幼馴染の歳上お姉さんに世話を焼かれる話

幼馴染の歳上お姉さんに世話を焼かれる話

 部屋に帰ると、結城さんがソファに腰掛けていた。レジ袋から取り出した缶チューハイとチョコレートを片手に、体育座りで小さなパーソナルスペースを確保している。彼女なりの遠慮なのだろう。大きなソファの隅で小動物のように身を寄せる結城さんを見ながら、僕はまずそんなことを思った。


「あっ、ほはへひおかえり

「いや、なんで僕の部屋知ってんの?」


 いつものハイカットスニーカーが玄関にある時点で違和感を抱くべきだったのかもしれない。結城さんはニーハイソックスの爪先でソファの座面を戯れのように撫でながら、チョコレートの最後の一口をハイボールで流し込んだ。そして困惑する僕を見上げるように、笑う。


「おばさんがアンタの様子見てこいって、鍵くれた。ちゃんと生きてるかな、って!」

「ちゃんと連絡してるんだけどな……っじゃなくて、無許可!!」

「……事後承諾? まぁ、生きてるならよし!」


 結城さんは、小さい頃から何も変わらない。背丈も、行動も、どこか猫のような性格も。

 いつのまにか追い越してしまい、男にしては小柄な僕より彼女の身長は低い。3歳ほど歳が離れているとは思えないほどだ。まぁ、それを指摘すると細い足で蹴りが飛んできそうだから言わないようにしているのだけど。

 小さな頃から、結城さんは僕にとっての幼馴染であり、姉であり、先輩であり、初恋の相手だった。どこかボーイッシュな雰囲気を感じさせる快活な近所のお姉さんは大人になり、かつてショートボブだった髪を伸ばして無造作に纏めている。


 僕が実家を出て社会に揉まれることを選んだ時、結城さんは画面越しに僕を笑い飛ばした。『どうせすぐ帰ってくるでしょw』という文字列が表示されるトーク画面にやや苛立ちながら、僕は燻っていた恋心を静かに仕舞った。想いを伝えるには、大人になりすぎたから。

 それからは、非日常を日常に変えていく作業だった。何かが擦り減っていくのを感じながら、僕はただ淡々と日々が過ぎていくのを黙って見送っていた。畳んでいない洗濯物は積み上がり、いつか整理しようと思っていたポストはチラシや何かの厳しい書類で溢れ返る。日々の生活に必死で、身の回りを蔑ろにし過ぎたのだ。


 今、部屋の洗濯物は畳まれ、整理された書類が机の上に並べられている。どこか大雑把だった結城さんが、彼女なりに苦心して部屋の片付けをしてくれたのだ。僕の摩耗した心が、小さく跳ねる。


「……片付けてくれたの?」

「へへーん、おねーさんに任せなさい! 待ってる間ヒマだったから、頑張っちゃいました!」

「悪いって。もう子供じゃないんだから、自分でもできるのに……」


 感謝の言葉代わりに憎まれ口を叩きながら、僕は並んだ書類を片付けようと屈む。ガラス製のローテーブルは昨日まで埃だらけだったのに、今は大まかに拭き取られていた。普段なら目もくれない場所だ。それだけ日々の生活に必死で、何もする余裕が無かったということなのだろうけど。

 何か引っ張られるような違和感を感じ、後ろを振り返る。ジャケットの裾を引っ張り、結城さんが悪戯っぽく笑っていた。


「スーツ、シワになっちゃうよ?」


 脱いだジャケットをハンガーに掛け、床に座った僕はソファに座って脚を組む結城さんの姿をただ眺める。脛とふくらはぎを重ね、細い足をぶらぶらと所在なげに揺らすのは昔からの癖だ。振り子のように安定しない運動が視界にちらつき、僕は言い様のない懐かしさを覚えた。


「……身の回り、しっかりしないとダメだよ。仕事が忙しいのはわかるけど、アンタはひとりで抱え込もうとしすぎるから……」

「……はい、何も言い返せないです」


 叱られている。成人男性が、数年ぶりに。いや、厳密に言えば上司やクライアントから日々詰められているのだけど、生活態度について叱られたのは久しぶりだ。

 せめて外では……と思っていた「ちゃんとした大人」への擬態の皺寄せなのだろう。日々の生活に忙殺され蔑ろにしてきた何かを唯一拾い上げたのは、結城さんだった。彼女は肉親でもなんでもなく、ただ昔から仲が良かっただけの幼馴染なのに。家まで来て、僕の世話をする義理なんか無いのに。

