第8話 夏の夜の海岸で ①
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「うっしー先輩、そろそろ起きてくださーい」
そんな柔らかい声で目を覚ました俺を覗き込んでいたのは、案の定
ビーチに敷いたシートに寝転んでいた俺の頭のすぐ横に、ぺたんと座り込んでいる。
ぼんやりと目を開けた俺に困ったような笑みを浮かべながら、その小さい手で俺の頭をそっと撫でてくる。
その温もりについつい身を委ねながら周囲に目を向けてみれば、日は大分傾いていて、広い海には赤みが差していた。
少しばかりうつらうつらとするつもりが、どうやらしっかりと眠ってしまっていたみたいだ。
「もう、うっしー先輩ったら。せっかく海に来たのに寝過ぎですよぉ。もっといっぱい遊びたかったですぅ〜」
「あー……ごめんごめん。なんだか居心地良くてつい。せっかく来たのに、みんなとはちっとも……」
「……? まぁ午前中は一緒に海に入れたからいいですけどぉ」
ぶーと頰を膨らませる安食ちゃんに、俺は体を起こしながら謝罪を口にした。
思えば俺は今日、ほとんどをこのシートで過ごしてしまった気がする。というか、もしかして海に入ってないんじゃ……と思ったけれど、午前中はみんなと結構泳いでいた。
夢の中でも未琴先輩が出てきて二人でお喋りしていたものだから、その麗しの水着姿が余計に焼き付いて現実と混同してしまった。
「あれ、そういえばみんなは?」
「皆さん先に着替えに行きましたよ。私はお留守番兼うっしー先輩の起こし役です」
やれやれと嘆息するような風を装いながらも、安食ちゃんは特に呆れている雰囲気ではなかった。
言葉では俺のことを嗜めつつ、その笑みには確かな優しさと温かみが含まれている。
まるで母親のようなその慈愛に満ちた姿は、やや寝ぼけていることも相まって、ついつい縋りたくなるような柔らかさだった。
「そうだったんだ、ごめん。面倒かけたね」
「いえいえ。今朝に続いてまたうっしー先輩の寝顔と寝起きが見られたので、十分楽しませてもらいました」
「こちらこそ、相変わらず優しく気持ちのいい起こし方を堪能させてもらったよ」
「それはお粗末様です」
小さな子供のように頭を撫でられながらの起床というのは、かなり心地よかった。
思わず幼児退行してしまいそうなほどに、温かみに溢れる手のひらだった。
ついつい甘えてしまわなかったのは、正直奇跡だと思う。
俺たちは無駄に仰々しくお礼を言い合ってから、顔を見合わせて笑った。
それからパラソルやシートの片付けなんかをしている間に先に着替えに行った三人が帰ってきて、俺と安食ちゃんは入れ替わるように着替えをした。
みんなが水着姿でなくなってしまったことはちょっぴり寂しかったけれど、しっとりと湿った髪や肌が妙に色っぽくて、それはそれでかなり眼福な光景だった。
それに、さっきまで露出の多い格好をしていた女子たちが、夏らしい薄着とはいえ衣服を身にまとっているといる現状は、直前とのギャップのようなものを感じられて案外悪くないものだ。
着替えや片付けを済ませた俺たちは、今回泊まることになっている宿泊施設を兼ねた海の家に向かった。
諸々の手配をしてくれたのは部長である姫野先輩だったのだけれど、受付を済ませて俺たちの元に戻ってきた彼女は、苦笑いを浮かべながら手を合わせてきた。
「えーっとね、手違いで大部屋一部屋になっちゃってた〜」
「いや、何ベタすぎるミスを……」
ごめんねと軽い感じで謝罪を口にする姫野先輩に、俺はついつい思ったままたのツッコミを入れてしまった。
男女の宿泊で一部屋しか取れてなかったとか、漫画やなんかではありふれた展開すぎるけど、実際起こることか?
