第22話 リアルな夢と微睡の現実 ❺

「そんな……こと、言ったって……!」


 小さく掠れそうな声で、けれど懸命に踏ん張るように楓ちゃんが口を開く。

 握りしめた拳はやっぱり震えていて、でも未琴先輩から視線を外さなかった。


「神楽坂先輩の仰っていることは、わかります。私だって前に進むことを否定するつもりはありません。ただ、たける先輩に今の自分を認めて欲しかっただけなんです……!」


 蛇に睨まれた蛙のように固まってしまいそうになりながら、楓ちゃんは未琴先輩を見つめる。

 静かなる猛獣とか弱気な小動物のような格差を前にしても、彼女はただ怯えるだけで済まそうとはしなかった。


「私は尊先輩が好きだから。今の尊先輩も好きだから。私はそんな先輩と、真正面から向き合いたいだけなんです」

「うん。私も楓ちゃんの言っていることはわかるよ。でもあなたのそれは、ただのわがままなんじゃないかなって思うんだよ」

「……え?」


 頑張って声を上げていた楓ちゃんの表情が固まる。

 そんな彼女へ、未琴先輩は再びその深淵の瞳をストレートに向けた。


「楓ちゃんは、尊くんが離れていくのが怖かっただけじゃない? 変わってしまったら、今と同じようにはいかないかもしれないから。だから今手が届くうちに自分の元に止めておきたかった。抱き締めて、放したくなかった」

「そ、そんな、ことは…………」

「自分が今の尊くんを受け入れればそれで問題ない。前に進んだ先の未知よりも、安定の今を選んだ。確実に自分の手の内に収められる、今のままを。違う?」

「ち、違います……そ、そんな……!」


 未琴先輩の淡々とした言葉がしっとりと、しかし確実に楓ちゃんを追い詰めていた。

 俺だって楓ちゃんがそういう風に考えて接してきたとは思えないけれど。

 でもそう指摘されて俯く楓ちゃんは、プルプルと目に見えて震えていた。


「楓ちゃんは根本的に欲張りなんだよね。だから、自分が掴めるものを逃したくなかった。だから、余計な変化なんて求めてない。だから────」

「未琴先輩、もうその辺でやめてください」


 狙った獲物を仕留めるが如く言葉を放ち続ける未琴先輩に、俺は耐え切れずに割って入った。

 楓ちゃんが散々言われるのも嫌だったし、未琴先輩が人を貶めるようなことを言うのも嫌だった。


「やめてください。喧嘩なんて、してほしくない」

「……そうだね。ごめん、ちょっとムキになっちゃったかな」


 俺の横入りに、未琴先輩は一呼吸置いてそう頷いた。

 重々しい雰囲気は若干引いて、元来の落ち着いた様子が戻る。

 でもやっぱり、彼女が持つそもそもの凄みは健在だ。


 ただそれでも、楓ちゃんが必要以上に追い詰められるのは避けられた筈だ。

 俺が不甲斐ないせいで、その処遇で二人が揉めるなんて嫌すぎる。

 それでどちらかが傷付くなんて。俺にそこまでの価値なんてないんだから。


「楓ちゃん、大丈夫? あんまり気にしなくても────」

「確かに、私は欲張りでわがままです」


 俺が身を寄せようとした時、楓ちゃんが顔を上げた。

 膝立ちをして身を乗り出し、未琴先輩に食らいつくようにまっすぐ向き合う。


「そうです、私は欲張りなんです。周りに何もなかった辛さを知ってるから、欲しいものを必要以上に求めてしまう。手に入るものは全部欲しいし、手にしたものは放したくない。確かに私はそういう子です。だから確かに神楽坂先輩の言う通り、私は好きな人を絶対に放したくなんてない……!」

