第23話 全てを許す慈愛の抱擁 ●
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「おはよう、
「────ッ!」
未琴先輩の静かな声に導かれ、俺の意識は急激に覚醒した。
まるで深い闇の底から引っ張り上げられたかのように、重苦しさから解放される感覚に見舞われる。
バッと目を見開いてみれば、確認できるのは俺を見下ろす未琴先輩の姿。
悪夢から目覚めたかのように慌てて覚醒した俺を、どこか面白がるように口元を緩めている。
そんな彼女見つけて、俺は自らが襲われた感覚が錯覚だと認識することができた。
目の前にあるのは、なんてことない平穏な時間だけだ。
「おはよう、尊くん。こんなところで寝ちゃうなんて、君はなかなか呑気なんだね」
「お、おはようございます。いやぁ、気が付いたら寝てたみたいで……」
目の前に立つ未琴先輩は、俺を見下ろしながらそっと頭を撫でてきた。
その滑らかな感覚を心地よく思いながら、俺は今の自分の状況に意識を向けた。
ここは学校の最寄駅の構内。そのベンチ。
屋内とはいえ外と直結しているからななかなか暑くって、今もベタベタした汗がひっきりなしに吹き出している。
こんなところでうつらうつらと居眠りしていたんだから、自分の神経の図太さにはホトホト呆れる。
俺たちボランティア部は今日から合宿で、その出発のための集合をここですることになっている。
変に目が冴えてしまったから早く来てみたけれど、座って待っていたら妙に眠気が襲ってきて。
だから俺はこんなクソ暑いところで眠りこけてなんていたんだった。多分。
そう。今日から合宿。みんなで海に行くんだ。
「────あれは、夢だった、のか……?」
頭の中に渦巻く妙な感覚に、俺は頭を掻いた。
なんだかついさっきまでその合宿を既に過ごしていたような気がする。
でも、今まさに合宿に向けて集合しているわけだし、そんなことはありえない。
みんなとの海が楽しみすぎて、居眠りの中で妄想に耽っていたんだろうか。
ただ、夢にしてはやけにリアルだったような……。
「ねぇ尊くん」
ボヤけた頭を巡らせていた時、未琴先輩がまた声を掛けてきた。
気が付けば俺の隣に腰を下ろしていて、真横からこちらを見つめてくる。
その声に引っ張られるように、俺の意識は現実に返り咲いた。
「なにボーッとしてるの? 私がこうして起こしてあげたのに、もしかして他の子のことでも考えてた?」
「……? あ、いえ、そんなことは。ただ寝ぼけてただけというか」
「ふぅん」
未琴先輩は目を細めながらその細い指を俺の頬に這わせる。
白魚のような艶やかな指先がくすぐるように踊り、顎の方まで滑った。
そのなめらかな感覚にドキドキさせられて、妙な感覚は霞んでいく。
「でも、なんか変なことを考えてた気がするよ? ほら、言ってみようか」
黒い瞳は俺の心を見透かすように覗き込んできて、その静かな輝きに抵抗することなんてできなかった。
それに、まるで幼い子供言い聞かせるような言い方が、俺の心をくすぐったりして。
彼女に手込めにされることに、抵抗感がなくなっていく。
「尊くんのことだから、どうせ私の水着姿でも想像してたんじゃないの?」
「いや、えっと…………夢に、見ました。厳密に言えば……」
「……そう、夢に。そんなに楽しみだったんだ。へぇ」
心の内を引き摺り出されるように言葉をこぼすと、未琴先輩はしっとりと俺を見つめた。
その言葉は囁くように柔らかで、夏の暑さに身が溶ける前に、彼女の声に心が蕩かされてしまいそうだった。
「でも、夢は夢だよ。現実で、自分の目で、私の水着を見たくない?」
「めちゃくちゃ、見たいです」
「うん、正直でよろしい」
