第3章『全てを許す慈愛の抱擁』

第1話 暑さを和ます穏やかな寝起き ○

「────せんぱい」


 曖昧な微睡の中、小さく控えめな声が俺を呼んだ。

 うつらうつらと、眠りに落ちているのかいないのか定かではない絶妙に気持ちのいいひと時を、心地の良い声が遮ろうとしている。


「うっしー先輩! 起きてくださいってばぁ!」


 微睡に身を任せて意識を投げ放していた俺に、今度はパリッとした声が飛んでくる。

 同時に顔をそっとぐにっと挟まれて、俺はようやく意識を覚醒させた。


「もう、こんなところで居眠りなんかして。熱中症になっちゃっても知りませんよ?」

「あぁ……安食あじきちゃん。おはよ」


 顔を上げてみれば、安食あじき かえでちゃんの小柄な姿が俺を見下ろしているのが窺えた。

 目を覚ましてもやや頭がふわふわとしていた俺のそんな呑気な挨拶に、安食ちゃんは困ったように眉を寄せながら、しかし柔らかく微笑んで返してくれた。


 その穏やか振る舞いに和んでいると、俺は次第に自分が晒されている不快な暑さを思い出してきた。

 今いるのは学校の最寄駅の構内のベンチだ。一応屋内とはいえ外とは繋がっているから、日陰でもなかなかの暑さだ。

 こんなところでよくもまぁ居眠りできたもんだと、自分で自分が恐ろしく感じられる。


「うっしー先輩、一番乗りなんて早いですね。やる気もりもりですか?」

「やる気は、うーん、どうだろう。ただ昨日はあんまりよく眠れなくてさ。そうこうしてたら早く目が覚めちゃったから、もうそのまま出ちゃえって感じで来たんだよ」

「つまり、今日が楽しみだったんですね?」

「いや、遠足前日の小学生じゃないんだから……」


 俺が透かさず否定を口にしても、安食ちゃんはニコニコと優しそうに微笑んでいる。

 おまけに「わくわくして寝られなかったなんて可愛いですね」なんて口にする始末だ。

 確かに言葉だけ聞けばそう捉えられてもおかしくはないけれど、なんか子供扱いされているようで腑に落ちない。

 まぁ彼女の振る舞いには馬鹿にした素振りはないから、特段悪い気はしないけど。


「そういう可愛いうっしー先輩も好きですけど、こんな暑い中で寝てたら危ないですよ? 電車に乗ってからなら寄り掛からせてあげますからぁ」

「それはとても魅力的な提案なんだけどね、安食ちゃん。その話を掘り下げる前に、ひとつ確認したいことがあるんだ」

「…………?」


 まるで母親が子供を諭すように、優しく柔らかく俺に言い聞かせてくる安食ちゃん。

 そんな言葉に口を挟むと、彼女は小さく首を傾げた。どうやら、無意識らしい。


「俺、いつまで君の手にサンドイッチされてれば良いのかな」

「あ、失礼しました! 先輩が可愛いからつい……!」


 俺の指摘に安食ちゃんはハッとして、慌てて顔から手を離した。

 居眠りしていた俺を起こすために顔を両手で挟んだ安食ちゃんは、俺が起きてからもずっとそのポーズのままだった。


 子供のように小さく、そしてしっとりとした柔らかさを持つ手に包まれる感覚はとても心地よかったけれど、ずっと顔を抱えられているままというのは流石に気恥ずかしいものがあった。

