第2話

 陽子は出勤してから一日中イベントの企画書作りや担当であるバンケットの会場の手配、厨房との打ち合わせからその他こまごまとした雑務、時々はコンシェルジュの如き仕事までこなし、帰宅は九時や十時になるのもザラだった。


 日常の買い物などは休日にまとめてするのだが、陽子は洗濯物を貯めるというのが苦手で、どうにも気分が悪かった。洗い替えなら一週間や十日はやりくりできるから休日にまとめて洗濯するというのも一つの方法である。しかし、陽子は洗濯機健在の折にも洗濯物を一週間も貯めこむようなことはしたことがない。せいぜい二日か三日。貯めたところで誰に咎められるわけでなし、自分の身から出た汚れであるわけだからそう嫌わなくてもいいとは思うのだが、陽子は脱衣籠に盛りあがっていく汚れた衣類にくたびれた人生の垢のようなものを感じ、日常が汚れに浸食されていくような気がしていた。


 だから帰宅してこまごまとした用事をしたり、片づけものをしたりしてから、また部屋を出てコインランドリーに行かなくてはいけないという面倒さが陽子の新しい生活だった。


 洗濯機が回っている間の待ち時間。世界は陽子と洗濯機の二人きりになる。


 ベンチに腰掛けぼんやりしながら、時々疲れのあまり寝てしまいそうにもなりつつ洗濯機をまわす。遠くで救急車のサイレンが鳴っているのが聞こえる。陽子はこうやってコインランドリーで一人座りながら、幾度も繰り返し思う。なぜ別れてしまったのだろうか、と。


 哲司は結婚に対して突然懐疑的になったのか知らないが、とにかく結婚できないと言い張っていたけれど、陽子の方では婚約破棄だか延期だかになったとしても別れるつもりなど毛頭なかった。考えたこともなかったし、自分のなにがいけなくて別れることになったのか、この期に及んでまだ理解できなかった。


 二人の間には決定的な価値観の相違も、すれ違いもなかった。式の日取りも式場も、二人で話し合って決めたことで、その経過でさえも意見の食い違うことなどなかった。


 いや、それよりもっとさかのぼれば、二人はお互いに大人になってから恋愛を始めたから自己中心的な嫉妬もくだらない痴話喧嘩もせずにきた。恋愛というものがとにかく優しく、甘く、多忙を極めるそれぞれにとっての癒しのようでさえあったのだ。だからこそ結婚へ進む過程はスムーズであったし、そこにはひたすら穏やかな時間が流れていると信じていた。


 それでも哲司が婚約破棄を申し出て別れたいと言い出したのは事実だから、陽子にしてみれば、それではこの恋愛が幸福なものであると信じていたのは自分だけだったのかと愕然としてしまった。


 陽子はこういった別れ話の常として哲司にその理由を問い質したし、無論、もう自分のことを好きじゃないのかとも尋ねたが、哲司はそれについては一貫して「そうではない」と答えた。「嫌いになったわけじゃない」と。


 ならば、なぜ。と、陽子は思った。今も、思う。嫌いじゃなければ別れなくてもいいではないか。もう少し時間をおいて冷静に考えれば思い直すこともできたかもしれないし、陽子はその執行猶予の中で今一度二人の恋が全盛期の盛り上がりを見せていた頃を思い出させようと考えてもいた。


 しかしそういった陽子の懇願が受け入れられることはなく、非情ともとれる頑なさで哲司は陽子との早急な別れを要求した。


 洗濯機が脱水に入った。暴力的な振動と騒音が陽子に向かって押し寄せてくる。その間陽子は自分の両親のことを考えて泣きそうになった。


 父親の激怒、母親の涙。それらがいかに正当な感情であるかも分かっているのに、哲司をかばった自分のあのみじめさ。自分が傷つく以上に家族を傷つけたと思うとやりきれなかった。


 哲司は「嫌いになったわけじゃない」と言ったが、あれは方便だったのだろう。言いかえれば陽子を「好きじゃなくなって」しまったのだろう。


 もし哲司がそう正直に言っていたなら、陽子は泣くだけ泣いて、尚且つ哲司を罵り、その後にすべてを水に流せたように思える。けれど、哲司の優しさが仇となり、陽子はなにもかもを持て余しこうしてコインランドリーで洗濯をするより他なかった。


 洗濯終了を告げる電子音が控えめに鳴る。陽子は洗濯機の中から絡まりあった洗濯物をひきずりだし、籠の中でほぐしてから乾燥機に入れた。


 ここの乾燥機は洗濯機の小ささに反してやたらに大きい。昔、アメリカ映画で見たような巨大なドラム式乾燥機。子供が這入りこんでいたずらする場面、あれはなんの映画だったか。布団がまるごと入ってしまうほど大きな乾燥機は陽子一人の数日の洗濯物などいとも簡単に乾かしてしまう。それも、大きいだけあってふんわりと。


