B1F:スカーレットに落ちるから

貴方の名前を呼ぶことは、今日からやめることにしよう。


待ち合わせ場所に早く着きすぎた私の背中は、膝を緩めて後ろの壁にもたれかかった。カラスとお揃いのフレアワンピースが揺れ、シフォン生地の下からスカーレット色の洒落たサンダルが存在感を放っている。どちらも今日のためにおろした新品だ。


暇をしている左手を持ち上げ、手首の裏側を日に当てた。反射した銀色の文字盤はアナログの針ながら正確に今の時間を教えてくれる。約束からは十分以上前。渋谷の壁際で花となっている女子を捕まえてインタビューを試みる撮影隊を横目に見ながら、特に何の用もないスマホを籠編みバックから取り出した。


「……うん、もしもし?」


秘技、電話がかかったふり。花にフラれた撮影隊の群れが放つ必死な蜂の目を見ないように、左手と瞼で日除けも兼ねて視界を塞いだ。日陰でも夏の日差しはコンクリートを跳ね返って、真っ暗な世界を許さない。ほんの少し明るい闇を見つめながら、私は肩と耳で挟んだスマホ越しにいない相手へ話しかける。


「だから、この前の話はごめんねって。用事があったの」


周囲の雑踏が耳に届いた。楽しそうな笑い声が比較的多い。笑えない私は、真剣な電話の芝居を私のために続けてみせる。


「電話、出れなくてごめんね。でもメールは見たから許してよ。……おめでとう」


こういう時、嘘と本音を織り交ぜた方がぐんと真実味が上がると言うのは経験上理解していた。電話の相手は今日を一緒に過ごす、今ちょうど待っている子と仮定したまま


「にしても、プロポーズの仕方古典的すぎじゃない? ラブレターってさぁ。まあ、形に残る方が君は好きか」


自慢の黒髪を指先でいじりながら繋がっていない相手を目の裏に浮かべる。そんな私の指先にはローズピンクのマーブルネイルが浮かんでいて、きっと来てすぐ気づくだろうと思ったらようやく笑えてきた。今日のために整えた手先で笑い声を隠しながら、私自身がびっくりするくらい優しい声を出して


「何はともあれ、おめでとう。本当に。……これからどう呼ぼっか? 部活の名残りで苗字呼びだったけどーー」


突然全身を貫いた衝撃。スマホが滑り落ちるのを防ぎながらそちらを見やると、私の大好きなココア色で綿菓子のような髪が肩近くで踊っている。


見上げてきたその額には汗が少し浮かんでいた。黒と言い切ってしまうのは似合わない色素の薄い眼を細め、嬉しそうに笑う待ち合わせ人。


「ごめん、待ったよね? お待たせしました!」


「ーーんーん。待ってないよ。今来たからね」


少し乱れた髪を直しながら微笑み返す。指の背で彼女の額の汗を軽く拭えば、汚いよ! と光速で取り出されたハンカチと小さな手に包まれてしまった。


私はごめんねと言いながら、彼女の左手を見ないように心がける。


やっぱり、貴方の名前を呼ぶのはやめにしよう。


ほらだって、名前を呼んでしまったら。



【ラナンキュラス(赤)の花言葉:あなたは魅力に満ちている】

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