第19話 多角的落恋地点の収束 ① 45901
金曜日。
昼休みになっても、未琴先輩は俺を迎えに来なかった。
今までこんなこと一度もなかった。
いつだって未琴先輩は、午前の授業が終了した直後に、まるで瞬間移動したような速さで顔を覗かせてくるんだから。
確かに約束をしているわけじゃないし、そういう意味では来なくたって何にもおかしくはない。
けれど、未琴先輩がお昼に誘いに来ない、その初めてのことが無性に気になった。
俺は何か彼女の不興を買ってしまったんだろうか。
昨日はいつも通り一緒に帰って、特に
機嫌を損ねるどころか、全くの普段通りで
根拠はないけれど何だか嫌な予感がして、俺は自ら出向くことにした。
けれど未琴先輩のクラスを覗いていみてもその姿はなくて、余計に不安が募る。
単純に体調を崩して欠席でもしているんだろうか。
いや、未琴先輩が寝込んでる姿はどうも想像できない。
もしかしたらうっかりして屋上に直行しているのかもしれない。
その可能性を思い浮かべて、俺は上階を目指すことにした。
その道すがら、妙な胸騒ぎと共にここ数日聞かされた話を不意に思い出した。
有友 あさひに
姫野 真凜先輩に放課後の
あの、特殊能力だのラスボスだのといった、ぶっ飛んだ電波話だ。
どうして今それを思い起こしたのかはわからないけれど、同時に胸のざわめきが増した気がした。
今俺が感じている不安、いやここ最近抱いている曖昧な違和感や、モヤモヤした不鮮明さは、全部繋がっている。そう思ってしまった。
馬鹿げてる。あり得ない。
現実の世界に特殊能力なんて存在しないし、未琴先輩が世界滅亡を目論むラスボスなわけがないんだ。
けれどどういうわけだか、一歩一歩を踏み出すごとに違和感は膨らんで、それが俺の心を掻き乱す。
違和感に気をつけてと、姫野先輩に言われた気がする。
いや、安食ちゃんだったか、それとも有友? いつだっけ。
違和感に気付くことが大切で、気付けさえすれば対処できるかもしれないと……。
「落ち着けよ。何、焦ってんだ俺は……」
階段を昇りながら独り言ちる。
ただ未琴先輩がいつも通り迎えに来てくれなかっただけで、どうしてここまで不安に駆られているんだ。
しかもそれにあの荒唐無稽な話を重ねるなんて、我ながらどうかしている。
でも、確かに何かおかしいと感じる自分がいて。
それはただ未琴先輩が来なかったということだけじゃなくて。
俺を取り巻いているこの日常、世界そのものが、何かおかしい気がするんだ。
まるで、覚めない夢を見ているような朧げな感覚に、俺はずっと苛まれていたような気がする。
そしてその違和感は、歩みを進めるごとにどんどんと重くのしかかって、入り乱れていった。
「未琴先輩……!」
やっとの思いで最上階まで昇ってみれば、案の定屋上の扉の鍵は開けられていて。
夏の暑い日差しの下で、未琴先輩がフェンス越しに校庭を眺めている姿を発見することができた。
そよそよと流れる風が彼女の長いポニーテールを踊らせている。
その後ろ姿は消えてしまいそうなほど儚げで、まるで絵画のように美しく洗礼されていた。
俺が声をあげると、その後ろ姿はゆっくりとこちらに振り返った。
「
そこにはいつも通りの未琴先輩がいた。
仏のような穏やかな笑みと、重たげな瞼越しの芯が通った瞳。
淡々としたトーンの柔らかな声色で俺の名を呼んで、捕らえて放さない。
俺がよく知る、神楽坂 未琴がそこにいた。
俺は心の底からホッとしながら頷いた。
「そりゃ来ますよ。いつものことじゃないですか。俺はもう、未琴先輩の弁当を食べなきゃ午後を乗り切れないんです」
「そっか、ありがとう」
言いながら定位置の給水タンクの影に行こうとして、けれど未琴先輩が動かないことに気付く。
彼女はフェンスの前に佇んだまま、俺を静かに見つめていた。
よく見てみれば、その手にはいつもの可愛らしい手提げが下がっていない。
