2F:萱野棗と赤い靴

「ーーなつめ、棗」


「うん?」


肩を叩かれた。存外小さなその手は、店主の萱野棗を振り返らせるには十分な力だった。振り返った男の頬を人差し指で突き刺すことなく、呼び止めた梅染あいわという少女は平均身長以下の頭で見上げ


「頼まれていたの終わったわ。店番していても構わない?」


「うん。ありがと」


返事をせずに少女は踵を返して定位置の丸椅子へ向かって行った。小さな店の隅、座面に木彫りの蓮が咲いたそこは彼女の文庫本が常に予約している。真っ赤なブックカバーのそれを取り上げ、背伸びをして座り込む梅染あいわには赤色がよく似合う。


そんな彼女の言う店番は勿論、読書時間だ。客が来れば対応してくれるのだから文句は勿論、ない。


一方の棗は茶葉やコーヒー豆が静かに客人を待つショーケースに上体を預けながら彼女の姿をまじまじと眺めた。髪をひとつにまとめる大きな真っ赤なリボンに吊り目の青と黒のオッドアイ、染色のない黒髪。誰にも懐かない気高い猫。例えるならロシアンブルーと思っていた彼は、あることに気づき顔をあげる。


読書中の彼女は来客のベルにだけ耳を澄ませている。きっと返事はないと思いつつ


「あいわ。あいわって赤い靴以外履かないの?」


常に同じ色を保つ足先について質問した。対し、彼女は変わらず本を捲り黙しているだけ。やはり返事はないかとよりもたれかかる彼の体が、正直諦めていた返事に震えるのは当然だろう。


「……ええ。私、赤い靴が好きなの」


「へぇ。赤は好き?」


「好きよ。好き。何よりも」


変わらず文字を追いながら返事する姿を静かに見つめる。それを黙したまま続けていれば、流石に気になったのか彼女は文庫本を膝の上で閉じ


「……何よ」


「ううん。ただ、あいわのガラスの靴は真っ赤に染めなきゃ駄目なんだなって思って」


それに気づく奴が現れたらいいね、と頬杖をつきながらぼやく棗。一方あいわは、じっと青と黒の瞳で彼の姿を映しながら彼へばさりと言い放つ。


「私に作るなら、最初から赤色ガラスを使って頂戴」


割れる前に剥がれる赤は嫌いよと彼女は凛とした声で一閃した。そうなんだ、と相槌を打つ彼の脳裏を走り抜ける今までのあいわの言動。老女が立ち往生していた先の不良へはっきりと邪魔と言い放った声、店の前で困っていた男へため息をつきながら道順を教えた後ろ姿。


その姿はいつだって気高いながらも優しい高嶺の花だ。来店客の何人かが彼女を色目で見ていることを思い出しながら、頬杖をつく彼は彼女が赤色ガラスと出会える日を密かに願う。


萱野棗にしては珍しい、人を想うひとときだった。


きっと、梅染あいわはいらないと一閃するだろう。

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