第2話 神楽坂 未琴とキスをした責任 ② 15

 同級生たちの割れんばかりの驚きの叫びが響いたのは、神楽坂先輩の衝撃発言から数拍置いてのことだった。

 この場の全員が心を一つにして上げた驚きは凄まじく、空気がビリビリと震えた。

 これが漫画やアニメの世界なら、校舎ごとグラグラと揺れただろうというくらいに。


 けれど当の本人はどこ吹く風。その真っ直ぐな視線を俺に向け続け、不動の静かな笑顔を浮かべている。

 息が詰まりそうな美しい笑みと、周囲の好奇の眼差しの集中砲火を一身に受けている俺はといえば、混乱で思考が吹っ飛びそうだった。


 彼女が一体何を言っていて、それが何を意味しているのか。

 それを思案する余裕なんてまるでなくて、言葉を全く咀嚼できない。

 けれど直感的に、この場に居続けるのは絶対に良くないと、その思いが頭の中で弾けた。


「────と、とりあえず、場所を変えましょう……」

「うん、いいよ」


 しどろもどろになりながら応えると、神楽坂先輩は優しく頷いた。

 顔色はチラリとも変わらず、仏のように温かなその表情が逆に怖い。

 何も悪いことはしていないはずなのに、断罪を恐れるように身が竦む。

 でも同時に、麗しの神楽坂先輩のお声がかかったことに浮き足立つ気分もあって。

 もう色んな感情がごちゃ混ぜで、俺はパニック寸前だった。


 俺が席を離れると、神楽坂先輩は何食わぬ様子で廊下へと繰り出した。

 周りでフリーズしていた連中は、まるで女王に道を譲るようにささっと退がって、その間を彼女は悠々自適に進んでいく。

 俺はその後を小走りで慌てて追いかけた。


 神楽坂 未琴。

 そのあまりの美しさ故に、この学校で彼女を知らない生徒はいない、有名すぎる三年生。

 学校のアイドルやマドンナといった感じだけれど、そんなちゃちな言葉には収まらない存在感を彼女は持っている。

 高嶺の花という単語すら、彼女からしたら役不足だろう。天界から気まぐれに下界へと降ってきた女神様のような、隔絶したお人だ。


 そのありようが圧倒的過ぎて、逆に浮いた話が全くないという。まぁ、この凄みを持った美しさに挑むなんて、二十年に満たない人生経験じゃ無理って話だ。

 けれど決して孤立的ではなく、人当たりが良く交友の幅は広いと聞く。

 存在そのものが芸術の如く美しく、柔らかで暖かで優しい神楽坂先輩。

 学校中から崇められるように羨望の眼差しを向けられるのは、さも当然と言える。


「あの、先輩……どこに向かってるんですか……?」

「うーん、ひと気のないところ?」


 そんな天上の人に、数歩遅れてちょこちょこついていく、何の変哲もないちっぽけな俺。

 柔らかく小さな足取りで迷いなく歩いてゆく神楽坂先輩は、俺の情けない問い掛けにのんびりと答えた。


 少女らしい線の細い華奢な体躯ながら、その小さな背中から感じる存在の大きさが凄まじい。

 質問を重ねる勇気が出なかった俺は、黙って揺れるポニーテールを追い続けた。


 何故、こんなことになっているんだろう。

 責任をとってもらうって、俺は一体何を迫られるんだろう。

 そもそも神楽坂先輩とキスした記憶なんてまるでないんだから、責任なんて発生していないはずだ。それに今まで接点はまるでなかった。


 あの夢とも妄想ともつかない朧げなものを彼女が知っているわけはないし、仮に知られていたとしてもそこまで強く責め立てられることじゃないはずだ。


 ただ、その言葉と迫力はかなりのものだったけれど、でも何となく怒られるような感じはしない。

 先輩の笑みは悪い方向のものには見えなかったし、その存在の大きさが俺を萎縮させただけかもしれない。

 発言そのものは切れ味抜群だったけれど、それは飽くまで俺を呼び出す口実に過ぎなくて、何か他の思惑があるってことなんだろうか。


 だとすれば、神楽坂先輩がわざわざ俺を一人呼びつけるなんて、男と女的な話くらいしかないんじゃないだろうか。

 全く接点がないのだから、彼女に振られる話なんて、一目惚れからの告白くらいしかないんじゃないか?

