ジュリエットとイゾルデ
青井音子
夜の森にて
『もしもし、
それは、一週間ぶりの、
流石に気が引けたのか、いつもより覇気のない声をしている。それでも電話してくるのが彼女らしいけれど。
まあ、強引な珠里について行くのは嫌いじゃない。長らく会えていなかった寂しさも手伝って、私は親に見つからないように、窓から家を出た。
嫌になるくらい、満月が眩しい夜だった。
「全く、どうしてこんな所に……ひっ」
「もう、遅いよぉー。来てくれないかと思っちゃったじゃん」
珠里から送られてきた住所は、町外れの森。その中の、少し開けた箇所だった。そこで待っていた彼女は血塗れで、傍らには同じく血塗れの死体が落ちていた。
「珠里……?」
「うん、ごめんね。これ、埋めて欲しくて呼んだの」
「……なんで」
震えて後ずさる私を、彼女は真っ直ぐに見た。途方に暮れたような目で。
「誰にも見られたくなかったから……かな」
「私は、いいの?」
「うん……瑠衣だけ。特別、だよ」
「そう……特別……」
珠里はそれ以上、何も言わなかった。私は反応の鈍くなった彼女の代わりに、地面に横たわる死体を観察した。
死体は酷い有り様だった。苦痛に歪んだ顔、頬をつたった涙の跡。
「……埋めようか」
死体の横には、一本のシャベルが置かれていた。珠里が持ってきたのだろう。無駄に用意周到なのは、昔からだった。
ざく、と音を立てて、シャベルが地面に突き刺さった。力を入れすぎてしまったらしい。反動で手が痛かった。
私はふと空を見上げた。いつの間にか夜空は雲に覆われ、月もその姿を隠している。
今、この場所には私たちしかいない。
「……珠里」
「なあに?」
私の掘る穴から視線を逸らさずに、彼女が答える。こんな状況に似つかわしくない、のんびりとした声。
「なんで、こんな事したの」
私の声は、震えていなかっただろうか。
「親にさ、結婚しろって言われたんだよね」
「……それ、初耳なんだけど」
「今初めて言ったから。……ねえ、あたしまだ高校生なんだよ」
「それは知ってる」
私はシャベルで掬った土を放りながら答えた。服が汚れる。スカートで来るんじゃなかった。割と気に入っているのに。
「高校生の娘にさ、結婚しろなんてフツーの親なら言わないでしょ。それに、あたしにはもう、心に決めた人がいるわけだし」
「こころにきめたひと」
私は思わず、シャベルから手を離してしまった。地面と衝突して、鈍い音が響く。
「もう、瑠衣ってば、そんな顔しないでよ」
「だって……」
その先の言葉は、声にならなかった。今口を開けたら、何か違うものが溢れてしまいそうだった。
「婿を取って家を継げって、突然言われて、嫌だって言ってんのに、勝手に相手も決められて……一週間悩んで、それで気付いたんだよ」
「……何に?」
嫌な予感しかしない。言い知れぬ不安感を誤魔化すため、再びシャベルを地面に突き刺す。
「死んだ人間とは、誰も結婚できないじゃん?」
ざくり。私の手の中のシャベルが、今までで一番大きな音を立てた。
「……何それ」
口からこぼれ落ちた声は、予想したよりも低く、重苦しい響きを伴っていた。
「そんな事で、とか言わないでよね? これでも本気で悩んだんだからさ」
珠里は終始、あっけらかんとしていた。私は何も言えない。
「穴、掘れた?」
「ああ、うん……そろそろいいと思うけど……」
背筋が冷たくなる。珠里がどこか遠くへ行ってしまったように感じられた。手を伸ばせば触れる距離に居るというのに。
それでも、本当に手を伸ばしてみる勇気は、私にはなかった。
「重いっ……!」
「頑張れー瑠衣」
「珠里はいいよね、見てるだけなんだから!」
やっと穴を掘り終えて、私は死体を持ち上げた。所謂お姫様抱っこと呼ばれるやり方で。そう大きな体でもないのに、随分と重たい。
死体は何も言わない。ただ、目玉がこぼれ落ちそうなほど見開いた目で、虚空を睨んでいる。
私は穴の中にそっと死体を下ろして、その目を閉じさせてやった。持ってきていたハンカチで、涙の跡をそっと拭う。せめて、綺麗な死に顔で埋めてやりたかった。
「優しいね、瑠衣は」
「……誰にでもってわけじゃないから」
そんなの、珠里が一番よく分かってるはずなのに。
「ほら、早く埋めちゃいなよ」
「うん……ねえ、ほんとにやらなきゃ駄目?」
「だーめ。それに、埋めるのやめたって、生き返れるわけじゃないんだから」
他人事みたいな言い方。最低だ。私だけに全部背負わせて。
「早く。もう時間がないから」
分かってる。私は黙ってもう一度シャベルを手にして、さっき掘り出したばかりの土を掬う。
珠里が、寂しそうに笑った。
知らない。今更そんな顔したって、何にもならないことは分かってるくせに。
「そういえば、春になるとこの辺花がいっぱい咲いて綺麗なんだよね」
「そう、それで?」
「あ……えーと、あんまり知られてないんだけどさ、良い場所だし、誰も知らないのももったいないし……」
「だから、何が言いたいの?」
「瑠衣も、見に来なよってこと……花が咲いた時に、気が向いたらとかでいいからさ……」
土の下に隠れていく死体をぼうっと見つめながら、珠里が言った。
どうして、珠里がそんな顔するのよ。
「……終わった」
死体を埋めてしまえば、そこは至って普通の森にしか見えなくなった。雲の切れ間から、月が顔を出し始めている。
月光が私たちを照らしだした。
「そっか。終わったか」
「何か、もっとマシな感想はないの?」
「あはは、ごめん。……ありがとね、瑠衣」
珠里が、私に向かって手を伸ばす。愛おしいものを見る目をして。
私も珠里に触れたかった。背の低い彼女が届きやすいように、少し屈んでその手を待つ。
彼女の、血に濡れていない方の手が、私の頬に伸びて。
そして、すり抜けた。
「あーあ。やっぱ、ダメだったか」
「珠里……」
「ごめんね」
珠里は笑った。今にも泣き出しそうな笑顔だった。やめてよ、泣きたいのは私の方なのに。
「……馬鹿じゃないの」
珠里の言う通りだ。死んだ人間とは誰も結婚できない。
私も、珠里と誓いのキスができない。
会った時からうっすら透けていた珠里の体は、もう目を凝らさなければ見えなくなってしまいそうだった。
別れの時が、近づいている。
「瑠衣、ごめんね。好きだよ」
そう言って彼女は、月の光に溶けて消えていった。
「私だって好きだよ……」
その言葉はもう届かない。私が、彼女を埋めたから。珠里は一人で、私の手の届かない場所へと突き進んで行ってしまった。
思い出したように、涙が一筋流れた。
月の光が眩しくて、痛かった。
ジュリエットとイゾルデ 青井音子 @cl_tone
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