まるで抵抗なく思うままの気持ちを口にしてしまった俺に、未琴先輩は満足そうに頷いて身を引いた。
俺の顔から離れた手はそのまま肩から流れるように腕へと移動し、さりげなく絡まる。
夢。そう、あれは夢だ。
意識がはっきりするにつれ、その光景がどんどんと明確になっていくけれど。
でも現実の俺は今ここにいるわけで、合宿はこれからなわけで。
だからあれがどんなにリアルな感覚だったとしても、現実とは程遠い夢に過ぎない────
「…………?」
と、思ったんだけれど。
でも頭が整理されて夢の情景が明確になっていくにつれ、妙な感覚が巻き上がってきた。
たかが夢。眠っている間に脳が勝手に作り出す幻。そのはずなのに。
何故か、過去の出来事を思い起こすような気分になって。
現実に目覚めた俺に、夢がくっきりと馴染んでいく。
そして俺は、その中身をハッキリと思い出した。
みんなで過ごした一泊二日の合宿。
けれどのその向こう側にあった、夢の中のもう一つの思い出。
それに気付いた
そして……そして────
「あ、れ────」
「尊くん?」
そんなこと体験していない。しているはずがない。だって俺たちの合宿はこれからなんだから。
でも今し方まで見ていた夢の記憶が、何故だか確かな実感を覚えるほどに鮮烈で。
現実との齟齬に頭がクラクラしてきた。
思わず頭を抱える俺に、未琴先輩が優しい声をかけてくる。
その鈴の音のような甘い声に縋って、余計なことを考えたくないと思ってしまう。
でも夢の中からやってきた記憶が、彼女に対して僅かな怯えを浮かび上がらせた。
夢の中で未琴先輩は『
それによって俺たちは一度現実の思い出を夢に追いやられていて、その是非を彼女と話し合っていた。
それでその後……その後……。その後は────
「尊くん、大丈夫?」
「未琴、先輩……」
未琴先輩が俺の頭を包むようにして顔を覗き込んできて、俺は思考の渦から目の前の現実へと回帰した。
けれど心はごちゃ混ぜになっていて、夢の中の出来事への感情が混入して動悸が止まらない。
見惚れるほどの美貌も、今は目を逸らしたく思えてしまった。
「具合悪い? こんな暑い中で寝てるから……」
「い、いえ。大丈夫です、大丈夫……」
額を合わせて熱を計ろうとしているのかと思うほど、未琴先輩はグッと顔を近づけてきた。
俺は慌てて身を引いて避けようとしたけれど、顔を包まれていてあまり身動きが取れない。
未琴先輩の案じるような視線を真っ向に受けて、俺は近距離で目を泳がせた。
夢の中の記憶は、未琴先輩と話している途中で終わっている。
そこでぷつりと途切れて、俺は今この場所で目を覚ました。
夢だし、理路整然としていなくてもおかしいことはない。ただの夢だとすれば。
でも未琴先輩は、現実を夢にしてしまうことができる。そう思うと、だ。
もしかしてあの後、未琴先輩は────
「あ、あの、未琴先輩。俺……」
考えれば考えるほどモヤモヤと謎の焦燥が込み上げてくる。
もしこれがただの夢に過ぎないものだとしたら、こんなに実感を持って胸が苦しくなることがあるんだろうか。
どうしても気になって、俺は意を決して未琴先輩に尋ねてみようと口を開いた。
「なぁに? 尊くん」
けれど、しっかりと前を向いてみれば、そこには彼女の深淵のような瞳がこちらを見ていて。
底のない闇の如く黒々としたそれが、俺の奥底まで見透かすかのように黒く輝いていて。
とてもじゃないけれど、踏み込んだことを聞く勇気が湧かなかった。
「い、いえ。何でもないです……気にしないでください」
聞けない。いや、聞いてはいけないと思った。
もしあの夢の光景が本来は現実で、未琴先輩の手によって夢にされてしまったのだとすれば。
今またそれを徒に追求すれば、再びこの現実を夢に落とされてしまうなんてことになるかもしれない。
