第3話
「ちょっと、ちょっと」
陽子は絶体絶命を感じ逃げようとしたが、腰が抜けて立ち上がることができなかった。
コインランドリーの中央に配置された洗濯機をぐるりとまわって、男は腰を抜かしている陽子の前にやってきた。
「大丈夫?」
男は陽子を見下ろして言った。ジーンズにTシャツといった当たり前の格好だが、その頭部は見事と言っていいほどの立派なアフロヘアだった。
「もしかして腰抜けてんの? まあ、そらびっくりするわな。ごめんなあ。心配せんでもなんもせえへんから。ほら、立ちいな」
アフロはそう言って陽子に手を差し伸べた。
乾燥機から出てきたアフロが関西弁を喋っている……。陽子はますます訳が分からなくて、もしかして自分は頭がおかしくなってしまったのかと泣きそうになった。失恋による神経症とでもいうのか。自分はそんな所にお世話になることなどないと思っていたのに、とうとう心療内科受診デビューを飾る日がきたのか。
陽子は乾燥機から巨大なアフロが出てくることよりも自分の頭の中身の方がよほど怖くて、情けなくてたまらなかった。
「ほら」
手を述べていたアフロが陽子の腕を掴んだ。陽子にはもう叫ぶ気力もなかった。
アフロは陽子を支えるようにしてベンチに座らせると、
「しっかりしいな」
と言った。
「……」
「大丈夫か? どっか怪我でもしたんか?」
千夏も陽子に大丈夫かと尋ねたが、今ならはっきり言える。大丈夫じゃない、と。
「とりあえず、まず自己紹介っていうか、説明させてもらうわな」
「……」
「理由はさておき、今、色々なことのタイミングが合うてなあ。なんて言うたらええんかな……。あんたの心と運命と、自然と、その他いろんなことのタイミングがばちっと合うてな」
「……」
「俺、あんたの願いごと叶えに来てんわ」
アフロの説明を聞きながら、陽子は腹の底から沸々と笑いが湧きだしてくるのを感じていた。
なんてよくできた、訳の分からない幻覚と幻聴を見ているのだろう。一体、いつの間に自分はこんなにも精神的に追い詰められていたのだろう。陽子はそう思うと湧きだした笑いを留めておくことができなくて、結んだ唇の端から「ふふふふふ……」と低く絶望を伴って漏れ出てしまい、ついには「ははははは」と声を出して笑いだしてしまった。
「なにがおかしいねん」
「どこから来たって?」
「んー、まー、所謂、魔界?」
「ってことは、あんたは……」
「そう、悪魔」
「ぎゃはははは!」
陽子はますます大笑いした。腹を抱え、足をバタつかせ、目尻に涙が滲むほど笑った。
その様子をアフロは困惑顔で見守っていたが、文字通り「狂ったように」ひとしきり笑うと陽子はすっくと立ち上がった。
陽子もそう背が低い方ではないのだが、アフロの顔は断然見上げる位置にあった。
「……帰ろ」
陽子は呟いて、洗濯籠を取り上げるとアフロの脇をすり抜けようとした。
「ちょ、ちょっとちょっと!」
「……」
「帰ってもうたら困るねん。まあ、もうちょっとちゃんと聞いてえな。まだ洗濯物も乾いてえへんやろ?」
アフロは入口の前に立ちはだかると、自分が出てきた乾燥機に駆け寄りスイッチを押した。
それまで停止していた乾燥機は、その中がどうなっているのか定かではないが、いつものようにごんごんと回り始めた。
確かに洗濯物を放っていくわけにはいかないのだが、ずいぶん親切な幻覚である。陽子はしぶしぶとベンチに戻って腰をおろした。
アフロは幾分ほっとしたように洗濯機の上に腰かけた。