 陽子は乾燥機からほかほかに温まり乾いた洗濯物を取り出すと、ようやくほっとしてそれまでのネガティブで悲しい物思いから解放され、清潔な衣類と共に自分のうちへと帰っていけるのだった。


 そんな仕事とコインランドリーの往復も一カ月。陽子は物思いに耽って半泣きになるのを避ける為に待ち時間に本を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴きながら持参の缶ビールを飲んだりするまでに進歩していた。


 

 その日は同僚と軽く飲んで帰り、幾分酔っていたのだが洗濯物が溜まり始めていたこともあり、部屋でスーツを脱ぎ棄ててジーンズとTシャツという格好になるとすぐに籠に洗濯物と缶ビールと文庫本を投げ込んでコインランドリーへと向かった。

 コインランドリーはその日も静かに陽子を迎えいれた。


 陽子の帰宅が遅いせいなのか、タイミングなのか、陽子は一カ月たってもまだ一度も同じくコインランドリーを利用する客を見たことがなかった。


 洗濯物を洗濯機に入れ、コインを投入すると自動的にスイッチが入る。陽子は貯水が始まると洗剤をいれる。洗濯槽に降り注ぐ水のおかげで洗剤がもくもくと泡立っていき、陽子のシャツもタオルもすべて覆い隠す。


 陽子はいつも通りベンチに腰掛けると、ビールのプルトップを引き抜いた。


 桜もとうに終わり、新緑の季節。こんな殺風景な場所でもビールが美味しく感じられ、疲れた体に気持ち良く沁みていく。


 バンケットの仕事は歓送迎会やどこかの企業の記念行事の他に、ワインや日本酒の試飲会、有閑婦人たちのシャンソンのリサイタルなど様々だが、なんといっても一番多いのは結婚披露宴だった。


 仕事の八割はウエディングプランナーとの間に立って、実際的に披露宴を動かす役目で、プランナーからの申し入れを受けてサービス動線や必要物の手配確認などをする。プランナーが「演出家」なら、陽子はいわば披露宴の「現場監督」みたいなものだった。


 陽子は裏方として披露宴を実行する自分を、こんな立場になって初めて虚しく思っていた。


 それまではどんな種類の宴会によらず、ほんの数時間の刹那的な楽しみを完璧なものにすることに使命感を覚えていたし、同期でもあるプランナーの宮本千夏とは長年一緒に仕事をしてきただけあってツーカーの仲で、二人で手掛けたパーティーや披露宴はいつも好評だった。


 陽子はプランナーから提示される演出や要望を的確な判断で実行してきた。そのことは誇りでもあったし、この仕事を愛しているということでもあった。


 パーティーは一瞬の煌めきで、打ち上げ花火のようなものである。大きな花火のインパクトと美しさと、それを見ている人の歓声と感動。人の心に残る瞬間。陽子はそれを実際に作るのではなく、それを作りだす為の環境を整えることこそが本当に必要な準備であり、プランニングだと思っていたし、感動の屋台骨を支えていると自負していた。


 その表舞台に裏方である自分が登場するのは自身の結婚の時だと思っていたが、その機会は失われてしまった。ようするに陽子の恋愛そのものが打ち上げ花火のようにどかんと夜空に散っていったわけで、美しさの後には灰が残るだけなのだという気持ちにさせられた。


