7F:それは代わり映えのない

この部屋の家主の目が覚めたらまずやることは、眼鏡をかけることだ。そうすれば寝惚けていたこの目も、急にはっきりさせられた視界に起きるしかない。


だが、視界と体のコンディションは別の話。明瞭になった目がまず映したのは天井のシミで、体が感じたのはマットレスの軋む音と煎餅になりかけの布団が体を受け止める力だ。まだぼんやりとしている目を擦ろうとすれば、手にぶつかったレンズとフレームの感覚。自分で一分ほど前にやったことーー何ならルーティンにも関わらず存在を忘れているのがあまりにも馬鹿らしいが、それを笑う気力は未だ湧いていない。


「……ねむっ」


彼はようやく体を起こして大きなあくびをひとつ。腹を掻けば、爪が赤い線を描いては消す。次に頭を掻けばようやく痛みで思考が冴えてきた。もうひとつ、ライオンみたいに大口を開けて最後のあくび。それを合図のように立ち上がれば床が軋んで、捲れていたズボン裾が下に落ちる。そのまま数歩進んでドアの向こうを目指した。


「……おはよぉ」


実家にいた時の流れで、ドアを開ければ誰もいない空間に挨拶をしてしまう。返事をしてくれる存在は、もちろんない。寂しいひとり暮らしだから、しょうがない。


つい先ほど最後と決めたはずのあくびをもう一度してから、キッチンの方向へ歩き出した。


ひとり暮らし故の誰にも怒られない雑多なキッチンへ足を踏み入れ、水切りかごから昨夜使ったグラスを取り出す。すっかり乾いたそれを落とさないよう用心しながら浄水に切り替え蛇口を回した。昔小学校の先生が「出始めの水は汚い」と言っていた言葉が妙に残っているため、数秒放置。すっかり回っていない頭で数えた五秒を機にコップをシンクへ置く。


水量の計算もなく、無計画に出したがためにすぐに満杯になったそれが小さな噴水を作り上げた。乾いた目をゆっくり瞬かせながらワンテンポ遅れて蛇口を締めると、簡易的な噴水はすぐに仕事を終える。名残のコップを傾け、必要外の水を逃していれば呼吸のように今日の予定が脳裏に浮かんできた。


今日は平日。嫌が応にも数時間後には仕事が迫ってくる。本日のタスクはクライアントの対応とプログラムの再構築。できたらバグ確認のためのテスト、そういえば小メンバーでの会議もあった気がする。そんなことをしていた彼の頭が傷み始めた。こめかみを抑え、ため息をひとつ。


まずは水を飲んでから。頑張るのはそこからだ。

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