「あんた、知らんかもしれんけどな。満月と大きなエネルギーと、一人の人間の想念と、その他いろんな物が組み合わさると悪魔を召喚することがあるねん。いや、それはもちろん普通やったら黒魔術っちゅーやつやで。生贄を与えて、願い叶えさすっていうやつ。せやけど、あんたみたいに偶然呼んでしまういう人も百年にいっぺんぐらいおるねん。ちょっとしたラッキーやな。宝くじに当たるみたいなもんや。それがあんたいうわけや」
「……私、悪魔を呼ぶ理由ないし、必要もない」
「だからあ。さっきから言うてるやん。偶然って。意図せず呼んでまう人もおるねんって。けど、理由はどうでも呼んでしもたら、もうどうにもできんねん」
「だって、願いを叶えるっていっても生贄がいるんでしょ? で、それって命と引き換えとか、大事なもの持って行くとか、誰かを不幸にするとかなんでしょ? やだよ。そんなの。安いけど使い物にならないとか通販の商品と現物が違うみたいな、買い物失敗みたいじゃない」
陽子はもう幻覚だろうと妄想だろうと、なにも怖くはなかった。頭がおかしくなったのだから恐れるものなどない。ずけずけと言い放たれるのをアフロも黙って聞いていた。
「それにね、私には悪魔に頼みたいような願いごとなんてなんにもないの」
それは本当のことだった。仮にそれが悪魔ではなく神様であったとしても、陽子には……少なくとも今の陽子には……なんの願いも思いつかなかった。
願いというのはある種の希望だ。でも陽子の中にあった希望はすでに失われてしまった。幸福のさなか、希望に満ちていると思われた未来のすべて。それがあんなにも簡単に崩壊するとは考えもしなかったし、失望の分だけ虚しく思えた。もしもこんな状況でなければ叶えたい願いの一つもあったかもしれないが、今はそれさえも思い出せない。
悪魔はジーンズのポケットからおもむろに煙草を取り出した。
「吸ってもええかな」
「どうぞ」
律義な悪魔である。
アフロは百円ライターで火をつけると、深く吸いつけ、長々と煙を吐き出した。
「無欲な人間なんておらんもんやねんけどな」
「別に無欲ってわけじゃないわ。欲はあるわよ」
「ほんなら、それ、言うてえな」
「だって新しい鞄欲しいとか、もうちょっと長く休みとって旅行に行きたいとかって、命と引き換えにするような願いじゃないもん」
「……いや、そういうんやなくて。なんかないのん?」
「ない」
陽子はきっぱりと言った。
アフロは眉間に皺を寄せ、実に困ったように腕を組み、唸った。なんと言われても、ないものはないのだ。
アフロが唇に咥えた煙草の先から紫煙が漂い、白く細く空気の中を流れて行く。陽子はさっきまでの酔いがはっきりと醒めているのを感じていた。
「そんでも、俺はあんたの願いを叶えんとあかんねん。なんか考えてえな」
「ないって言ってるでしょ。私、もう帰るわ。洗濯物、乾いたみたいだし。明日も仕事だから」
今度こそ陽子は立ち上がり、乾燥機の中からほかほかになった洗濯物を取り出した。乾燥機の中は、なんの変哲もないただの乾燥機だった。
「待ってえな!」
「しつこいなあ。願い事なら他あたってよ」
「そういうわけにはいかんねん!」
「じゃあね」
陽子は洗濯物をいれた籠を手にランドリーを出て、ぴしゃりと出入り口の引き戸を閉めた。
アフロが追ってこようとしたのを感じたが、振り返ることはしなかった。アフロとのやりとりはもう怖くはなかったが、今は振りかえることの方が怖い気がした。振り返れば確実に狂った自分を認めることになる。きっとそこには誰もいないだろうから。
部屋に戻った陽子は洗濯物を畳むと、シャワーを浴びて思い切り乱暴に髪を洗った。シャンプーの泡を盛大に撥ね散らかし、わしゃわしゃと頭皮を指で力強く。それはあたかも苦悩に頭を抱えるような、掻き毟るような痛ましい力だった。
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