第12話 未琴先輩と食べさせ合いっこ ② 19462
「はい、あーん」
その軽やかな言葉とは対照的に、未琴先輩のトーンはフラットだ。
けれどそれでも、まじまじと俺を見つめながら差し出されるだし巻き卵は、俺をドキドキさせるのに十分過ぎた。
仲睦まじい男女のように、未琴先輩は俺へと身を寄せる。
ただ食べ物を差し出されているだけと言われればそれまでなのに、どうして女子にあーんされることがこんなに恥ずかしいんだろう。
けれどちょっと嬉しくもあって。それはやっぱり、親愛の気持ちが含まれた行為だからなのかもしれない。
ちょっと待ってとひと問答したくあったけれど、有無を言わせない未琴先輩の視線がそれをさせない。
差し出された箸に対して、俺は口を開く以外の選択肢を与えられていなかった。
覚悟を決めて恐る恐る開口してみると、とても丁寧な所作で口の中にだし巻き卵がやっていた。
「…………」
口を閉じれば、柔らかく深い卵の味わいが広がった。
とってもうまいし、これを堪能したい気持ちはある。
けれど今だけはどうしてもその味に集中することができなかった。
だって俺は今、未琴先輩が口をつけた箸を咥えているんだから。
これは間接キス、ということになるんだろうか。
いや、箸という口に含むものを咥えている行為は、なんというかそれ以上の背徳的な気持ちを掻き立てる。
なんて、ちょっと変態的なことを考えてしまうほどに、俺は妙な興奮を覚えてしまった。
口の中に広がるこの味わいは、だし巻き卵か、はたまた未琴先輩の────やめろ、俺。
「おいしい?」
俺の口から箸を引いて、未琴先輩は囁くように尋ねてきた。
味なんてほぼわかんなかったけれど、でも本能がうまかったと叫んだので、俺は咀嚼しながら大きく頷いた。
「……普通より百倍うまかったと思います」
「正直でよろしい」
ドキドキと興奮で暴れる心情を抑えるために、わざと大袈裟な物言いして自分自身を誤魔化す。
そんな俺の反応がお気に召したようで、未琴先輩は柔らかく微笑んだ。
「私のお箸がいいエッセンスになった?」
「食べさせてもらえたことが美味しさ向上の秘訣だと思います!」
まるで俺の心を読んだかのように、未琴先輩は意地悪くとんでもないことを言った。
慌てて無難な言葉を被せて誤魔化したけれど、面白そうに目を細めた彼女には意味なかったかもしれない。
俺、先輩の箸を味わうようなそぶり、見せてないよな? 口を離す時、名残惜しそうになんてしてないよな……?
「そっか、食べさせてもらうともっと美味しくなるんだね。じゃあ、今度は私の番」
からかうように俺を見てから、未琴先輩はそう言って居住まいを正した。
長い右側の前髪を右手で抑えて、その相貌を遮るものなく俺に向ける。
そうだ、これは食べさせ合いっこだった。
されたらし返す。そうしなければ成立しない、恋人らしいことなんだ。
自分がされるだけでもかなりドキドキものだったというのに、先輩のお口に食べ物を手ずからお届けするなんて、難易度が高すぎる。
それに未琴先輩は自分の箸をしっかりと持ったままだ。
つまりこれは俺も、自分の箸で彼女に食べさせなければいけないということ。
そんなことしていいのか? でも先輩はそれをお望みだ。
それに、もう既に未琴先輩の箸に俺が口をつけてしまっているから、どっちにしても同じことだ。
「それじゃあ、僭越ながら……」
意を決して、先輩の弁当箱から唐揚げを摘み上げた。
俺がハラハラしながら箸を持ち上げるのを、未琴先輩はただ静かにじーっと見つめてくる。
それは期待の眼差しなのか、はたまた、ちゃんとできるかなと試しているものなのか。
何にしてもやっぱり、未琴先輩の目は柔らかいのにどこかちょっぴり気圧される。
ただ今においてはきっと、この行為に俺が緊張しているだけだ。
俺が唐揚げを口元まで運ぶと、未琴先輩はゆっくりとその口を開いた。
ただそれだけの行為がなんだか無性に色っぽく、なんともイケナイことをしているような気分にさせられた。
その口内に箸でお邪魔して、未琴先輩がまたゆっくりと口を閉じる。
唇が箸を挟む感覚がなんだか生々しくて、俺はついつい息を飲んでしまった。
「…………」
箸越しに、先輩の口の中の感覚が伝わってきている気がする。
唐揚げを迎え入れた舌の動き、箸を
まるで俺自身が食べられてしまったと錯覚するように、それらの触感が生々しく想起されて、俺は未琴先輩から目が離せなくなった。
食べさせるって、こんなにイケナイ感じの行為だったのか。
そんなことを思っていると、未琴先輩は頭を引いて自ら箸を引き抜いた。
そこで我に返った俺は、自分が引き抜くことを忘れていたことに気付いて、大慌てで身を引いた。
けれどもちろん手を遅れにも程があって、未琴先輩はゆっくりと咀嚼しながら俺を意味ありげな視線で見つめてきた。
