第21話 リアルな夢と微睡の現実 ❹
「遅かったね。真凛ちゃんとあさひちゃんは先に海に入りに行っちゃったよ」
場所取りをしたシートへ戻ってみれば、昨日と同じように未琴先輩が一人で座っていた。
パラソルの日陰に隠れたその姿は、眩しい陽射しとは対照的に少し薄暗い。
けれどその澄んだ白い肌は美しく、存在感は影の中で尚健在だった。
「すみません、お待たせしてしまって」
今から聞こうと思っていることを考えると喉がキュッと締まる。
いつも通りのはずな未琴先輩の凄むような美しさに、気負ってしまいそうな自分がいた。
けれどそれをグッと堪え、俺は努めて平然を装う。
「お詫びの印にこれ、買ってきたので」
「ありがとう、気が利くね」
帰りがけに買ってきたココナッツを丸ごと使ったジュースを差し出すと、未琴先輩の口元が僅かに綻ぶ。
結局かき氷を食べている場合じゃなくなって、でも甘い口になっている楓ちゃんの為に、急遽立ち寄った店で買ったものだ。
南国風を思わせる夏らしいココナッツジュースは、爽やかな水着姿が美しい未琴先輩によく似合う。
未琴先輩が一人でいるであろうことは予想できたから、三人分買ってきて正解だった。
俺と楓ちゃんはココナッツ片手にシートに上がり込み、未琴先輩と向き合うように腰を下ろした。
「二人は海、行かなくていいの?」
「……はい。ちょっと、未琴先輩と話したいことがあって」
「そう」
ちゅーっと優雅にジュースを吸って、未琴先輩は立てた膝の上にココナッツを置いた。
はらりとパレオが流れ落ちたその白い脚は、日陰の中に紛れ込む陽射しに照らされてより一層美しい。
思わず見惚れそうになりながら、でもこれから尋ねようと思っていることが心の中で渦巻いて、それどころではない。
未琴先輩を疑いたくないという気持ちと、彼女の行いだった場合その事実を受け入れたくないという気持ち。
色んな感情が混じって、出すべき言葉がまとまらない。
麗しの未琴先輩の水着姿を堪能する余裕なんて、正直なかった。
でも、隣には楓ちゃんがついてくれている。
ココナッツを両手でしっかりと支え、何の気ないように振舞っているけれど。
その意識が俺を気遣ってくれているのがよくわかる。
だから、いつまでもビビってはいられない。
俺は頑張るって決めたんだから。
「────その様子だと、気付いたのかな」
今まさに俺が口を開こうとした時。
一歩早く未琴先輩がサラリとそうこぼした。
表情は依然として変わらず、ほのかな笑みとどっしりとした瞳。
未琴先輩は平然と、しかしじっくりと俺を見つめた。
「
「……お、俺の記憶の中にある夢の光景のことを言っているのであれば……はい」
「そっか。今回はスムーズにいくと思ったんだけどな」
「ッ────」
ポツリとそう口にした未琴先輩に、俺は、そして楓ちゃんも息を飲んだ。
当たり前のように、こともな気に、世間話しと変わらないトーンで喋る彼女を前に、冷たい汗が流れるのを感じた。
「…………そう、言うってことはやっぱり。この異変は、未琴先輩が関係してるんですか?」
「うん。まさか気付かれるとは思ってなかったけど。楓ちゃんのせいなのかな」
あっさりと頷いた未琴先輩は、微かに目を細めて俺の隣の楓ちゃんを見た。
けれどそれだけ。悪意も敵意も当然のようになく、未琴先輩は風体を崩さない。
いつも通り、普段通りの綺麗で大人っぽく、落ち着いている未琴先輩だ。
「一体、どういうことなのか説明してください。今、何が起きているんですか」
やっぱりこの人だったんだという落胆、俺のせいだという悔恨。
そんな捻れるような感情を抱えながら、けれど何も変わらない平然とした空気にチグハグしたものを感じる。
その戸惑いに塗りつぶされそうになりながらも言葉を求めると、未琴先輩は軽やかに「いいよ」と頷いた。
「先に言っておくけれど、私はもう『
安心してとでも言うように、未琴先輩は柔らかく言う。
過去に体験した似たような事象を思えば、その二つの能力の影響は考慮していたから、違うと言うのであればその点は安心できるけれど。
でも実際この混乱する状況が起きている以上、それだけでは済まないんだろう。
楓ちゃんの手が、未琴先輩に見えないように俺の水着の端を摘んだ。
「今回私が使ったのは、『
「……!? 現実を、夢にしてしまう…………!?」
うっすらと形のいい唇から紡がれた事実に、俺は開いた口が塞がらなかった。
言っていることは言葉の上では理解できても、その意味を脳がうまく処理してくれない。
「それを応用して、本来起こりうるであろう現実を先に夢の中で体験してもらった。それを
「そんな、ことが…………」
やっぱりこっちが現実だったんだと、そんな事実がどうでもよく思えるくらい、未琴先輩が告げた真相は衝撃的で。
隣に座る楓ちゃんの様子を窺う余裕が生まれないほどに俺は混乱してしまった。
夢がリアルなわけだ。現実の記憶と混同するわけだ。
だってあの夢の光景は、俺が本来現実で過ごすはずの合宿の記憶だったということなんだから……!