 彼女の顔を見上げたのは、幼少期以来だった。相変わらずあどけない顔で、それでも僕がかつて憧れていた頼れる年上のお姉さんの面影は残っている。

 やけに響くのは自分の鼓動だ。違う、この感情は幼少期のうちに卒業しておくべきで、大人になった今は出すべきではないのに。理性が働いている間に、この衝動を抑えなければ。僕はこの期に及んで「ちゃんとした大人」の皮を被ろうと、せめてワイシャツの襟を正した。


「頑張ってるのはわかってるんだよ。でも、無理しすぎるのは良くない、っていうか……」


 視線が合う。結城さんが、僕の眼を見つめている。静かに目を細めて、薄く笑っている。

 彼女の揺れる爪先が、僕の膝にコツコツとぶつかる。抑えろ。抑えろ。抑えろ。僕の理性とは裏腹に、彼女はどこか大人びた慈しみの笑みを浮かべる。


「……だから、帰っておいでよ。おねーさんに、甘えていいんだよ?」


 結城さんはソファの上で目一杯腕を伸ばす。

 僕は、自らの衝動に抗うことができなかった。自分より小さくて大きな体に顔を寄せ、子供のように泣きじゃくる。

 やってしまった。理性が後悔と自己嫌悪から来るエラーを吐き出し続けているが、情念は抑えられない。僕は折れたワイシャツの襟を直すことさえ出来ずに、ただ自らの思いをぽつりぽつりと吐き散らす。結城さんはそれを否定も肯定もせず、ただ僕の頭を撫でた。


「違うんだよ、違う。がんばれなかったんだよ、僕は……」

「無理して大人になろうとするからだよ。もっと私に頼ってほしかったのに……」


 結城さんの前では格好つけたかったのに。こんな姿見せたくなくて、大人になろうとしたのに。どうしようもなく、彼女のことが好きだったのに。

 伝えられなかった思いが口を突いて出そうになり、僕は咄嗟に口を噤む。これを伝えてしまっては、もう元の関係には戻れない気がするのだ。

 彼女の薄い胸が上下し、鼓動が跳ねた。僕は結城さんの膝の上に頭を乗せ、ほのかに香る香水の匂いを鼻腔に感じている。


「……結城さん、ありがとう。おかげで落ち着いた」

「うんうん、おねーさんに任せなって。頼りない弟くんに喝を入れるには、これくらいやらないと!」


 僕はどうしようもなく弱い。彼女に頼りきりで、独り立ちしないといけないことは分かっている。だからこそ、こんな事はこれきりにするべきなのだ。結城さんとは恋人でもなんでもなく、ただの幼馴染なのだから。


 楽しそうに足をばたつかせる彼女に一礼をし、僕は結城さんのためのもてなしをしようとキッチンに駆ける。せめてハイボールの肴でも作って、埋め合わせしなければ。その時間が己を冷静にし、気まずさを和らげてくれるはずだ。僕はそう考え、結城さんの好みを必死に思い起こしながら冷蔵庫の中身を確認した。


「口に合えばいいんだけど……」

「アンタ、料理とかできるんだ……。ゴミ箱の中身カップ麺だらけだったよ?」

「……自分のための料理って、めんどくさいじゃん」

「そういうとこだぞ!!」


 薄く切ったジャガイモにチーズを乗せて焼いただけの簡単な料理だ。僕は結城さんが既に買っていた僕の分のハイボール缶を開け、軽く乾杯する。

 こうやって並んでいる姿は、他人から見れば恋人同士なのだろうか。このままの関係性でも、僕たちは仲良く過ごしていけるのかもしれない。でも、そういう態度が一番失礼なのかも。だとしたら、僕にできる事はひとつだ。


「結城さん、あのさ……」

「んー、どした?」


 秘めていた思いを伝えるなら、きっと今しかない。僕はハイボールを呷り、喉の渇きを潤した。


「ずっと、あなたの事が」

「……待って?」


 先に行動を起こしたのは、結城さんだ。結城さんの方に向き直ろうとした僕の頬を押さえ、そのまま囁く。濡れた唇が水音を奏でた。


「酔った勢いで告白とかダメだよ、坊や」


 僕は顔を伏せ、静かに屈服する。

 聞いたことのない声色だった。快活で世話焼き気質の彼女の口から発せられる、どこか小悪魔的な言葉。僕は背筋がゾクゾクするのを感じながら、次の言葉を継げずにただ口をパクパクさせた。


 結城さんは、猫だ。捉えようのないその存在を前に、僕はただ敗北を感じるしかないのかもしれない。

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