 なんて、ちょっと浮かれてしまってもバチは当たらないだろう。

 いや、流石に発想が飛躍しすぎかもしれないけど。


 でもだって、誰しもが羨望を向ける神楽坂先輩に、名前を呼んでもらった上での呼び出しだぞ?

 学校中の男子が、いや女子までもが羨んで、嫉妬に燃える一大イベントだ。

 そんなの期待と妄想が膨れ上がったって仕方ないじゃないか。


「そうだなぁ、上に行こうか」

「あ、はい」


 期待と不安で現実から乖離しそうな意識を、神楽坂先輩の優しい声が引き戻す。

 でも正直ビビってる部分が隠せない俺は、みっともない返事をして後をついていくことしかできない。

 そんな俺に静かな笑みを向けて、先輩は階段を上がっていく。


 ひと気のないところって言ってたけど、尚更告白に適したシチュエーションじゃないか。

 俺にもとうとう春が、それも桜大満開の春が来たってことだろうか。

 可愛い女子に健気な好意を向けられ、愛らしい告白をしてもらえるような、そんな甘い学園青春ラブコメを俺も送れる日が来たってことなのか!?


 思い違いや勘違いの連続で、告白なんて絶対できないチキンな俺がゴールを迎えるには、もうそのルートしかありえない。

 青春真っ盛りの高校生活を可愛い女の子と華々しく過ごす、そんなラブコメのような日々を過ごすためにはだ。

 その可能性を、この神楽坂先輩に期待して良いってことなのか……!?


 思考と感情が駆け巡っている中、俺たちは気が付けば最上階まで昇りきって、屋上の入り口までやって来ていた。

 確かにここはひと気がないけれど、小さな踊り場しかないこんなところで?と思っていると、神楽坂先輩は徐に扉を押し開いた。

 屋上の扉の鍵は常に施錠されているはずなのに、解錠したそぶりもなく先輩は外へと繰り出す。


 色んな疑問が渦巻きながら、けれどもうその程度のことを気にしている場合じゃなかった。

 慌ててその背中を追いかけて焼けるような日の下に飛び出すと、神楽坂先輩はこちらに振り向いて給水タンクの陰へと手招きしてきた。


 言われた通りとぼとぼと日陰に入ると、今までの暑さが嘘のように引き、さっと涼しさが全身を舐めた。

 日差しを避けるだけでこんなに体感が違うものかと思いつつ、更に手招く先輩へと寄る。


「さて、ご要望通り場所を変えたことだし、責任をとってもらおうね」


 やんわりとした視線で改めてその言葉を口にする。

 浮かべる笑顔も言葉遣いもとても優しいけれど、やっぱりどうしても迫力を感じて竦んでしまう。

 その綺麗な黒い瞳の奥底が、闇の深淵のように俺を吸い込もうとしているからか。

 それともそのあまりにも堂々とした在り方が、ちんけな俺とは比べ物にならないくらいに大きいからか。


 ただそれでもやっぱり、こんな綺麗な人と面と向かって二人っきりというシチュエーションは、健康的な男子の心臓を暴走させている。

 怖さ半分期待半分。ドキドキが止まらない。


「あの、先輩……責任を取るって、俺は何をすればいいんでしょう……?」

「そうだね、まぁ色々とあるけれど。でもまずは、今はこれかな」


 おっかなびっくり尋ねる俺に、神楽坂先輩は目を細める。

 そのゆったりとした微笑が美しすぎてドキッとする。


「お昼休みだし、一緒にご飯を食べようか。君のためにお弁当を作ってきたからね」


 そう言った彼女の手に可愛らしい手提げが下がっていることに、俺は今更ながら気が付いた。

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