第4話 神楽坂 未琴とキスをした責任 ④ 15

「つまり、先輩の言う責任をとってっていうのは、然るべき態度をとれって、そういうことですか?」


 必死に頭の中を整理しながら、神楽坂先輩が言わんとしているであろうことを言葉にしてみる。

 彼女は俺からキスを求められたことを────求めてはいないんだけど────怒っているわけじゃない。

 むしろそういうことをした仲なんだから、その後の関係は決まっているだろうと、そう言いたいように聞こえた。


 つまり端的に言えば。

 俺がキスを求め、神楽坂先輩はそれに応えた。

 そして実際に俺たちの唇は交わされた。

 だからもう付き合ってるよねって、そういうこと……?


「もしかして、嫌なの?」

「ま、まさか嫌なんてことは……!」


 信じられない回答に辿り着いた俺の戸惑いを不服と捉えたのか、神楽坂先輩の眉が微かに寄った。

 しかめた顔も大変お美しいなと思いつつ、慌てて誤解を否定する。


 嫌じゃない。嫌なわけがない。

 こんな綺麗で優しくて料理上手な年上女子とお付き合いできるなんて、男に生まれてこれ以上の喜びがあるだろうかと思う。

 けれどあまりにも突拍子もなさすぎて、それを純粋に受け取るのに準備が足りないんだ。


「確かに君の申し出はかなり不躾で、私はとっても度肝を抜かれたよ。でも、それも良いかなって思わされた。だから私は、君にファーストキスを捧げたんだよ」

「ファ、ファーストキスだったんですか……」


 流石その手の噂が全くない神楽坂先輩だと思いつつ、そんな貴重なものを無自覚に頂いていたのかと思うと戦々恐々とした。


「もちろん。尊くんは?」

「お、俺もです……」

「ふぅん。それじゃあ初めて同士だったんだ。それはなんだか……嬉しいね」


 そう言って、神楽坂先輩は口元を小さく緩める。

 完成されたお美しいご尊顔は、割と淡々とした表情がベースだけれど、だからこそほのかに浮かぶ笑みが非常に愛らしい。

 不覚にも俺は、その微笑みに心臓をぶん殴られてしまった。


 惜しむらくは、その初めてを俺が全く覚えていないということだ。

 俺がわかるのは夢のように感じるあの情景だけで、実際の出来事としては未だに想起できない。

 神楽坂先輩の言葉から、昨日あったであろうその出来事と重ねて会話をすることは、辛うじてできなくもないけれど。

 そんな一大イベントを俺が認識できていないというのが、正直かなり痛い。


 待ちに待った女子からの告白的な展開。しかもとびっきりの美少女から。

 けれどそれを素直に喜ぶことができないのは、どうしてもそこが引っかかってしまうからだ。


「でも俺、そのこと全然覚えてないんですよ。それが実際あったことなのか、そもそも昨日どうしたのかも、全くわかんなくて。先輩の言葉を疑うわけじゃないんですけど、ちゃんと責任と誠意を持って応えられないというか……」

「覚えてないのは仕方がないよ。尊くんのせいじゃない。それに、君が覚えていなくても、いつまでだって私が覚えてるから大丈夫」


 申し訳なさに苛まれながら言うと、神楽坂先輩は意に介すことなく応えた。

 体育座りのように膝を立てて、そっと抱きしめながら。

 そんな彼女は、どこか哀愁を感じさせる儚さを醸し出していた。


「どんなにはっきりしなくも、朧げになってしまって、霞んでわからなくなってしまっても、確かな事実を私は知ってる。尊くんが私にこの気持ちを教えてくれたっていう事実は、何があっても変わらないんだよ」

「俺が先輩に言ったっていう言葉が、本当じゃなかったとしても、ですか?」

「うん。それは飽くまできっかけだから。私は君に興味を抱いて、受け入れてみること選んだ。私にとって大切なのはその事実だから」


 柔らかい声色で、しかし確かな意思が込められた決然とした言葉。

 可憐で甘酸っぱい囁きのようで、強い覚悟を持った宣言でもある。


 俺にとっては未だに訳のわからないことばかりで、根拠が全くわからないけれど。

 それでも神楽坂先輩が彼女なりに真剣で、俺をからかって弄んでいるのではないだろうということはわかった。

 思い違いや勘違いで始まったとしても、神楽坂先輩はその中に確かな何かを見出して、それ故の行動を起こしている。

 だからこそ俺に、それに見合った責任を求めているんだ。


「私にとってもこんな気持ちは初めてだから、正直どうして良いのか迷った。でも、積極的に未知に進んでみようかなって思って。だから、私をこんな気持ちにさせた君と、もっと色々な経験をしてみたいと思うの」

「そ、それって……それって、つまり……」

「私は多分、尊くんのことが好きになったんじゃないかと、思う。初めてだから曖昧な感じになっちゃってごめんね。でも君に対するこの興味はきっと、そう言葉にするのが正しいんじゃないかな」