「未琴先輩……?」
ホッとしたのも束の間、途端に不安がぶり返してきた。
そこにいるのはいつも通りの、凄みのある美人な未琴先輩のはずなのに。
普段と変わらない静かな微笑のはずなのに、どことなくいつもと違う気がして。
「ねぇ、尊くん」
静かに、とても静かに未琴先輩は口を開いた。
下階から響く生徒たちの喧騒の中でも、確かに届いてくるそのささやかな言葉。
俺が無言の応答を向けると、未琴先輩はポツリと続けた。
「もし、今日が世界の終わりの日だったら、どうする?」
何気ない世間話のはずなのに、妙に心臓がドキリと跳ね上がった。
「え、えっと……それはよくある、最後に何食べたい?的なやつですか?」
「……うん、そんな感じかな」
ぎゅっと締まった喉で何とか言葉を絞り出すと、未琴先輩は小さく頷いた。
後ろ手にちょっこと手を組んで、ささやかに首を傾げて見せる。
「その最後の瞬間に、君は誰といたい?」
「それは……」
これは一体どういう意図の話なんだろうと、俺はぐるぐると頭を巡らせた。
小気味よく、楽しくお喋りをするにはどう答えるのがいいかと考えたいのに、思考すればするほどあの電波話が紛れ込んでくる。
違う。未琴先輩のこれはただの例え話だ。
思考がまとまらず返答できないでいる俺に、未琴先輩は続けた。
「私はね、君とがいいなって、そう思うようになったんだ」
笑みはいつも通り。綺麗なご尊顔だ。
ちょっぴり怖くて、でも心落ち着く美しさ。
「私は、君が隣にいてくれるのなら、もうこの瞬間に世界が終わってしまってもいいかなって、そう思う」
「それは、ありがたいですけど……」
つーっと背中に汗が伝った。
きっとこれは、日差しを遮るものがなくてクソ暑いせいだ。
何も不安に感じる必要なんてない。いつも通りのミステリアスな未琴先輩だ。
そのはずなのに、そうだと言い聞かせているのに、心がずっと感じていた違和感を思い起こす。
グラグラと意識が揺れて、いろんな感情が、いろんな記憶が、有る事無い事フラッシュバックする。
その中に、今のこの光景にとてもよく似たようなものが、あった気がした。
話に集中して、いつも通り楽しくお喋りをしたい。でもできなくて。
どうして今、有友や安食ちゃん、姫野先輩たちの顔が浮かぶんだ。
彼女たちが話してきたことなんて、今は関係ないはずなのに……!
でも、今この状況と結びつけようと、ごちゃ混ぜになった記憶がぐるぐると動いて止まらない。
混乱して固まる俺。
未琴先輩は俺を静かに見つめてから、ゆっくりと、でも確かに唇を動かした。
「
今まで何度も言ってもらったその言葉。
いつもならそれにドギマギして、ただ嬉しがっていればよかった。
でも今のその言葉は、確かな返答を求められている告白だった。
「……未琴先輩、俺は────」
頭も心もぐちゃぐちゃで、記憶と感情が入り乱れて。
けれどそんな中でも目の前の健気な女の子に向き合って、俺はしっかりと未琴先輩を見据えた。
その気持ちはめちゃくちゃ嬉しいし、これ以上の幸福なんてきっと存在しない。
圧倒的な美貌もさることながら、未琴先輩自身が魅力満載で、彼女に好きと言われて好きにならないわけがない。
でも、でもまだなんだよ。
まだ何にも解決してない。わかってない。そこまでいってないんだ。
「俺には、まだその気持ちには答えられませんよ。だって俺、まだ未琴先輩のこと、知らないことばかりだから」
嫌なところなんてない。ちょっと怖いところなんて、むしろ可愛さを引き立ててる。
トンデモ話で妙な嫌疑をかけられてることを含めたって、未琴先輩を拒絶する理由にはならない。
ただ単純な話、俺はまだ彼女を何も知らないから。どうして好きになってもらえたのかも、初めて出会った時のことも、何も知らないから。
今はまだ、俺は未琴先輩に対して誠実になれない。
