5F:藍微塵、刻んだ
随分と寂しい曲を弾くね、と問いかけたのは数年前。私と彼女がお世話になった音楽室でのことだ。
彼女は鍵盤を叩いていた指先を止める。深爪にならない程度に整えられた、楽器を演奏するための指。同い年のJKたちがネイルにはしゃぎ様々な色を乗せる中、洒落っ気のない珍しい手。
それは私も一緒だったが、髪を染めたりコンタクトにしていたから多分そこまで野暮ったくはない。ただ、彼女は高校に上がっても膝下スカート、染めたことのない黒髪、黒縁メガネ。クラスで本を静かに読んでいるタイプ。
はっきり言ってパッとしないカースト下層部。これで劇的な天才ピアノ少女なら良かったが、彼女はピアノも中の下。同じピアノ教室でなければ関わらなければ関わりたくもない、そんな子だ。
そんな評価をしていれば、件の彼女に首を傾げられてしまった。どうやらさっきの話が膨らむと思ったらしい。私はあえて大きな咳払いをひとつしてから
「寂しい曲だね。それ誰の?」
「……リヒナーの、忘れな草」
「リヒナー? ソナチネ弾けばいいじゃん」
「ソナチネ、まだ行けてないの。ブルクミュラーの後半だよ」
「そう」
教室でソナチネを貰っていないのは彼女を入れて片手で数えられる人数だ。それだけでレベルがわかってしまい、私は呆れを混ぜた「ふぅん」を返す。
「忘れな草、好きなの?」
「好きだよ」これにはやけにはっきりと「今度発表会で弾くの」
「へぇー」
決して音数が多いとは言えない、ゆったりとしていて、彼女自身の溜めや力の強弱が如実に試される曲だ。正直、音の多い方が技術も大して問われないし、何よりそっちの方がかっこいい。
さっきのメロディを思い出す。こんな曲が私と同じ舞台に立つと思いたくなくて、ブルクミュラーを推そうとした私の口を塞ぐように、黒髪を揺らした彼女は微笑んだ。
「忘れな草の伝説、知ってる?」
「知って、何か私に得ある?」
「ないかも」
「じゃあ知らなくていいや」
私が手をひらひらさせて返事をすれば、彼女は困ったような、どこか安心したように笑うだけ。
そして数ヶ月後の発表会。あの子はこの曲を最後にピアノをやめた。
大層な呪いを残してくれたものだと思う。そう思うのは、菓子折りを持って久しぶりに教室へお邪魔した今の私だ。
当時と全く変わっていないピアノ配置、楽譜の本棚、月謝袋にがんばりましたシールのストック。ピアノ椅子に座る私へ、あの声が問いかける。
『忘れな草の伝説、知ってる?』
あれ以来一回も聞いていない声なのに、やけに鮮明にリフレインしてしまう。舌打ちしながら、ついさっき気まぐれに検索してしまった忘れな草のページを消した。そのままの勢いでスマホの電源を切り、ピアノの鍵盤へ叩きつける。
バンという打音と不協和音が鳴った。頭に流れるのはあの日のあの子の忘れな草。
弾き終えた壇上で花束すら貰えなかった、忘れな草。
【勿忘草の花言葉:私を忘れないで、真実の愛】
ドイツの伝説が花の名の由来という。
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