砂色男と少女

涼月

第1話

 あぁまただ、と亜湖は思った。


 ついと視界の端に映った人影を目で追って、彼女はふうと息を吐く。隣で歩く友人の麻里はそのことに気付く様子もない。亜湖はいつからか、人に気付かれぬように鬱蒼とした顔をすることができるようになっていた。人に嫌われないようにするにも、それなりの苦労が必要なのである。亜湖はなんでもない話をする麻里の方に顔を戻すと、愛想良く笑って見せた。


 また、というのはあの影を以前にも見たことがあるからだ。それも一度や二度ではない。その影――もとい男はいつも、誰もが知るアニメの警部かと見紛うようなトレンチコートに中折れハットを目深に被り、吸い込まれそうな黒の雨傘を片手に持っている。いつも、というのは勿論天気や季節関係なくということで、その姿ははっきり言って異様だ。それに加え、なまじ背が高いのもその不気味さをより一層際立たせていた。


 「ねぇ亜湖、話聞いてた?」


 不意に会話のボールが飛んできて、彼女の意識が戻される。ぼんやりした状態は実は脳のデフォルトなのだとどこかで見たことがあるが、亜湖の立場にとってそれは命取りにも成り得る。優等生とは言え、信頼が地に落ちるのはいつだって些細なことがきっかけなのだ。


 「ごめん、ちゃんと聞いてなかった」


 正直にそう告白すると麻里は、亜湖は生徒会だし忙しいもんねー、と分かった風に頷いた。屈託のない笑顔は、ついつい上辺だけで切り抜けようとしてしまう彼女の心に刺さる。麻里のように人懐っこく真っすぐな性格は得だ。亜湖も自分の直観に従って生きていれば今よりずっと楽なのであろうが、物心ついた頃から半ば本能のようにそうしてきた彼女にとっては、今更無理な相談なのだ。それに、、今の亜湖がいるとも言える。取り繕うことは醜いことなのかもしれないが、そうせねば手に入らぬ幸せがあると亜湖は思うし、そうしなければ今の平穏な生活は手に入らなかったと知っている。


 「まあでも今日はさ!気晴らしにパンケーキでも食べに行こうよ!」

 「うん」


 首を縦に振ると、麻里はやったー!と言いながらくるりと回った。校則より少し短いスカートの裾がひらりと舞って、彼女は破顔する。亜湖はその表情にいくらか救われた気になりつつも、何も起こらなければいいけど、とほんの一瞬顔を翳らせた。


 *


 その男を見かけるようになったのは、中学に上がるか上がらないかというような頃で細かいことはあまり覚えていない。それ以前に見かけたことがあるかと問われれば、見たことがあるような気もする。それほどにその男は亜湖の視界に自然と入り込んでは、気づかぬ内に姿を消していた。

 ただ視界に入るだけなら、まだいい。だが、問題はその男と遭遇すると決まって何か事件が起こるということだ。事件と言っても、亜湖自身が巻き込まれるというわけではなく、彼女の周りの人が巻き込まれるわけでもない。かと言って無視できるほどの小さな事件というわけでもなく、そうなれば亜湖としてもいい気がしないのは当然のことだった。


 事件が起こるのは大抵亜湖の住む街か周辺の街で、被害者は急にぱたりと消息を絶つ。被害者の足取りは途中までは防犯カメラなどに映ってはいるものの、彼らはするりとカメラの網を潜って消えてしまう。所持品もろとも消えてしまうので、何者かに殺されたのか、それとも自らの意志で姿を消したのかも分からない。もし事の真相が前者なのであればもはや完全犯罪であるし、後者であればこうも立て続けに人が消えることやその期間の長さに疑問が残る――最初に人が消えたのはもう6年近く前の話だ。いずれにせよ、謎は多く残り捜査は行き詰っていた。


 男と事件の関連性に亜湖が気が付いたのは今から4年前、中学2年生の時だ。その頃には不気味さに慣れ男の影を見ても怯えることはなくなり、空気のように扱えるようになっていた。

 気が付くきっかけになったのは、当時地元で話題になっていた小学生の行方不明事件だ。なんとはなしに目に入った、電柱に貼られた「目撃情報求む」のポスターが亜湖の記憶をフラッシュバックさせる。確かあの日ではなかったか、久方ぶりにあの男を見たのは。

 足を止め記憶を手繰り寄せると、それはすぐに思い出せた。あの日、部活で帰りが遅くなり薄暗くなった家路を一人歩いていた。一刻も早く家に入りたいと俯き加減に急ぐ。と、ふと建物の影が揺らめいたのが見えて亜湖はそちらに目をやった。そっと目を凝らして影の狭間を伺うと、砂色のトレンチコートが閃いて、消えた。亜湖は気になってその先を追った。

 歩調を早め、男の消えた路地へと向かう。くるりと辺りを見渡してビルの谷間を覗き込んだ。

 ――男は忽然とその姿を消していた。


 そんな出来事だったから、翌日朝のニュースで行方不明者が出たと聞いた時、亜湖が男を連想したのは必然と言える。

 もしかしたらあの男が。被害者が最後に目撃されたのは丁度あの辺りだった。

 そう思うと形容し難い恐怖がぞわぞわと亜湖の背筋を這った。タイミングが悪ければ襲われたのは自分だったかもしれない。そんな自分本位な考えが頭を掠める。何か起こった時に自分を一番に心配してしまうのは生き物として当然の行為だが、そう思ったことに気が付くと嫌な気分にぐらいはなる。亜湖はその日中、形にならない鬱々とした気持ちのまま過ごした。


 そして、事件は何一つ発展しないまま、時ばかりが流れた。

 時は無情だ。この事件も、その前の事件も時間が経てば世間は忘れた。あの日電柱に貼られていたポスターは色褪せ、いつしか違法なものとして剝がされた。残された家族は声を落とし、内心諦め次なる人生を歩み始める。そう簡単に忘れられるものではないが、日々を送る上で忘れなければやっていけないことだってある。これは、そういうものだったのだ。


 *


 しかし、事件は再び起こる。

 それはあの事件から約2年後のこと。亜湖が高校に入学して新生活に慣れ始めたころのことだった。

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