「確かに自分で食べるよりも美味しいかもって、そう言おうと思ってたけど……」
唐揚げを飲み込んだ未琴先輩は、開口一番そう言った。
油でテカった唇が妙に扇情的なんだけど、今は続く言葉が恐ろしくて楽しめない。
「まさか
「ご、誤解です! いやえっと、あんまり言い訳はできないんですけど……でもその、やましい意味があったわけじゃなくて……!」
俺の行為そのものに他意はなかったけれど、明らかに長すぎる時間箸を咥えさせてしまったのは事実だ。
そして俺の箸を咥える未琴先輩に魅入られてしまったのも、また事実だ。
変態的な嗜好の持ち主だと思われても仕方がない。
けれど俺は必死に首を振って、未琴先輩はそんな俺を面白そうに眺めている。
「まぁいいよ。私も君のお箸を堪能できたから、それでチャラにしてあげる」
「ありがとうございますと言うべきなのか、恥ずかしがるべきなのか……」
「いいじゃない。これで恋人らしいことの意義は果たせたし。どう? 少しは私のこと好きになった?」
「そ、それは…………」
淡々とした口調で俺をからかいながら、未琴先輩はさらりと自らの弁当を手に取る。
この流れで自分の食事を続ける冷静さは俺にはなくて、彼女のその動じなさに驚かされる。
俺は正直、かなり意識させられてしまった。
あの衝撃のスタートからずっとそうと言えばそうだけど、今のはだいぶ心臓にきた。
けれど逆に未琴先輩はどうなんだろう。俺とこんなことをしても、その普段通りの微笑を崩さない彼女は、どう思ったんだろう。
聞きたいけれど、でもとてもじゃないけれど聞けない。
「先輩の魅力は、とってもよく伝わりました」
「それはよかった。因みに私は、思ってたよりもっと尊くんが好きになったと思うよ」
「…………!」
とりあえず無難な言葉でこの場を切り抜けようとした俺に、未琴先輩はさらりとぶち込んできた。
俺の情けない態度のどこを好意的に受け取ってくれたのかはわからないけれど、彼女は見た目の反応以上にこの行為を楽しんでくれていたみたいだ。
そんなどストレートな言葉を迷いなくあっさり言ってくるなんて、心臓がいくつあっても足りない。
正直俺は、もう未琴先輩のことが好きになってると思う。
魅力に富んだこの人が、こんなに甲斐甲斐しく好意を向けてくれて、好きにならない方が無理な話だ。
けれどそれを素直に認められないのは、自分の好意を口にするのが恥ずかしくて、そして怖いから。
待ちに待った女子からの好意を受けても尚、俺はヘタレているんだ。
だってここまできても俺は、未だに未琴先輩が俺を好きだと言ってくれる理由がまるでわからない。
本心だと思うし思いたいけれど、俺がそれに応えようとした時に、実は嘘でしたと覆される可能性をどうしても考えてしまう。
彼女はそんな卑劣なことはしないとわかっているけれど、でもそんな被害妄想を抱いてしまうくらい、まだ自信が持てない。
だって、俺が良いと思うような素敵な女子が俺のことを好きになってくれるなんて、そんなの都合良すぎるって思ってしまうから。
それに、ほんの僅かな懸念事項が頭の中をチラついているというのもある。
それらを全て乗り越えて取っ払ってしまえば、俺は晴れて未琴先輩とラブラブカップルになれるはずなのに。
今はまだどうしても、この先に進むことはできない。
もう少し、判断しないというぬるま湯に浸かって、この関係性に自信を持てるようになりたい。
そして俺ももっと、先輩を好きになりたい。
「大丈夫、別に焦らなくていいよ。これから私が、もっと私を好きにさせてあげる」
上手く言葉を返せない俺に、未琴先輩は優しくそう言った。
深い闇を思わせる底知れない瞳が、俺を飲み込もうとするようにじっくりと向けられている。
そこに浮かべられていた微笑みは、何もかもを許してくれるように温かだった。
「私以外を見られないくらい、ね。尊くんはよそ見しがちだから、何度だって私がこっちを向かせてあげる」
そう言いながら未琴先輩は、自然な動作で俺へ再び箸を向けてきた。
あまりにも当たり前のようにされたせいで、俺は反射的に口を開いてしまって、甘く煮込まれたカボチャが口の中に押し込まれる。
されるがままにモグモグとする俺を見て、未琴先輩は口元を緩めた。
「君が私を好きになってくれれば、きっと私も君をもっと好きになる。そうやって二人で答えを見つけていきたいな」
フラットな声色ながらも優しげな言葉に、口が埋まった俺はただただ頷くことしかできなくて。
そんな俺に未琴先輩は小さく微笑んでから、ポツリと付け加えた。
「そうすればもしかしたら、この世界に希望を見出せるかもしれないから」
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