 膝を抱えて小さくなりながら、神楽坂先輩はささやかな声でそう言った。

 淡々としたその振る舞いはこうしたことに慣れているようで、けれど言葉の節々には確かな戸惑いのようなものが見て取れる。

 何に於いても堂々としているように感じられる彼女だけれど、その実、年頃の少女らしい感情の揺らめきを持っているようだった。


 ほのかな笑みと共に向けられる、深淵に吸い込むような底知れない瞳。

 その圧倒的な美貌の圧力が、俺に未知への恐怖と好奇心を沸き上がらせる。

 けれどそんな中で、目の前の健気な女の子のひしひしとした気持ちが俺の心を浮き立たせた。


 好きだなんて言われて、嬉しくないわけがないんだ。

 しかもこんなに可愛い子に。


「もし尊くんが昨日のことを覚えていないことを、後ろめたく思っているんなら……」


 そう言うと、神楽坂先輩は徐にこちらに体を傾けた。

 せっかく俺が空けていた隙間を埋めて、シートに手をついてこちらに身を乗り出してくる。

 彫刻のように完成された綺麗なお顔が間近へと迫る。

 その美しい迫力に、心臓が爆発するかと思った。


「今、もう一回してみてもいいよ」

「なっ……」


 艶やかな唇で紡がれた言葉に、俺は自分の顔が真っ赤になったのを感じた。

 柔らかそうなそれにむしゃぶりつきたいという本能的な欲求と、がっついていはいけないという理性が心の中で戦争を起こす。

 どう考えても、普通だったら比べようもなく本能が優勢で。そちらに重心を傾けてしまえば、俺はあっという間に天国へ行けるんだろう。


 でも、それじゃあ駄目な気がした。


「────できません。俺には」


 なんとか言葉を絞り出して、先輩の唇に釘付けになっていた視線を外す。

 真っ直ぐ向けられている視線が寂しげに揺れた気がして、とても胸が痛んだ。

 でも俺は、こんな有耶無耶のまま楽な方に流れるのは嫌だった。

 それこそ、誠実ではないと。


「俺には、先輩とキスすることも、その気持ちを受け止めることも、できません……少なくとも、今は」

「……理由を聞いてもいいかな」


 顔色を変えることなく、神楽坂先輩は身を引いて座り直した。

 そのあっさりとした反応に寂しさを覚えつつ、けれどこれこそ責任だと、俺はしっかりと言葉を続けた。


「先輩の気持ちはすごく嬉しいですし、正直キスはかなりしたいです。でも俺は先輩のことをまだ何も知らないし、どうして好きになってもらえたのかもわからない。俺にとっては、俺たちにはまだ何もないんです。そんな状態で美味しいとこだけ都合よく貰おうとするのは、先輩に対する責任の果たし方じゃないんじゃないかなって……」


 多分、かなり面倒くさいことを言っているんじゃないかと思う。

 こういう時はきっと、何も考えずにヒャッホーと受け入れれば良いんだ。

 夢にまで見た可愛い女子からの熱烈な告白を、細かいことなんて考えずに頂戴すれば良いんだ。

 きっと誰もそれを責めやしないし、神楽坂先輩もそれを望んでる。


 でも俺は、今まで恋が成就しない日々を過ごして拗らせてしまった俺は、それは嫌だと思ってしまった。

 もっとお互いのことをわかり合って、対等な立場になって、ちゃんと恋をしてから先に進みたいと思ってしまったんだ。

 きっとこんなことを言っているから、俺は今まで浮いた話にありつけなかったに違いない。


「……そっか。やっぱりそうなんだね」


 健気な想いを一蹴してしまった俺が恐る恐る様子を窺うと、神楽坂先輩はポツリとそうこぼした。

 その表情はやっぱり、ずっと保たれていた微かな笑みのままで。けれど緩く開かれている瞼は、今は僅かに憂いを帯びていた。

 かなり酷いことを言ったと思われてもおかしくないのに、彼女からは俺を責める雰囲気を感じなかった。


「わかったよ、尊くん。確かに君の言う通りだよね。初めての気持ちに、私は焦っちゃったかも。ごめんね」

「いや、先輩が謝ることじゃ……」

「だからこれから、積極的に君にアプローチすることにするよ。そうやって、高校生らしい恋愛をしてみようか」

「え……」


 てっきりこれで終わってしまうものだと思っていた。

 勘違いがきっかけとはいえ、先輩の真っ直ぐな気持ちを俺は無碍にしてしまったんだから。

 けれど神楽坂先輩は、むしろこれは良いきっかけだというようにこれからを語った。


「君に私をもっと好きになってもらって、私も君をもっと好きになる。そうやって一緒に居続ければきっと、この気持ちの答えがわかるよね。君が、教えてくれるよね」


 驚く俺に先輩は薄く微笑んで、ピアノの白鍵のような白い指を俺へと伸ばした。

 何て答えるべきかと迷う俺の唇を、それがピトッと押さえる。


「今日のところはそうしよう。でも取り急ぎ、責任を取るってことで一つお願いを叶えてね」


 綺麗で可愛くて、でもちょっぴり怖い神楽坂先輩の顔が俺にまじまじと向けられる。

 トロンと重ための瞼に守られた芯の通った瞳が、俺を射抜いて放さない。


「これからは、私のことは未琴って呼んでね。だって君は、私の唇を奪った男なんだから」

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