはよう、友美ちゃん。そうそう今朝ね、寒さで井戸に氷が張っていて、朝から世話女せわめが困ってたのよ」

「ああ、村上さん家、ここより山の方ですものね」

 妙子の分の煎茶を湯呑みに注ぎつつ、友美は笑声を漏らした。

 外から、若い声が聞こえた。屋敷の台所に丁稚奉公にきている料理屋のせがれの声だった。

「ごしゅ様ご帰還!ご主様ご帰還!ご主様、朝廷への参内よりご帰還なさった!」

「おや、お帰りになったか」

「さて、宗徳様がお帰りとなっては、あれがくるわね」

 妙子はくすりと笑う。しかしその目は据わっていた。

 彼らの主人、久城祿穣守宗徳くしろろくじょうのかみむねのりはその別名を書集卿という。つまり、書痴、乱読家、蔵書狂、ビブリオマニアと呼ばれる類いの人だ。

 都のある人曰く、久城公は禁裏へ参内奉るたびに、都の東にある古書市にお出ましになり、めぼしいものを買い漁ってお帰りになるという。

 黒漆固めの公車くしゃ──伝統に則り、未だに牛車を用いている──が、久城邸大手門より入ってくる。その後ろには、馬引きの荷車があり、荷台には雨避けの油布がかけられている。

 その中身は、創造に難くない。今回の参内も、例に漏れず土産をたんまりとお持ち帰りになったようだった。

 荷車は公車の列から離れ、そのまま本邸を突っ切って裏門から出て、そして御文庫にやってきた。

「上鷺さぁん!居りますか?」

 荷車を馬に牽かせていた男が御文庫の玄関で叫んだ。

「はいはい、居りますよ。ご主様はまたようにお買いになられましたな」

「ええ、今回は特に豊作だったようで。新しいのは安済二〇年、一番古いのは明仂めいろく八年のですよ」

「明仂八年!明暫帝めいざんていの御世じゃないか!またよろしいものを見つけましたな」

 春一は六〇に差し掛かろうとしているとは思えないほどの、どこか子供のような喜声を上げた。彼もまた、彼の主人と同じ人種なのだった。

「というわけだ。この本たちを頼みますよ」

「ええ、勿論」

 そう言って、荷牽きの男は本邸へ去った。

 春一はすぐに二人を呼んだ。

「さて、私はこれを庭に持って行く。妙子くんは固く絞った濡れ布巾、友美くんは縁側の窓を開けとくれ」

「はい」

「わかりました」

 雪が降りそうな空だ。本が濡れるといけない。友美はそう思い、進める足を速めた。

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