「でも、じゃあ! そうしたら、やっぱり未琴先輩は一度現実の出来事をなかったことにしているって、そういうことですよね? 現実を夢にして、無くしてしまった……」
「ううん。そうならないためにこうしたんだよ、尊くん。だって今の君には、夢になった記録もちゃんと残っているでしょう。思い出は全くなかったことになってない。夢でも現実でも、確かに君の記憶に残っているんだからね」
「ッ────!」
その言葉は言い訳でも方便でもなく本心から言っているのだということを、深い闇のような真っ直ぐな瞳が語っている。
心の底から何偽ることなく、それで問題がないと思っているんだ。
「それが現実であっても夢でもあっても、過ぎ去れば同じ思い出という記録になる。確かに思い起こせるものがあれば、それが夢から来るものでも変わりはないでしょ?」
「そんな……そんなことっ…………」
そんなことない。あるはずがないんだ。
夢の記憶が明確な記録として残ったとしても、それは既に現実から乖離している。
どんなにリアルな思い出として心に残っても、事実としては消えてしまっているんだ。
けれど、未琴先輩は困惑している俺に首を傾げるだけ。
そんな彼女にわかってもらうためになんて説明すればいいのか。
俺はそれをすぐに言葉にすることができなかった。
「…………どうして、どうしてそんなことをしたんですか? どうしてここまでして、現実をもう一度なんてことを……」
「どうして、か。そうだね、端的に言って……気に食わなかったからかな」
苦し紛れに別の疑問をぶつけると、未琴先輩はようやく雰囲気を揺らした。
ぱっと見はフラットな表情のまま、けれど発する気配がじっとりと重くなる。
「一見楽しい合宿だったけれど、私はどうも納得がいかなかった。そのままになんてしたくなかった。でも今まで尊くんに色々怒られてるから、これでもやり方を考えたんだよ」
「俺の言うことを尊重してくれたのは嬉しいですけど、でも、何がそんなに不服だったんですか。こんな大それたことをするほどに、何が……」
「確かに、私もみんなと遊ぶのは楽しかった。でもね、尊くん。私はどうしても、君と楓ちゃんの関係を見過ごせなかったんだよ」
ハッと楓ちゃんが隣で息を飲み、首を縮めた。
未琴先輩の重い視線がゆっくりと俺から彼女へと移る。
「もちろん、あなたたちが仲良くすることを今更とやかく言うつもりはないよ。でもね、楓ちゃん。私はあなたの尊くんへの態度がとっても嫌だった」
「え、えっと……私、そんな変なことをしているつもりは……」
「ないんだろうね。多分それは、楓ちゃんの本質なんだろうから」
未琴先輩の静かなる圧力に身を竦ませた楓ちゃんは、俺にしがみつきそうだった。
けれどそんなことを未琴先輩の前ではできないと思ったのか、懸命に向けられる視線に相対している。
「楓ちゃん、君はとっても優しい子で、私はそういうところを憎からず思ってるよ。でもね、何でも許すことが善いとは限らないと、私はそう思うんだよね」
「え…………?」
「あなたは尊くんの弱さを全て受け入れて、それでいいと許して、彼を停滞させる。それが私に見過ごせなかった」
普段通りに淡々と語っているようで、未琴先輩の言葉にはとても暗さを感じた。
いつも平然としている彼女の、珍しくも明らかな嫌悪と否定の意思。
それは、真っ向から向けられていない俺でも息が詰まるような圧があった。
未琴先輩が気に食わなかったのは、俺が思い通りにならないとか、他の誰かと関係を深めているとか、そういうことじゃない。
俺が間違った道に行こうとしているとそう感じたからこそ、それを事実から外したと、そういうことなのか。
でも、楓ちゃんが俺に優しくしてくれるからといって、何かが大きく変わるなんてことは……。
「私だって、尊くんの全てを受け入れて、その多くを好きになりたりたいと思ってる。でもだからこそ私は、変わろうと、前に進もうとしている彼の道も全て許容する。どれだけそれが困難で、時間が要することだったとしても。でも、あなたは違うでしょ?」
「わ、私はただ……今の尊先輩にも素敵なところがたくさんあるって、そう思ってるだけで……。だから、今の自分を卑下しなくてもいい、無理に頑張らなくてもいいって、そういうつもりで……」
「でもそれが、尊くんを阻害する。その許しが彼の前進を妨げる。あなたは尊くんを必要以上に甘やかして、成長の可能性を潰している。それは本当に、尊くんを想っていることになるのかな」
「そ、それは……それ、は……」
未琴先輩の言葉には隙がなく、楓ちゃんは全く反論ができないでいた。
その言葉の中身ももちろんのこと、発する声色、向けられる視線、対する存在感がそれを許さない。
楓ちゃんはぎゅっと身を縮めて震えを押さえ込んでいた。
「私はそれがどうしても見過ごせなかった。そのままは嫌だった。だからそれを気持ちのいい夢にして、尊くんが前に進める現実を再開させたの」
未琴先輩の発する言葉には、嫌悪感こそあれ敵意や害意の類は感じられない。
飽くまでそれは彼女の主張であって、悪口を言っているわけではないんだろう。
だかこそ、雰囲気こそ重いけれど、未琴先輩の風体は飽くまで穏やかだ。
けれどそれが故に、逆に恐ろしいものがある。
「尊くん、私は君が好き。だからこそ私は、君の葛藤もまた受け入れたいんだよ。だって、一緒に恋をしていこうって約束したから」
優しく、まっすぐな言葉。
やることは大それていてとんでもないけれど、でも未琴先輩の純粋な気持ちは変わらない。
それがわかってしまうから、どうしてもその行いを咎めきれないんだ。
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