ランドリーより愛をこめて(分冊版)
三村小稲
第1話
その時、岡崎陽子の内部にはドス黒くどろどろしたものが渦巻いていて、油田から沸くガスのようなあぶくがぼこんぼこんと弾けていた。
無論、彼女の性質が元からそうだったというわけではない。彼女もほんの一カ月ほど前までは善良さと平凡さを持つ普通の女にすぎなかった。ようするに、大学を卒業してからずっと規模は小さいが古風な洋館のホテルでばりばり仕事をこなし、三十五歳という年齢になって社内でもそれなりの地位につき、特別美人というわけではないが適度に外見に気を配って見苦しくない程度に自身を保っている。貯金もこつこつするタイプで、同時に恋愛もこつこつ真面目に積み重ねる性質。それが先月までの岡崎陽子の姿だったということである。
が、その岡崎陽子の内部がドス黒いもので塗り潰されてしまったのは、先月、陽子の部屋の全自動洗濯機が壊れたと同時に、約束していた結婚話しまでもが「壊れた」せいだった。
「約束」とはほとんど秒読みの日取りも決まった婚約関係で、両親への挨拶は勿論のこと式場もほぼ決まりつつあったのだが、婚約者である小野哲司から「破棄」の申し入れを受けた時はまさに青天の霹靂、寝耳に水で最初は冗談かと思い笑って、次に本気と分かると狼狽し、泣いたり怒ったり縋ったり、なんだかんだと愁嘆を演じるはめになった。
こういった一方的な婚約破棄は当人同士も両家親族も巻き込んでの大騒ぎになるのが常だし、友人知人にはいらぬ心配と嘲笑を招くと決まっている。それは陽子がどんなに奔走しても避けられぬことだ。唯一の救いは式及び披露宴の招待をまだどこにも出していなかったぐらいなことで、面倒で屈辱的な知らせ一切を招待客全員に送らなければならないという事務作業を避けられたことだった。しかし、それを除けば申し入れから別れの瞬間までの猛烈な日々と後の始末に至るまで、陽子には一点の救いもなかった。
そもそもなんだってこんなことになったのか、陽子にはまるで理解できなかった。哲司との恋愛は五年の歳月をかけ育み、プロポーズも哲司から手順を踏んで行われたにも関わらず、手のひらを返すように「僕らのことだけど……。あれ、やっぱりやめたいんだ……」と言われた時、陽子にはなにをやめたいのかさっぱり分からなくて、きょとんとしてしまった。
「あれってなに」
「……ごめん。俺、陽子と結婚できない」
陽子はその言葉を聞いた瞬間、髪がそそりたち内臓ごとひゅうっと浮き上がるような急転直下、奈落の底へ突き落される感覚に眩暈がした。それは遊園地のアトラクションのフリーフォールのようだった。
あまりに唐突な申し出だったので陽子は訳が分からなくて哲司に理由を問い質したが、哲司は最後の最後まで「もう少し考えたい」だの「やっぱり自信がない」と言い、明確な答えは何一つ言わなかった。
もう少しなにを考える必要があったのか、果たして自信というものがなんの自信なのか、陽子にはどうしても分からなかった。それでも本人がそう言うなら少し待ってもいいかとも思ったが、次第に聞いていくうちに「考えたい」という言葉の先にはようするに陽子と「別れたい」という要望があることが分かった。
陽子の心はその一点によりずたずたに引き裂かれた。
それは婚約破棄という屈辱よりも、単純に哲司がもう自分を好きではないのだという事実を突き付けられたことによって受けた傷で、それでは一体なぜ哲司はほんの半年ほど前に陽子に求婚したのだろうか陽子は混乱の渦に落ち込んだ。
言い争うことも理由や原因を追及することもひたすら精神を消耗するだけで、陽子は立ち上がることもできないほどの喪失感で毎日泣き暮らした。
といっても、社会人としての陽子になにもかもを放り出して本当に涙にくれるだけの生活をすることなどできるわけもなく、別れ話が決着するまで毎日朝起きて化粧をして電車に乗って職場へ行き、自分よりいくつも若い部下を叱咤しながら平然とした顔で仕事をしなければならなかった。
それはインドの修行僧の極端に肉体を酷使する苦行のように耐えがたい苦痛だった。
平然としているのはプライドではなかった。平然としていなければ到底自分を保つことができないからそうしているだけで、陽子の精神は空気をぱんぱんに孕んだ風船のように今にも弾けてしまいそうに危うかった。弾けてしまってはもう元に戻すことはできない。その危機感と理性だけが陽子の支えだった。
