第3話 ブルーオーシャンを泳げるか?

 死は狩猟的にやってくる。

 それに対して我々は運と実力で抗う。

 俺はこの二つが物をいうのだと強く信じている。

 死というライオンに対して獲物の我々はファイト・オア・フライトを発動して抗うのだ。戦うか逃げるかの判断は多少まずさがあっても素早く下さなければならない。

 拙速せっそくを聞くということだ。

 重ねて述べるが我々の死は狩猟的だ。

 決して農耕的ではない。これは幸運だ。

 ブタやトマトではない限り、死は育まれるものではない。育むべきは生だ。

 佐々木は狩猟的に死んだ。不運にもライオンに巡り合ったようなものだ。

 ただし、ライオンは噛み殺すがスポーツカーはき殺した。

 万事にして、ブレーキを踏めない者にアクセルを踏ませてはならない。

 あいつが死んでから俺は黒くどんよりと曇っている。

 九日間の憂鬱。晴れることなく、なお続く。

 憂いを帯びた日常の中で、あいつがかつて放った言葉が不意に飛び出してくる。

「ブルーオーシャンを泳げると思うのか?」

 あれはなんのときだったか。

 ああ、そうだ。俺が転職する前だ。餞別せんべつのようにあいつからアドバイスを送られたときのことだ。

 佐々木について思い出す。

 同じ会社の同期。

 気の置けない友人。

 なんでもそつなくこなす男。

 何ごとにつけても動きが軽やかな男。

 ついでに色男。

 仕事ができる奴にも色々といるが、涼やかな顔で淀みなく万事こなしていくのがあいつのスタイル。才ある者とはかの如く。そんなところ。

 俺は三年前に転職した。

 理由は、

「やりたいことは今の仕事じゃない」

 これだけだ。

 しかしながら、俺を戸惑わせた要因というのがあって、

「やりたいことは自分にとっても業界にとっても未知の領域上にある」

 ということだった。

 飲みに誘った佐々木にこの悩みを相談してみたところ、先ほどの言葉が投げかけられたのだ。

 そこからはこのように続いた。

「それって、フロンティアとかそういうたぐいの話か?」

 俺の質問に、

「そうだよ」

 とだけ佐々木は答えた。

「だとしたら、泳いでみないと分からないじゃないか」

 心の底から思ったことをそのまま言葉にした。

「うん、たしかにその通りだ。でもそれでは足りないと僕は思うんだ」

 この台詞だけでは反感を抱く人もいるかもしれない。でも、あいつの表情や息づかいを見て聞いていた俺はそんなことを思わなかった。

 あいつの表情は優越というよりも憂慮を表していて、息づかいはとても静かだった。

「レッドオーシャンは分かるか?」

「レッドオーシャンね。ごめん、分からない」

「そうか。ブルーオーシャンの反対で激戦区のことを指すんだ。争ってばかりの場所だから血の海なんだとさ」

 なるほど、いい得て妙だ。

 争えばあちこちで血が滴る。海は赤く染まる。

 未踏の海というのはなんだか表現的におかしいが、未踏あるいは未泳だから青いままでいられるのだ。

「レッドオーシャンが赤いのは」

 そこで佐々木が熱燗あつかんをくいっとやったので、俺はあいつのお猪口ちょこにもう一杯ついでやった。

 そうだった。あれはよく冷えた冬の夜だった。

「レッドオーシャンが赤いのは、みんながその海の泳ぎかたを知っていて、みんな同じような泳ぎかたをしてしのぎを削っているからだ。だから赤い」

 佐々木のいいたいことがだんだんと分かってきたような気がした。

「つまり、俺に泳ぐスキルと体力があるかって聞きたいんだな?」

 この要約には自信があった。けど、

「それだけでは決まらないさ」

 と返されてしまった。

「なぜ、レッドオーシャンでは同じような泳ぎかたをしていると思う?」

 唐突だったのもあって、俺は返答ができず首を横に振った。

「考えてみろよ、現実の海を。赤とか青とかの話ではなくて、例えば世界には遊泳禁止の場所があるだろ? 中川はそういう場所について確かめもせずに泳ぐのか? 海にはその海の泳ぎかたがある。さめの泳ぐ海、渦潮を巻く海、凍てつく海、穏やかだけど猛毒を持つ生物がたくさん住む海。僕たちはそういう、泳がなくても手に入る情報をまず手に入れるだろ? 話を戻すと、ブルーオーシャンの泳ぎかたもそういった情報や経験からなされていくんだ」

 佐々木の饒舌じょうぜつに対して俺は舌を巻くしかなかった。

「まぁ、そういう海だったら無理には泳がないな。船を使うという選択肢もあるし」

 たじろいだ返答の途中で、

「そうだろ? 俺はさっき『ブルーオーシャンを泳げるか?』っていったけど、律儀に泳がなくていいんだ。律儀に泳がなくてもどんな海かの情報は手に入る。フロンティアといえども完全な未踏という訳じゃないかもしれないしさ。まずは海と親しむことだよ」

 と、佐々木は笑みで返した。

「フロンティアって呼びづらいな、それ」

 気持ちと体がじんわりと温まっていたせいで、二人とも笑った。

「商業的にはフロンティアなんだよ」

 と笑いながら佐々木はいった。

 商業的フロンティア。

 商機があればどこでもフロンティアだ。

 あの会話はとても有益だった。

 三年たった今、当時語らったフロンティアを俺は踏みしめている。

 九日前、佐々木は死んだ。

 なぁ、佐々木。どうして死をひらりとかわして生きてくれなかったんだ、お前の持つ軽やかさで。

 お前が語らったお前自身の夢はどうするんだ?

 なかなか興味をそそる話だったからこのまま実現しないのは残念だし、悔しい。

 俺はお前の夢を託せる人間を探そうと思う。

「勝手なことを」

 と思うかもしれないが、ひとつまかせてくれ。なにせ、お前の海はまだ青いままだからな。

 丁度、俺の憂いも晴れた。潮時だな。

 ありがとう、佐々木。

 じゃ、さようなら。

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