ごめんなさいと、未琴先輩は俺に謝ってくれた。
けれどそれでも同じことを繰り返したとなれば、そこには強い意志があったということ。
なら、あの言葉は……。
だとすれば軽々に行動するわけにはいかない。
「……? 言いたいことがあるなら、何でも聞くよ?」
「いえ。ただその……あんまり顔を近づけられると照れちゃうから、ほどほどにしてほしいな、なんて」
「そう」
頭の中に明確に残る夢の記憶が、異常なまでに気になってしまう。
でもそれを必死で押し殺して、俺は努めて平静を装って誤魔化しの言葉を並べる。
必ずしも嘘ではない言葉に、未琴先輩は目をほんの少しだけ薄めただけで普通に頷いた。
「それはつまりどういうこと? 尊くんの口から、はっきり教えてほしいな」
「そ、そりゃ、未琴先輩が綺麗すぎて、ドキドキがやばいって意味ですよ……」
「よく言えたね」
未琴先輩は小さく微笑むと、ようやく顔を離して座り直した。
そうしてくれたことでドキドキとハラハラがなくなって、俺はバレないように小さく溜息をつく。
今ここにいる未琴先輩はとてもいつも通りで、あんな夢の出来事なんて知らないように振る舞っているけれど。
でも彼女の奥底にある得体のしれなさ、未知の部分が持つ薄暗さは、やっぱり何かを感じさせる。
ただ、でもやっぱりただの夢だったという可能性も十分すぎるほどに捨てきれない。
みんなと海で遊ぶのが楽しみすぎて、あるであろう合宿風景を妄想してしまっただけなのかも。
その中で、今までの未琴先輩の行いからトラブルを想像してしまったりなんかした、だけかもしれないんだ。
だって今の俺には確認のしようがない。俺の感覚、主観だけはどうしようもない。
記憶だけになってしまった出来事を、夢に見た光景を、事実だったと証明する手段なんてないんだ。
いや、でも。
あの夢の出来事が本当にあったことだったのだとすれば。
糸口は一つだけあったはずだ。
「あ、お二人ともおはようございます! お早いですねぇ」
俺たちの元に飛んできた声が一つ。
あどけなさの中に、包み込みような優しさが込められた声色。
小柄な姿が、俺たちの姿を見つけてトタトタと駆け寄ってきた。
「私後輩なので一番に来れるように出てきたんですけど。負けちゃいましたぁ」
ベンチに並んで腰かける俺たちの前に立っても、視線は少し上にいくくらい。
そんな小さな体でにこやかに微笑みながら、大きな帽子を被せたふさふさの髪を楽しそうに揺らす。
その姿を見とめて、混乱していた俺の心が一気に解き
「おはよう……おはよう、
「おはよう、ございます……」
目がぱっちりと合って、その表情に深い疑問が宿る。
込み上げてきた安堵にいっぱいいっぱいの俺は、そんな彼女に気を配る余裕がなくて。
情けない顔をしているであろうことを自覚しつつ、俺は縋るような視線を向けずにはいられなかった。
「────。もう、先輩ったら、もしかしてこんなところで寝てたんですか? 口元によだれ、ついてますよ」
そんな俺を少しの間不思議そうに眺めてから、徐に息を飲んだ楓ちゃん。
すぐにいつも通りの優しい顔に戻りながら、そんな取り繕ったような言葉を並べて。
そして、俺の口元を拭うように見せかけて、その小さな両手で俺の頭をしっかりと包んだ。
その時間は僅か。隣の未琴先輩にも不審に思われないであろう、一瞬の触れ合い。
でも俺は確かに、聖母に抱かれているかのような、陽だまりの暖かさに包まれた。
身も、心も。
抱擁は一瞬。すぐに俺を放した楓ちゃんは、俺の顔を見てにっこりと柔らかく微笑んだ。
「おはようございます、
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