いかなる場合であっても恋を失うのは手痛い。陽子は愛されなくなった自分の存在というものがまったくの無価値で、人格そのものを否定されたような気がしていた。
元婚約者となった哲司の所有物を部屋から一斉処分した夜、その痛烈な嘆きの中で、それでも生活というルーティンな雑務から逃れることはできず、のろのろと無気力なままに洗濯機をまわそうとしたらどういうわけか洗濯機が動かなくなった。
洗濯機の中にはシャツと下着、タオルなどが投げ込まれ、すでに水を張って洗剤の清潔な泡と匂いに満たされていた。
陽子は突如として動かなくなった洗濯機を前に、スイッチを切ってみたり、入れてみたり、電源を確かめたりしたが、どこをどうしても洗濯機が動く気配はなく、次第に腹立たしくなってきて乱暴に蓋をばたんと閉じたり、本体を叩いたり蹴ったりした。
そうしているうちにじわじわと自己憐憫の涙が湧きあがってきて、「もう、なんでよ!」とか「なんなのよ!」とかを連発し、その場に崩れ落ちてわあわあと一人で泣きだしてしまった。
世界中のなにもかもから見放されてしまったような気持ちだった。陽子は哲司を本当に好きだったし、自分の理解者だと思っていた。陽子には陽子なりの夢や憧れがあり、例えそれが少女漫画じみていたとしても結婚生活に対する希望みたいなものがあった。二人の朝だとか休日だとか、生活を共にすることへの美しいイメージ。手まめな陽子は毎年梅酒を漬けて二人の年月のビンテージを作ろうとまで考えていた。外に出ればいっぱしの出来る女の顔をしていても哲司の前では普通の恋する女だったし、それは今後も変わらないと思っていた。
それなのに哲司との五年は部屋に置かれた揃いのカップと陽子を残して、ネクタイ一本靴下一足も残さず消え去ってしまった。そこへもってきて洗濯機の故障。陽子のみじめさは絶頂に達していた。
陽子は泣きながら水の中から重い洗濯物をひきあげ、風呂場に投げ込んだ。びしゃりという鈍い音。飛び降り自殺でもしたらこんな感じに体がひしゃげるのではないかと思いつつ、洗濯物を手で洗った。
洗剤のぬめりが手の上を滑っていく。シャツをぎりぎりと絞るも固く絞りきることはできず、ベランダに干すとしたたる滴が雨のようにコンクリにシミをつけた。
洗濯機を買わなければ。そうと分かっていても陽子にはそんな買い物は到底できそうになかった。無論それは金銭的な意味合いではなく洗濯機のような大きなものを買う勢いとでも言おうか、気概みたいなものがまるでなくて厭世的な気持ちでいっぱいで、いっそこのまま壊れた洗濯機と共に自身も壊れてしまえばいいとさえ思った。だから新しい洗濯機を買う算段も陽子には永遠にできないような気がした。
そういったわけで陽子の生活から哲司と洗濯機が消え去り、陽子は週末や時間のある時に近所のコインランドリーに通うはめになったのだった。
陽子はコインランドリーに通うのは、実は初めてのことだった。それまでずっと洗濯機は学生の時から小さいながらも自分の部屋にあったし、これからもずっと洗濯機を所有し続けるだろうと思っていた。だから、いざ洗濯機を失ってみるとこんなにも生活に影響があるのかと驚いていた。
たかが洗濯、されど洗濯である。いかに失恋したとはいえ岡崎陽子も女であり、社会人である。いくらなんでも洗いもしない衣服で世間へ出て行くわけにはいかない。いや、それ以前に洗わない衣類など自分が一番気持ち悪い。当たり前に思っていたことが実は重要なことであったかと陽子は深く感じ入った。
第一、陽子は洗濯機が壊れるまで近所のどこにコインランドリーがあるかも知らずにいた。人間とは自分にとって興味のないものや関係のないものは視界にさえ入らないものである。陽子にとってコインランドリーがそれだった。
陽子はテレビと冷蔵庫と洗濯機が三種の神器となる時代の生まれではない。それらはすべて標準装備だと思っていたので、どこにコインランドリーなどというものがあるのか想像もできなかったし、果たして存在し得るのかどうかも分からなかった。
この時点で「早く洗濯機を買おう」と思えなかったのが陽子が打ちのめされていた証拠で、哲司に去られてからの陽子からは正常な判断力が抜け落ちてしまっていた。
とにかく陽子はコインランドリーを探した。検索してみるとコインランドリーが案外点在しているのには驚いたが、もっと驚いたのは自分の住むマンションの真裏に一軒あったことだった。