 まるでやる気がでない。陽子は酔いと眠気でぼやける目をこすり、すでに飲み干したビールの缶を握り潰した。


 陽子は婚約破棄になったことを、今日初めて宮本千夏に告白した。


 ロッカールームで打ち明けた時、千夏はぎょっとして、それから陽子をまじまじと見つめ、「本当に……?」と怪訝な顔をした。


 陽子は頷きながら「残念ながら……」と苦笑いしてみせた。


 哲司と千夏の三人で食事に行ったり飲みに行ったりしたことが何度もあっただけに、陽子は報告が遅れたことを千夏に詫びた。


「ごめん。言いにくかったの」

「……それで……?」

「……一応、事態は収束したよ」


 千夏は制服であるベージュのスーツをロッカーにしまってから、

「……大丈夫なの?」

 と、なぜか小声で言った。


 しかしその言葉に陽子は答えなかった。大丈夫って、一体なにが大丈夫なのだろう。そして、なにが大丈夫じゃないのだろうか。


 陽子は曖昧に微笑むと、同じように着換えている同僚や後輩に聞こえるようにわざと大きな声で言った。


「実は先月、洗濯機が壊れてさー」

「えー、本当ですか?」

 後輩達が少し離れたところからこちらを振り向いた。

「それじゃあ洗濯どうしてるんですか」

「コインランドリー」

「うわ、めんどくさー」

「洗濯機って、ちょっとイタイですよねえ」

「最近の洗濯機っていくらぐらいすんのかな」

「洗濯機と冷蔵庫は値段下がらないですよね」

「だよねえ」

「あ、あと、電化製品って連続して壊れません?」

「あー、あるある。なぜか一つ壊れると続々と壊れていくのね。今んとこ大丈夫そうだけど……。大物家電は勘弁してほしいわ」


 連鎖的に壊れて行くのは家電だけではないのよ。陽子は笑いながら心の中で呟いた。


 そんな陽子を千夏はじっと見守っていたが、「今度ゆっくり話し聞く。いい?」とロッカーの扉を閉めた。

「……うん」

 陽子が頷くと千夏も大きな声にスイッチを切り替えた。

「陽子、おつかれー」

「おつかれー」


 大丈夫なのか、どうなのか。陽子は自分でも聞きたいと思った。一体、自分は大丈夫なのだろうか。そして、大丈夫じゃなければどうなっていくのだろうか。


 洗濯機から洗濯終了の電子音が鳴り、陽子ははっと我に返った。


 立ち上がり、洗濯機の蓋を開ける。いつも通り洗濯物を引き摺りだし、一旦ほぐしてから乾燥機に放り込んだ。それから、なにを思ったのだろう。陽子は乾燥機に小銭を投入しながら呟いた。


「なんとかしてよ……」


 「なんとか」とはなんなのか。それは陽子にも分からなかった。ただ、突然口をついて出た言葉だった。


 喪失感と脱力感に塗り潰され、無気力で、そのくせ哲司への恨みつらみがどうしても燻っている自分への言葉だったのか。アルコールのせいか、呟いた途端陽子の目に涙がじわりと滲んできた。


 その時だった。足元からどん!という衝撃があり、次いで激しい揺れに立っていられなくて体ごと投げ出されるようにへたりこんでしまった。


 地震! 陽子は揺さぶられながら乾燥機に縋って、持ちこたえようとした。

 コインランドリー内の電気がちらちらっと明滅しかたと思うと真っ暗になり、洗濯機やベンチががたがたと音を立てた。


 停電したのはほんの一瞬だったが、その数秒の間に陽子は思わず小さく悲鳴をあげた。揺れはコインランドリーなど灰塵に帰すかと思うほどひどく長く感じられたが、実際はほんのわずか。陽子は揺れが収まると恐怖と緊張に固まった指を乾燥機からえいやとばかりに引きはがした。


 震える足で入口に駆け寄りランドリーの外へ飛び出したが、そこには静かな住宅街が暗闇の中にぽかりと浮かびあがっているだけで、地震による被害などはなさそうだった。


 弱った心がちょっとの揺れも大きく感じさせたのだろうか。周辺にはなんの変化も見られない。陽子は拍子抜けしてしまい、しかし胸を撫で下ろして再びコインランドリーの中へ戻った。


 停電のせいか乾燥機が止まってしまっている。陽子は乾燥機の前まで歩いて行くと、扉に手をかけようとした。


 が、手をかける寸前、いきなり乾燥機ががたがたがたっと異常な音を立てた。


 陽子は驚いて「ひゃっ」と声をあげた。まさか乾燥機が爆発などするまいが、振動を伴ういかにも機械が壊れる時の音らしく、陽子は固唾を飲んで乾燥機を見守った。


 異常音がやんだ。それでも陽子はすぐには乾燥機に触れる勇気が出なかった。


 私が壊したわけじゃない。地震のせいよ……。陽子は誰にともなく胸の中で言い訳をした。そして再び乾燥機に手をかけようとした。


 しかし、その必要はなかった。陽子が手を伸ばすより早く、乾燥機の扉がぱかっと勝手に開き、信じがたいことにその中からにょっきりと人間の足が突き出てきて、次いで腕が、肩が、洗濯物を引きずり出すようにずるずると現れた。


「ひゃあああ!」


 陽子は叫びながら洗濯機の向こう側へ飛んで逃げた。


 洗濯機の影に隠れるようにして身を潜めたが、歯の根も合わぬほどがたがたと震え、陽子は恐怖のあまりどうしていいか分からなかった。信じられない気持で胸が潰れそうで、心臓が早鐘を打ち息苦しいほどだった。


 酔っているのだろうか。それとも寝とぼけてしまって夢でも見ているのだろうか。それなら早く醒めなくては。陽子は自分の頬を思い切りつねった。


「ちょっと、あんた」


 痛い。夢じゃない。陽子はほとんど失神寸前だった。


 乾燥機から出てきたのは背の高い若い男だった。

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