 しかも無意識にか、犬でも可愛がるように頬をぐにぐにとしてきていたし、あのままだとずっと愛でられていた気がする。


 一歩退がった安食ちゃんはポンと顔を赤らめて、口をパクパクさせている。

 それから少し恥ずかしそうにはにかんでから、「失礼します」と俺の隣にちょこんと腰を下ろしてこちらの視線から逃れた。

 大型犬のようにふさふさの髪を揺らして、また彼女の小柄さも相まって、とても表情が窺いにくい。


「……そういえば、安食ちゃんこそ来るの早いな。まだ結構余裕ある時間だけど」


 今は朝の八時過ぎ。集合時間は八時半だから、まだかなり余裕がある。

 俺みたいにたまたま早く目が冴えてしまったんじゃなきゃ、むしろ早く来すぎなくらいだ。


 無意識のうちは好き勝手俺をふにふにしていたのに、気が付いた途端に恥ずかしがって縮こまってしまった安食ちゃん。

 そんなちょっとぴり気まずい空気を打破するべく話題を切り替えると、「はい」と元気な返事が返ってきた。


「私、一番の後輩ですから。先輩方よりも早く来なきゃと思いまして」

「その意気は素晴らしいけど、そこまでガチでやる部活でもないだろうに」

「確かに、皆さん先輩後輩にうるさくはないですけど。でもやっぱり私、後輩なので」


 そう言う安食ちゃんはあっという間に調子を取り戻していて、ニコニコと機嫌の良い笑みを浮かべていた。

 とりあえず、話題を変えて気まずさを忘れさせる作戦は成功したみたいだ。


「それに、こうやって早く来たからうっしー先輩の寝顔が見られましたし。役得ですよぉ」

「俺の間抜けな寝顔に早起きの辛さを中和する効果があるとは思えないんだけどなぁ」

「ありますよ、先輩の寝顔可愛かったですし。独り占めできたので、嬉しさは更に倍増です」


 安食ちゃんはそう言って、にぱっと無邪気な笑み浮かべながら俺を見上げた。

 屈託のない笑みには全く嘘の色がなくて、その純粋な感情が俺の心臓をトコトコと叩いた。

 全てを包み込むような柔らかな笑顔に、心がとても温まる。


 彼女が起こしてくれた時の穏やかな心地を思い出す。

 俺の顔をいだいたその両手は、まるで俺の全てを抱きしめるような安心感があった。

 ガチの寝起きだったから、寝ぼけたままに甘えてしまっただろうと思うほどに、とても安らかな目覚ましだった。


 この小さな体から溢れる温かな母性に、うっかりするとのめり込んでしまいそうになる。

 あの心地よさを思えば、寝顔を見られて恥ずかしいとか、そんなのは正直どうでもいいと思えた。


「私が漫画に出てくる幼馴染キャラみたいに先輩の家の隣にでも住んでたら、毎朝起こしに行ってあげるんですけどねぇ。そしたら、毎日私だけの寝顔が見れるのに」

「それはとっても魅力的だけど、多分尚更起きれないと思うなぁ」

「え、どうしてですか?」


 楽しそうに妄想を広げる安食ちゃんに指摘すると、彼女はコテンと首を傾げた。


「安食ちゃんの起こし方は、なんていうか、気持ちいいからさ。熟睡中にあんな優しく起こされたら、安心しすぎて醜態を晒す気がする」

「え、えぇぇぇ……ッ!」


 小さな子供がお母さんに甘えるように、もしかしたら抱きついたりしてしまうかもしれない。

 いくら好意を持ってくれているとはいえ、後輩女子にそんなことをしてしまっては問題だし、そんなあられもない姿は流石に見せられない。

 そう思って言ってみれば、安食ちゃんはまた顔を赤らめてその小さな手で頬を覆っていた。


「あ、安心してもらえるのは嬉しいですけど、そういうこと言われると、ちょっと恥ずかしいですよぉ」


 困ったように眉を寄せてもじもじとする安食ちゃんは、どことなく非難するような声を上げた。

 けれどその口元はほんのりと緩んでいて、声色も相変わらず柔らかい。

 なんというか、乙女心は難しい。


「でも、うっしー先輩って案外甘えん坊さんだってことですよね。それはちょっと、見てみたいかも」

「……なんか企んでる顔だな。先に言っておくけど、それで被害に遭っても俺悪くないからな」

「わかりましたぁ〜」


 ニヤニヤとした笑みに切り替わった安食ちゃんは、なんだか楽しそうに軽快な返事をした。

 もしかしたら俺は、とても余計なことを言ってしまったのかもしれない。

 だってボランティア部は今日から夏合宿。安食ちゃんが朝俺を起こしてくれる機会が早速あるのだから。


 ボランティア部の合宿ってなんだよと思うけど、一応海岸の清掃活動に参加をするということになっている。

 けれどそれは一日だけの、しかも数時間の話で、だというのに一泊二日の計画だというんだから、ほとんどただの旅行だ。


 それでも部活動として赴くのなら、顧問の先生に付き添ってもらわなきゃダメだろうと思ったのだけれど。

 せっかく海に行くのに先生がいたんじゃ息が詰まると、俺たちが個人的に参加するという体で、結局表向きは部活動じゃないという。

 そうなると最早建前が何かわからなくなるんだけれど、もうこの際細かいことを気にしても仕方ない。


 夏休みが始まって早くも二週間ほどが経った今日この頃。

 みんなで海に行けるということが肝心なんだから。

 夏らしいイベント満喫できるのなら、言い訳なんていくらでもでっち上げてやるということだ。


 ただまぁ、そのメンバーが全員俺に好意を寄せてくれている女の子たちというのが、嬉しくもあり悩ましくもある。

 華やかなことは確かだけれど、一波乱も二波乱もあるだろうことは容易に想像できるからだ。


 そんな危惧や、もちろん楽しみなのもあって昨夜は寝付きが悪かった俺なんだけれど。

 ここへきて、安食ちゃんの魅惑的な目覚まし攻撃の可能性にも心配を募らせないといけないなんて……。

 その温もりに流されてとんでもないことをしでかさないよう、気を張ってないといけないかもしれない。


「合宿、楽しみですねぇ」

「それはこれから海で遊んだりすることがだよね? 俺を起こすことがじゃないよね?」

「どっちもですっ」


 ニヤニヤとニコニコを織り交ぜた安食ちゃんの笑みは、可愛らしくもあり同時に不安を掻き立てた。

 しかし、これは理性を強く持たなくちゃと思っている俺をよそに、彼女はカバンからドーナツを取り出してはむはむ食べ出した。

 そんな和やかな振る舞いは、俺をからかってやろうと思っているような邪な雰囲気はまるでなくて。

 眺めている内に、いつの間には余計な警戒心は流れ去っていた。


 それからは取り留めのないお喋りを二人でゆっくりとして。

 残りの三人が全員やって来たのは、安食ちゃんがドーナツを五、六個食べ終えた頃だった。

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