「楓ちゃん……」


 いつも控えめで周りのみんなに気圧されがちな楓ちゃんが、未琴先輩に対し堂々と立ち向かっている。

 それも、自らの弱さを受け入れながら。それを認めながら、否定することなく。


 昔はとても貧しく、食べるものに困ったこともあるという彼女。

 両親が昔から忙しくて、家で一人過ごすことが多かったとも言っていた。


 そんな楓ちゃんを思えば、欲するものを無限に受け入れ、手にしたものを決して放さずにいられるその力は、まさしく彼女に則ったものだと言える。

 寂しさを恐れ一人であること拒んだあさひが、大切な人たちと繋がり、孤独を回避するための能力を持っているのと同じように。


「そんな私の強欲は、確かにみっともなくって、欠点だと思います。でも、尊先輩はそれでいいと言ってくれました。節操なくなんてないって、ありのままでいいって。だから、私だって、尊先輩のありのままを受け入れたい。そう思ったって、いいじゃないですか……!」

「…………」


 楓ちゃんの弁舌に、未琴先輩は僅かな沈黙を返した。

 決して彼女に気圧されたというわけではないだろうけれど、でもその精一杯の啖呵にはかなりの意外性があったのは確かで。

 それを吟味するように、未琴先輩は楓ちゃんを見つめ続けている。


 二人にここまで言わせて、言い合せて、俺がこのままでいいわけがない。

 結局俺のヘタレっぷり、弱さが招いている軋轢だ。

 未琴先輩も楓ちゃんも俺のことを考えてくれていて、だからこそ意見がそれている。

 そこに答えを出すのは、俺じゃなくちゃダメだ。


「ありがとう、楓ちゃん。それに未琴先輩も」


 だから俺は、身を乗り出す楓ちゃんの肩を押さえて座らせて、二人を順繰りに見渡した。

 それによって落ち着きを取り戻した楓ちゃんの目と、静かながら鋭い未琴先輩の瞳が集まる。


「まずは、ごめん。俺が情けないばっかりに、二人にこんなことを言わせちゃって」

「いえ、そんなことは……」

「ううん。特に楓ちゃんには、散々泣き言聞かせて慰めてもらって。それでこんなに庇ってもらって。ホント、申し訳ない」


 頭を下げると、楓ちゃんはふるふると慌てて首を横に振った。


「でも楓ちゃん。今回に於いては俺は、変わりたいと思うんだ。先に進みたい。このままの、しょーもない俺のままではいたくないんだ」

「尊、先輩……」

「別に君と意見が合わないとか、未琴先輩の味方をするとか、そういうんじゃなくて。俺は、俺なんかのことを好きになってくれる君たちに、ちゃんと誇れる自分になりたいんだよ」