なんていうか、あんまり失敗したという感じを見せない姫野先輩に、些か作為的な匂いを感じた。
「まさかとは思いますけど、わざと一部屋しか予約しなかったなんてことは……」
「そ、そんなことするわけないじゃーん! 年頃の男女だしぃ、そこらへんの節度はちゃんと守らないとねぇ? 向こう側のミスだよ〜」
「そうですか。じゃあ俺がもう一回確認してきますね」
俺の詰問をのらりくらりとかわして、飽くまでアクシデントだと主張する姫野先輩。
けれど、いつもは自信満々に見つめてくるその可愛らしいお顔をやや逸らしているのがやっぱりちょっと怪しい。
俺が受付に向かおうとすると、案の定姫野先輩は慌てた様子で俺の腕を掴んだ。
「もーそこまでしなくても。なぁに? うっしーくんは、私たちと同じ部屋で寝るの、嫌なの?」
「べ、別に嫌というわけじゃ……」
「じゃーあ問題ないじゃん。こーんな可愛い女子たちと一夜を過ごせるなんて、むしろラッキーでしょ?」
さっきまで後ろめたそうに視線を外していたかと思えば、今度はそのキラキラとした瞳を一心に向けられる。
その有無を言わせないような言葉に、俺は何も言い返すことができなかった。
確かに俺だってみんなと同じ部屋で寝泊まりすることにデメリットがあるわけじゃないし、ちょっと無防備になったみんなを間近に感じられるのはむしろ魅力的に思えたりもするけれど。
でも健全な男児高校生としてはいささか刺激が強すぎると思うから、精神の安寧を得るために別部屋が良かったというのが本音だ。
「うっしーくんと一緒に寝るのに反対な人は挙手! はい、いなーい!」
勢いに俺が圧倒されている隙に、姫野先輩はささっとみんなから同意を取ってしまう。
というかむしろみんな、どこかそわそわと嬉しそうにしている気もする。
これ以上反論してうだうだ言っても、もうどうにもならないようだ。
「じゃあ、私は
「ちょっとみこっち先輩、抜け駆け禁止〜! うっしーの隣で誰が寝るかは、みんなで公平に決めなきゃー!」
俺が諦めたところに透かさず口を開いた未琴先輩だけれど、当然の如くあさひが牽制の声を上げた。
誰が俺の隣で寝るか。確かにこれは大きなトラブルの原因になりそうだ。
取り合われるのは多少優越感を覚えるけれど、これから揉めることを考えるとついつい溜息がこぼれる。
けれどいつまでもそんな問答をしているわけにもいかず、俺たちはひとまず部屋に荷物を置くことにした。
通された部屋は畳ばりの一間で仕切れるものなどなく、みんなで仲良く布団を一列に並べる他ないようだった。
できるだけ平和に並び順が決まることを、俺は内心で切実に願った。
「食べ放題だぁ〜!」
夕食はバーベキューの食べ放題。
コンロを始めとした一式や、食材まで全て用意されて、あとは好きに焼いて食うだけの超楽チンな形式だ。
しかもそれが好きなだけ食べていいと言うことで、安食ちゃんは人一倍大はしゃぎだった。
コンロの前を完全に陣取った安食ちゃんは、鍋奉行ならぬ焼き奉行と化し、肉と野菜を物凄い手際で焼き続けた。
ゆっくりたくさん食べたらいいと役目を代わろうとしたけれど、どうやら流れをコントロールしている方が一番効率よく食べられるらしく、決してトングと食材を譲ってはくれなかった。
事実よく見てみれば、安食ちゃんは絶妙に焼けた肉たちをみんなにどんどんと振り分けていく影で、その倍以上の量を自分の胃袋に放り込んでいるのがわかった。
「安食ちゃん焼くの上手だよな。普段から家で料理とかしてるのか?」
みんなの腹が満たされてデザートムードになっている中、一人肉を食べ続けている安食ちゃんに声をかける。
食べている時はいつも幸せそうだけれど、いつになく生き生きと肉を頬張っている彼女は、ニコニコと楽しそうに頷いた。
「そうですね。家ではもっぱら自分で料理してます。うち、両親がほとんど家にいないので」
