第8話 安食 楓とパンの山と特殊能力 ① 5743

 水曜日。

 未琴先輩からの呼び出しという大事件は、もちろんちょっと時間が経ったくらいじゃ忘れられるわけがなかった。

 朝のホームルームギリギリに滑り込むことでダメージを軽減させたとはいえ、それでもみんなからの追及を受けないわけじゃなかった。


 けれど人間というのは飽きっぽいもので、俺から碌な情報が取れないとわかると、段々と人だかりも少なくなった。

 それでも好奇の眼差しがなくなるわけじゃなく、色々な噂話や憶測が飛び交うのがなくなるわけでもない。

 それでもまぁ、直接的に押し寄せてこないだけでも幾ばくか気分が楽だった。


 目の前の席の有友は、その件に関して何も言ってこない。

 てっきり一番に突撃してくると思ったけれど、今日はらしくなく静かだった。

 いつも賑やかだからたまには悪くないし、特に今日はありがたかった。


 昼休みには、同じように未琴先輩が教室まで迎えにやってきた。

 今日もまたと、特に約束をしていたわけではないんだけれど、先輩は当たり前のように教室を覗き込んで俺を呼んだ。

 前ほどではないにしろ衝撃を受けているクラスメイトの脇をすり抜けるようにして、俺はいそいそと飛び出したのだった。


 みんなに注目されるのは居心地が悪いけれど、これだけ美人な年上女子に甲斐甲斐しく呼び立てられるのは、正直気分がいい。

 その綺麗な相貌を俺だけに向けて、淡々としながらも穏やかな笑みで迎えてくれるんだ。

 色んな懸念を込みにしても、浮き足立つような気分が勝ってしまう。


 こうも未琴先輩が俺目的にやってくれば、誰もが確信するだろうな。

 俺と未琴先輩は特別な関係になっているんだって。

 強ち間違いではないような、でもだからといって正しいことではない。

 けれど未琴先輩は他人に何と思われようが気にしないようで、だからこその堂々としたこの振る舞いなのだから、もうみんなには思いたいように思わせるしかない。


 まぁ、そう誤解されて俺に損はないし。

 知らぬ間に恨みを買って刺されたりしない限りは。


 今日もまたお手製の弁当を用意してくれたという未琴先輩。

 同じように屋上でゆっくり食べようということで、もちろんご相伴に預かることにした。

 けれど一方的にご馳走になり続けるのも何だか気が引けた俺は、飲み物くらいは出させてもらうことにした。


 自販機がある購買の方は混んでいるから俺一人でと、先輩には先に屋上に向かってもらう。

 昼飯の争奪戦を繰り広げている集団の方に向かうと、あれが神楽坂 未琴の相手らしいぞ、という視線がたっぷりと俺を蹂躙した。

 どうしてあんな奴が、と思われてるんだろうけど、生憎と同意見なので黙々と堪えるしかない。


 幸いにもみんな自分の食糧調達の方に関心が強く、そこまでしつこく俺に意識を向けてくるやつはいなかった。

 多少の居心地の悪さを感じながらも俺はさらっと購買の脇を通り過ぎて、自動販売機がずらりと並ぶエリアへと滑り込んだ。

 そこで俺は、妙にぴょこぴょことした生き物を見つけた。


 飲み物の自動販売機と一緒に設置されている、菓子パンの販売機の前で小さなものが何度も飛び跳ねている。

 とても小さなその女子の腰まで届く長さの亜麻色の髪は、まるでゴールデンレトリバーの体毛みたいにふわふわで暖かそうだ。

 それが飛び跳ねるたびにふさふさと舞って、同時に何故だかその奥から菓子パンの袋がポロポロと毎回落ちる。


「これでいいのか?」


 見ているのは面白かったけれど、放っておくのも可哀想で、俺はさっと近寄った。

 短い腕を必死に伸ばして、何度も何度も飛び跳ねて押そうと試みていた、最上段にあるメロンパンのボタンを代わりに押してやる。

 機械の中のワゴンが一番上まで上がり、袋詰めされたパンを受け取って降りるのを眺め、その子はぱぁっと笑顔になった。


「あ、ありがとうございます! 何度跳んでも届かなくて困ってたんです。でも今日はどうしてもメロンパンの気分で、諦めがつかなくてぇ」


 取り出し口からメロンパンを迎えながら、意気揚々と言う。

 そしてほくほく顔で俺の顔を見上げて、更にぱぁっと顔を綻ばせた。


「あ、後宮うしろぐ先輩だったんですね! どうりで優しいわけです。ありがとうございました!」

「納得の仕方がよくわからないけど、どういたしまして。知らない仲じゃないし、こんなのわけないよ、安食あじきちゃん」


 ペコリと丁寧にお辞儀するその姿に、俺は平然と答えた。

 礼儀正しいのは良いけれど、今ので腕に抱えていたパンがほとんどこぼれた。

 さっき飛び跳ねるたびに落としていたのは、腕いっぱいに抱えていたパンだったのか、と一人冷静に納得する。