 楓ちゃんの許容は暖かく、その抱擁は心地いい。

 彼女が受け入れてくれる。その安心感に身を委ねれば、俺はきっと幸せになれるかもしれない。

 でも今の俺は、そのぬるま湯に浸り続けてはいけないと思うから。


 たまには甘えたくなってしまうかもしれないけど。

 でも、そこにズブズブにのめり込んでしまっては、きっといつまで経ってもくだらない男のままだ。


「だから、ごめん。でもありがとう、今の俺も好きだって言ってくれて。でも俺、もっと君に好きになってもらえるようなやつになりたいから」

「………………はい」


 楓ちゃんはその表情に戸惑いを多く浮かべながら、けれど俺の目をしっかりと見た。

 そして俺の手を両手で大事そうに握って、ゆっくりと頷く。


「わかりました。尊先輩がそう思ってるのなら、私はそんな先輩を受け入れます。私だって、もっと素敵な尊先輩を見たいですし」

「……なんだろう。私が正しかったってことなのに、すごくモヤモヤする」


 俺の意見を飲み込んでくれた楓ちゃんの様子を眺めながら、未琴先輩は苦々しげに言った。

 非の打ち所がない麗しい相貌の中で、眉がくくっと寄っていた。


 そんな不平のこもった言葉に楓ちゃんは少しビクッとしながりも、俺の手をしっかり握ったまま未琴先輩へと向き直った。

 そこには逃げ出さない覚悟と、そして僅かな労りの色が浮かんでいる。


「神楽坂先輩。きっとそれは、嫉妬、じゃないでしょうか」

「嫉妬……?」

「はい。どんなに今の私たちの状況を受け入れていたって、やっぱり嫉妬はしちゃいますよ。私だってそうです。神楽坂先輩は、尊先輩が私といることに嫉妬されてるんです」

「…………」


 恐る恐る告げられた言葉に、未琴先輩は小さく息を飲んだ。

 恋という感情の認識があやふやだと言っている彼女にとって、嫉妬もまた未知のものだったのかもしれない。

 俺も未琴先輩が嫉妬に焦がれるなんて想像できないと思ったけれど。

 でも彼女が俺のこと好きだと言ってくれるその純粋な気持ちを考えれば、それは当然のことだった。


「嫉妬……。この、妙にざわざわする、感じが……」

「はい。嫉妬は別に悪いことじゃありません。恋愛においては、上手く使うことも必要だと思います。でも、その気持ちの向け方を間違えたら、その炎は大切な人も傷つけてしまう。自分自身も……」


 未琴先輩は、俺が他のみんなと恋する様を観察したいから、他の子と仲良くするのは構わないと言っていた。

 事実、先月の夏祭り辺りには、世界を分断してまであさひと交流を深めるところを肯定した。

 でもだからって何も思わないわけはなくて。その感情が今回顕著に出てしまったのだとしたら。


 俺がみんなと楽しく過ごし、楓ちゃんの優しさに蕩かされた様を気に食わなく思うのも当然だ。


「そっか、そうだね。だから私、どうしても我慢できなかったんだ。間違った道に唆してる楓ちゃんと、尊くんが仲良くしてるから。間違いがわかった今だって、そうやってわかり合ってる風にしちゃってるから」


 ふんふんと頷いて、未琴先輩は表情を和らげた。

 けれど雰囲気はむしろ重くなっていって、その黒い瞳の闇が深くなっているように思えた。


「まぁでも、尊くんはやっぱり前に進んでいくことを望んでる。私の方が尊くんのことをわかってあげられているんだよ、楓ちゃん」

「────確かに俺はもっと強くなりたいと思ってます。このままじゃダメだって。だから、未琴先輩。俺は、あなたと向き合うことから逃げません」


 自らの正しさを確かめるようにそう口にする未琴先輩。

 そんな彼女に俺は、楓ちゃんの手を放して真正面から相対した。


「未琴先輩の俺への気持ちは嬉しいです。それで間違ったことをしてしまうことを、その気持ちにまだちゃんと応えられていない俺には、あんまり責められません。でもやっぱり、ダメなものはダメだと言いますよ」

「どうして? 私はちゃんと、『なかったこと』になんてしなかった。思い出はちゃんとあるでしょ?」

「でも、現実じゃなくなった。本当ではなくなってしまった。それは、未琴先輩自身がよくわかってるんじゃありませんか?」

「…………」


 記憶が残っていれば同じだと言う未琴先輩。

 でもそれが違うということを、彼女は今回のことではっきりと示している。


「夢の中の未琴先輩は、俺たちと楽しく海で遊んでいた。それは、夢だからこそですよね。海に入れない未琴先輩は、夢の中でしかそうやって一緒に遊ぶことができなかったんだ」

「それは……」

「確かにはっきりとした思い出があれば、現実と似たように心に残るかもしれない。でも事実が消えてしまったらやっぱり虚しさが残る。それにこの夢は、俺だけが見ている夢です。みんなと過ごした思い出を、そのみんなと共有できないなんてあんまりだ」


 俺の言葉に未琴先輩は微かに瞳を伏せた。

 今回、俺との約束の抜け道を探すような方法をとった彼女には、後ろめたさのようなものがあるのかもしれない。

 だとすればそれもまた、嫉妬という扱いにくい感情が彼女の中で渦巻いていたからこそなんだろう。


「でも、私は結構工夫したんだよ? 尊くんが眠るたびに前の夢に繋げて、本来過ごすであろう日々を崩さないようにしたんだから。不和は、楓ちゃんが現実を夢に引っ張ったから生まれたものだし……」