「それでか。焼くだけとはいっても、料理なんてからっきしな俺じゃこんなに上手にできないし。何より手つきが慣れてると思ったんだ」
「そうですか? ありがとうございます。小さい頃からやってた甲斐がありましたぁ」
そう屈託なく笑いながら、本当に手慣れた所作で肉と野菜を扱う安食ちゃん。
みんなが手を止めたこれからが本番だと言わんばかりに、気合を入れるように毛量の多い髪をぐわっと括った。
普段はほんわかと穏やかな彼女だけれど、今は珍しく揚々とがっついている。
「小さい頃から自分で料理してたって……あぁ、ご両親は仕事が忙しいから」
「そうですねぇ。今でこそ、私が食べたいだけの食費を出してもらえるんですけど、昔はうち、すっごく貧乏だったんですよぉ。だから両親はずっと働き詰めで、私はうちにあった少しの食べ物を自分でやりくりしてって感じでした」
焼き上がった肉を食べると同時に新しい肉を焼きながら、安食ちゃんはさらっとそう言った。
食べることに夢中で言葉の内容とテンションが合致してないけれど、結構大変な過去をさらりとこぼしている。
「中学に入るくらい前では、そんな感じでしたかねぇ。その頃までは私、今とは違う意味でシンプルにいつもお腹が空いてて、学校の給食が何より楽しみでした。中学入ってからは周りの目が気になって、たくさん食べるのが恥ずかしくなってきてたので、家計が良くなって本当に助かりましたよぉ」
「昔は結構苦労してたんだな」
「はい。まぁ昔のことなので。ただそうですねぇ、今こうやっていっぱい食べたーいなるのは、その頃の反動かもしれません」
思わぬエピソードに面食らっている俺に対し、安食ちゃんはちょっぴりの照れ笑いを浮かべるだけだった。
苦労した過去は確かにあったとしても、それは彼女にとって決して暗い思い出というわけではないんだろう。
いや単純に、今は食べることが最優先になってしまっているだけかもしれないけれど。
今の食べ放題は別にしても、普段からとってもたくさん食べている安食ちゃん。
まだ今より幼かった時だとはいえ、そんな彼女が食べ物に困っていたなんて、普通の人よりも何倍も辛かっただろう。
それを思えば、今こうして幸せそうに食べている彼女の姿が、今まで以上に愛おしく見えた。
「だから私、節約メニューとかカサ増しメニューとかも得意ですよ。もちろん、普通の料理もですけど」
「それは結構興味あるな。安食ちゃんの手料理、俺食べてみたいよ」
「本当ですか!? じゃあ、今度是非うちに遊びにきてください。たーくさん美味しいもの作りますから!」
焼く手を止めた安食ちゃんは、身を乗り出して目をキラキラと輝かせた。
パーっと華やいだその笑顔は、一心不乱に俺に向けられている。
今までよりも更に幸せそうに顔を綻ばせた彼女の可愛らしい表情に、不覚にもドキリとする。
「うっしー先輩に作ってあげたい料理、色々あるなぁ。何を作ろうかなぁ」
「楽しみだけど、あんまりたくさんだと食べ切れるかなぁ」
「大丈夫です。私も一緒に食べますからっ!」
ニカニカーっと、安食ちゃんはとても嬉しそうに笑顔を咲かせる。
普段の優しい笑みや、食べている時の生き生きとした笑みとも違う、溌剌とした幸せそうな破顔。
俺にも次第に幸せな気持ちが伝播してきて、とても居心地が良かった。
「うっしー先輩と食べるご飯は普段より美味しいですけど、私が作った料理を一緒に食べるなんて、なんだか夢みたいです〜。楽しみだなぁ〜」
安食ちゃんは年下だけれど、その面倒見の良さもあって俺はいつもついつい甘えてしまう。
だから少しでも俺が彼女を笑顔にすることができるなら、なんだってしてあげたい。
その満面の笑みを見ることができるのなら、俺は何度だってどれくらいたくさんだって、一緒に食卓を囲みたい。
その暖かさに包まれて、俺も一緒に笑顔になりたいって、そう思わされてしまった。
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