 安食あじき かえで。身長は百四十一センチしかないという、かなり小柄な一年生だ。

 百七十ちょっとはある俺と並ぶと、お父さんと娘くらいの体格差になってしまって、ちょっぴり小学生を相手にしている気分になってしまう。

 失礼だから本人にはそんなこと言えないけれど。まぁこの子は怒ったりしないで、むしろ楽しそうに笑うような気がする。


 そんな彼女は、小柄な体型を包み込むようにふわふわと毛量の多い髪を長く伸ばしているから、小さいのと合わせて動物的な愛らしさを持っている。

 その上本人がびっくりするくらい穏やかで丁寧な子だから、その存在で癒してくれるマスコットのような子だ。


「後宮先輩も、じゃなかった、うっしー先輩も自販機パンでお昼ですか?」

「違う。色んな意味で違う。飲み物を買いにこっちに来ただけだし、そして俺はうっしー先輩じゃない。間違ってなかったのに間違えるんじゃない。悪い先輩に毒されるな」

「ダメですか? あさひ先輩がいつも『うっしー』って呼んでるの、実はちょっと良いなって思ってたんですけどぉ」


 ダサいあだ名が伝播していくことに危機感を覚えた俺が透かさず否定すると、安食ちゃんはしゅんと小さな唇を窄めた。

 そんなちょっとした仕草が可愛いくて少し心が揺らぐけれど、ダメなものはダメなんだ。

 ついこの間まで、というかつい今し方まで丁寧に後宮先輩と呼んでくれていたのに。もうその頃が懐かしい。


「とにかく、いつも通り呼んでほしい。俺は普通に名前でいいんだ」

「うーん、可愛いと思うんですけどねぇ」


 安食ちゃんはそう小さく呻いてから、「わかりました」と言いながら落ちたパンを拾い出した。

 あんまりにも沢山なものだから、俺も手早く手伝ってやる。

 二十個近くあるそれは一見大人数にパシられたような量だけれど、これをこの小柄な彼女が全て食べれてしまうのだから驚きだ。

 安食ちゃんは見かけによらず、異常なまでの大食漢なんだ。


 俺が初めてその食べっぷりを目にしたのは、有友に駆り出されたボランティア部の活動の時。

 地域の春祭りの手伝いをして、その後出店の余りやらを持ち寄った打ち上げもどきの時、彼女は絶え間なくずっと色んなものを食べ続けていたんだ。

 大の大人何人分を平らげたのかわからない。大人たちが酒盛りに移って碌に食べなかった食べ物を、ほぼ一人で片付けていた気がする。


 ボランティア部所属の安食ちゃんとは、それが初めましての出会いだった。

 それ以降、何度か有友に手伝わされた活動の中で話すようになって、今はこうして顔を合わせれば世間話をする仲だ。

 特に部活や委員会に入ってない俺にとっては、唯一の面識ある後輩だと言っていい。


「助かりました。食べたいの全部買ってたらいっぱいになっちゃって、でももう少し買いたくて困ってたんですよぉ」


 小さな腕の中にパンの山をこさえて、俺がその山頂に最後のものを積み上げると、安食ちゃんはにぱっと笑った。

 その小動物のような愛くるしい笑顔が、今はパンの山に埋もれてとても見にくい。


 これだけ食べて、その体積は一体どこへ行くんだろう。

 身長にいっていないのは言わずもがな、だからといって太っているわけでもなくむしろ小柄に沿った細身で。

 世の中というのはなかなか不思議な物だといつも思う。


「あ、そうだ、うっしー先輩」

「さっきわかりましたって言ってたのに」


 もうナチュラルにあだ名呼びしてくる安食ちゃんに、俺はコトンと首を落とした。

 彼女はクスクスと笑いながら、「だって可愛いんですもん」と言ってから言葉を続けた。


「今、少しお時間よろしいですか?」

「あー、ちょっとなら。人待たせてるからさ」

「もしかしてそれって、神楽坂 未琴、ですか?」

「え、あぁ、うん」


 ふんわりと柔らかい安食ちゃんの表情が僅かに翳って、俺は微妙な相槌を打ってしまった。

 どうやら、俺が未琴先輩の呼び出し相手だということは一年生の中でも周知のことらしい。まぁ、もう仕方がないことか。


「なら尚更、ちょっとだけでも私にお時間をください。大事なお話があるんです」

「…………大事なって、どんな?」


 良い話の気はまるでしない。「好きです! 神楽坂先輩のところには行かないでください!」なんて展開にはなりそうにもないだろう。

 むしろ妙にいやーな気がして、俺は自分より遥かに小柄な子に対して恐る恐る尋ねた。

 安食ちゃんはどこか申し訳なさそうに身を縮めながら、けれど真剣な眼差しで俺を見上げて言った。


「神楽坂 未琴のことです。あの人が、その力が、どれほど恐ろしいか。先輩には話しておかないとと思いまして……」

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