5F:彼女は夏を越える
彼女の部屋にはいつだってクラシックがかかっている。それは今日も変わらずで、だから俺は安心することができた。
「今日のは何?」
「ヴィヴァルディさんの四季だよ」
誰にだってさん付けをするのが彼女の癖だ。これまた相変わらずな様子に安心しながら後ろ姿を見守る。平均身長より少し小さな体はキッチンに向き立っていて、コップに氷を入れる音がやけに大きく響き渡った。
「俺、氷要らないよ」
「暑い中来てくれたんだから、遠慮しないで」
振り返り際に笑う。へにゃりとした、どこか頼りない笑顔。強風が吹けば彩る花びらを散らしてしまいそうな、たんぽぽの綿毛が無抵抗に飛んでいくようなそれだった。一方の俺はテーブルの下で自分の手を揉みながら、アイスティーが注がれる音を聞いているーーが、突然大きくなったクラシックにびくりと肩を揺らしてしまう。
それは体ごと向き直った彼女に見えてしまったらしい。アイスティーを二つ持った彼女はまた穏やかに笑うと
「わかる。夏って激しいから」
「夏?」
「ヴィヴァルディさんの夏。バイオリンが急にガッときてびっくりするでしょ?」
「あぁ……」CDプレイヤーから規則正しく流れるバイオリンに耳を傾けて「確かに。びっくりした」
「でしょう? アイスティーどうぞ」
テーブルに置かれるふたつの茶色いアイスティー。ありがとうと答えてから、俺は目の前の席に着席しようとする彼女に
「ーー別れてほしいんだ」
間髪入れずに、本日の目的を伝える。顔を上げる勇気はなかった。代わりに澄ました耳には、彼女が着席する音だけが聞こえていた。
暫しふたりの沈黙。アイスティーの氷がパキッと響く。落ち着いた旋律を彩るようなカランとした氷の音。彼女が飲んだからだと気づいたのは、コップが静かにテーブルに置かれてからだった。またやってきた沈黙に理由を並べ立てたい欲を抱いていると
「いいよ。別れよっか」
彼女の澄んだ声がそれを切る。俺は何も答えられなかった。ただ、安心だけしていた。
「夏だもんね」
彼女の顔は見られなかった。どんな顔をして言っているのだろうか。そんなことより早く逃げ出したかった。
「夏だから、しょうがないね」
クラシックでは再度バイオリンが盛り上がる。俺は彼女のよくわからない理由とバイオリンから逃げたくて、慌ててアイスティーを一気飲みした。
「ありがとう。それじゃあ」
勢い任せに立ち上がった弾み、椅子が倒れた。慌てて立て直し、すっかり忘れていたバックを肩にかけ玄関へ向かった。慣れ親しんだはずの靴を履くのに手こずっていれば、少し遠いところから何かが動く音が聞こえる。
彼女が、椅子を立った。俺にはそれがやけに怖くて逃げるように外へ飛び出した。後ろ手にドアを閉めれば、数秒後に鍵の閉まる無機質音。
嫌にかいた汗は背中をじわりと濡らしている。同じようにきっと、コップに残った氷は水を滴り落としてテーブルを汚していることだろう。
それが俺の濁した後だというような気がして、とにかく早く逃げたくて。
俺は、彼女の部屋から逃げるように階段を降り始める。直前に思い出した合鍵は、彼女のドアポストに突っ込んでから。
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