陽子が今のマンションに引っ越してきたのは大学を卒業してからである。その間にマンションの裏手の道を通らなかったというわけでもなく、ただ単に気付かなかったのか、眼中になかったのか、その存在を忘れていたのか、とにかく陽子は自分のすぐそばにあるコインランドリーをまったく知らなかった。
なんだ、こんなところにあったのか。陽子はその新たな発見に妙な安心感を覚えた。洗濯機が壊れてどうしようかと考えあぐねていたところへ自分の住まいから一分の場所にコインランドリーがあるなんて、捨てる神あれば拾う神ありである。そうと知っていれば洗濯機など初めからなくてもよかったし、これからだって特に買う必要もないではないか。陽子はそう結論づけた。
以前の陽子なら思いつきもしないことなのだが、この時はそれが最良の解決に思えた。どうせいつかは壊れるんだしというヤケクソのような気持ちがあったのも否めないが、わざわざ洗濯に来なければならないという面倒さよりも厭世的な気分が上回っていた。
マンションはゆるい坂の途中にあり、周囲も似たような建物の並ぶ住宅地である。細い道に街燈がぽつぽつと坂の上まで街路樹の如く整列し、静かで、闇の色が濃い。坂の下を見下ろせばそこには線路が町を分断し、繁華街の灯りがさまざまな色のビーズをぶちまけたように光っている。そんな光と影の極端なコントラストの中にコインランドリーはひっそりと佇んでいた。
陽子はマンションの出入り口から角をまがって裏手に出た瞬間すぐに「あ、これだ」と思い、それからなんだか例えようもなく懐かしく温かな光を見たような気がしてしばし立ち尽くした。
コインランドリーは決して明るくもなければ清潔でもなく、古びたコンクリート剥き出しの小さなもので、入口は田舎の家のアルミサッシのようなどこか貧乏ったらしいガラスの引き戸になっていて、中に入ると真ん中に普通の洗濯機が六台、縦一列に並び、片側の壁に乾燥機がこれは上下に三台ずつ据えられていた。
陽子は独特の湿っぽい空気と奇妙な静けさに、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなるほどしんとした気持ちになった。
正面の壁際にはその辺のバス停にあるようなベンチと自動販売機が置かれていて、BGMがあるでなし、スタンド付きの灰皿にも使われた痕跡はなく、まるで世界が滅び去ったような錯覚さえうけるほど荒涼とした風景だった。
照明は青白い蛍光灯。昼間はどうだか知らないが、通りに面したガラス戸は夜を吸いこんで鏡となって、陽子の姿を映している。
気色の悪い場所である。が、陽子はこの時あくまでも普通の状態ではなかったから、その不気味さも静けさもひたひたと自分に沁み入ってきて、絶えず出血を続ける精神を優しく包みこむように感じた。
彼女が受けた傷を、痛みを、誰もが気の毒に思うだろう。けれど、実際にそれを肩代わりすることなどできないし、ましてや誰にも「気持ちは分かるよ」などとは言われたくなかった。分かるはずなどないのだから。
陽子と哲司の恋愛が二人だけのものであったようにその別れも二人のものだし、陽子は自分の気持ちを言葉に表すことなどできないほど落ち込んでいたから、誰にも自分の気持ちを代弁して欲しくなかった。慰めさえ必要とはしていなかった。そうされればされるほど陽子は真実から遠のいていくのを感じ、そのことが陽子を置き去りにして世界が動き続けるのだという孤独の中に取り残す。
コインランドリーはそんな陽子を一枚のフィルターをかけるように隔離した。それはほとんど安らぎといっても過言ではない、静かな場所だった。
孤独にされるのと望んで孤独になるのは違う。陽子はこの時疲弊した心を休める場所を本能的に求めていた。それがコインランドリーだったのである。
こんなところにあったのね。陽子は小さく呟いた。
陽子は再び部屋へ戻って洗濯物を籠に詰めて持って来ると、誰もいないコインランドリーで洗濯を始めた。
小銭を投入する音、洗濯機の始動音。じゃばじゃばと貯水が始まり、ごうんごうんと音をたてて回り始める。それは陽子とコインランドリーの生活の始まりの音だった。
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