「はい、それでもです。どんなにリアルでも、夢にしてしまった時点で、どこまで行っても事実じゃなくなっちゃうんですよ。それは『なかったこと』になるのと限りなく同じなんです」


 たまたま楓ちゃんが俺の夢を見ることができたから、認識の共有はできるけれど。

 でもそれを除けば、夢の中の思い出は俺だけにしかなくって、この世界にとっては存在しないものだ。

 俺がちゃんと覚えられているからいいだなんて、そうは思えない。


「でも……」

「未琴先輩。一緒に恋をしようって言ってくれたじゃないですか。それは、上手くいくことだけを重ねていくだけじゃないって、俺は思いますよ。嫌なことがあったり、嫉妬したり苦しかったり、喧嘩することだってあるかもしれない。でも、そんな色々をひっくるめて俺たちの思い出です。嫌なことを追いやって、綺麗な部分だけ残したって意味がない。これじゃあ、未琴先輩がわかりたい恋を知ることなんてできないですよ……!」

「っ…………」


 こうやって気持ちをぶつけるのだって、辛くて苦しい。

 あなたは間違っているだなんて、正面切って言いたくない。

 でも俺は未琴先輩と恋をしていくと決めたし、それに、ちゃんと向き合えるように強くなるって決めた。

 だから今、弱気に逃げて目を背けるわけにはいかないんだ。


「そう、なのかな……私は……」


 身を乗り出し、強く語りかける俺。

 未琴先輩はこちらを窺い見て、その黒い瞳を僅かに泳がせた。

 少なくない後ろめたさがあったであろう彼女には、俺の言っている意味がわかってきたのかもしれない。


「これじゃあ、ダメ……? 私は、また間違ったの? でも私は、尊くんのことを考えて……」

「俺のことを尊重しようとしてくれた、その気持ちは間違っていないです。それは嬉しいんです。でもやっぱり、もう少しやり方を考えて欲しかった。これじゃあ、楽しい合宿の思い出が歪んでしまう。未琴先輩だって、どっちの合宿も楽しかったですよね?」


 小さく頷く未琴先輩。


「…………尊くん、私のこと怒ってる?」

「そう、ですね……怒ってます。どうしてこうする前に、その気持ちを聞かせてくれなかったのかって」

「…………」


 俺が答えると、未琴先輩は珍しく意気を落とした。

 表情にはあまり現れていないけれど、ションボリしているように感じられなくもない。

 でもダメなことはダメだと、悪いことにはちゃんと怒らないと、俺たちの関係は前に進まない。

 だから俺は気負うことなく、しっかりと彼女に向き合った。

 これもまた、俺たちの恋なんだと。


 楓ちゃんはといえば、俺たちのやりとりをハラハラと見守っていて。

 縋るように、いや俺を支えんとしてから、腕をちょこんと掴んできた。


 重くもやや力の抜けた未琴先輩の瞳が俺を窺い、手を伝うようにして楓ちゃんへと向かう。

 そしてゆっくりと息を吐いてから、小さく口を開いた。


「────ごめんなさい」


 目を伏せながら弱々しく発せられた言葉。

 苦々しくも確かに謝罪の意が込められたそれを、未琴先輩がどこか縋るように口にする。


「ごめんなさい、尊くん。嫌いに、ならないで……」

「嫌いになったりは、しないですけど。でも……」

「ごめんなさい」


 何度もそう繰り返して、未琴先輩はゆっくりと膝を立てた。

 伏せた瞳を真っ直ぐに俺へと向け、身を乗り出す。

 黒く、深く、暗い瞳がしっかりと俺を捉えて、伸びた手が頬にそっと触れた。


「ごめんなさい。私、この気持ちをどう処理したらいいのか、わからないの────」

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