だから、まだ駄目だと答えた。まだ最初の時とあまり変わってないと。
そう告げる俺に、未琴先輩は微かに眉を落とした。
「また、振られちゃった」
そう、掠れる声で呟いて。でもやっぱり、微笑は崩れていなくて。
ただそれでも、その揺るぎない瞳はどこか弱々しく下を向いた。
そして────
「腹いせに、こんな世界滅ぼしちゃおうかな」
そんなことをさらりと言って、未琴先輩は胸の辺りで拳を縦向きに握った。
手の中には何もないのに、まるで何かを握り込んでいるようにふわりと。
そう。まるで世界を吹き飛ばす爆弾のスイッチを持っているかのように。
親指だけ、少し浮いている。
「な、何を言って……」
そんな冗談を、とは何故か言えなかった。
普段と変わらない柔らかな口振りの中に、張り詰めたものを感じて。
どう考えてもそんなことできっこないはずなのに、未琴先輩ならいとも簡単にできてしまうと、どうしてだかそんな気がした。
固まる俺を、未琴先輩は静かに見つめてくる。
不動の微笑みのまま、その迫力のある瞳で、まるで俺の出方を試しているかのように。
俺がその気持ちに答えれば、未琴先輩はそれを取り下げてくれるんだろうか。
でも、そんなことしても意味なんてないじゃないか。
「…………いや、ダメだね。ここで諦めるんなら、この道を選んでみた意味がないもの」
何と言えば思い直してくれるかと、必死に思案していた時。
未琴先輩はふとそう言葉をこぼすと、やんわりと握っていた拳を解いた。
安堵に胸を撫で下ろした俺だったけれど、でも、まだ終わってはいなかった。
「ごめんね、尊くん。もう少し頑張ってみるから。何度、君に振られたって」
「未琴先輩……?」
「せっかくこんな気持ちになれたんだから、諦めるのには、まだきっと早い」
そう言うと未琴先輩は、徐に自らの前髪に手を伸ばした。
彼女の右目を少しだけ隠す、その長い前髪に。
それを目にした刹那、俺の頭がバチバチと弾けた。
今までとは比べ物にならない、強烈な違和感が身体中の神経を駆け巡る。
そこから込み上げてくる感覚が、それはダメだと告げいていた。
わからない。わからないことだらけなのに。
それでも何故か、不揃いのピースが乱暴に頭の中で組み立てられて。
ガチャガチャと、知ってる記憶と知らない記憶が繋ぎ合わさる。
そしてそれらが、未琴先輩にそれをさせるなと叫んだ。
「ダメだ────!」
気がつけば俺は駆け出していた。
そして、前髪に人差し指を左巻きに絡め始めていた未琴先輩の手を、いつの間にか握っていた。
たまに見た気がする彼女の手癖のようなもの。それをさせてはいけないと、俺の全神経が無性に訴えていて。
手を握った俺を、微かに目を見開いた未琴先輩がまじまじと見つめる。
わかりにくいけれど、その薄い唇が小さく開いているから、結構驚いているみたいだ。
正直俺も驚いている。今の自分の行動もだし、その最中に導き出された結論にも。
俺自身理解できないし消化できていないけど、俺を支配する違和感がひしひしとそれを事実だと突きつけてくる。
だから俺はもう飲み込むことを放棄して、込み上がる衝動のままに未琴先輩を見つめて、言った。
「未琴先輩……あなたはそうやって、ずっと時間巻き戻していたんですね」
何を言っているんだろう。でも、この数瞬の間に俺の中で組み立った違和感たちは、その答えを導き出した。
今の俺が知らないはずの答えが、違和感に気付いてしまったが故にできあがってしまった。
そして俺はそれを、今までの長い間の違和感の正体だと、この未琴先輩の行動を見て確信してしまったんだ。
けど否定して欲しい。否定してくれ。こんな馬鹿げた話。
でも未琴先輩は、ただ俺を見つめたまま。
「初めて、手握られちゃったね」
それは、観念したような呟きだった。
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