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「そうかもしれないね」

 そうだね、と言った後、泣き笑いのような顔で先生が呟いた。

「かもじゃねえよ! なんでそんなふうに言うんだよ、んなわけねえだろ!」

 その言葉に苛立って声を上げると、先生が驚いたように目を瞠った。

 ああ、この人は──

 そいつがそうなった原因が自分の中にあると今も思っているんだ。

 今でも、自分がそいつを変えてしまったと。だからあんなことを俺に言った。

『きみは勘違いしてるんだよ』

 そんなわけないのに。

「ね、先生」

 俺は自分に落ち着けと言い聞かせ、息を整えてからまっすぐに先生を見つめた。

「そんなわけないから。…だからさ、頼むから、そんなふうに言わないで」

「……」

「それだと俺が先生を好きなのも、みんな先生のせいみたいじゃん。違うからね、それ」

 そうだ、違う。

 違うんだよ。

「俺が先生を好きなのは、俺のせい。俺が先生を好きで、どうしようもなくて、好きだって言いたくなるほど好きで、それだけなんだ。男とか、そんなん関係ないくらい好きだって、そう言うことだよ」

「…う、うん」

「悲しくなること言わないでよ」

 顔を覗き込むと、先生の目元が赤く染まった。恥ずかしいのか、俯いた視線が揺れながら膝の上に落ちている。

「ごめん…」

 どうしても確かめたくて俺は訊いた。

「行かないよね、そいつの式」

 ん、と先生は頷いた。

「行かないよ。行く理由も…そもそもないんだし」

「そっか」

 その言葉にほっと息を吐いた。行けばどんな結果になるのか、良い事などひとつもないことは今話を聞いた俺にだって分かる。それに、もしもそいつがまだ──佐根井の兄がもしもまだ先生に思いを残していたら。

 想像するだけでたまらなく嫌な気持ちになった。

 先生にそんなやつと会って欲しくない。

「先生」

 呼びかけると、先生が顔を上げた。

「なに?」

「キスしていい?」

「え…、はっ?」

 ばっ、と勢いよく先生が顔を上げた。

「キスしたい」

「え、ちょっ、待っ…!」

 逃げるように立ち上がろうとしたその腕を掴んで引き寄せる。ほんの少し浮いていた体は、再び椅子の上にすとんと落ちた。

「俺のこと、好きで合ってる?」

「そ…っ、それ、は、あの」

「さっき、逃げなかったよ?」

「え、ええっと…」

「嫌じゃないよね」

「…だから、それずるい」

「キスしたい」

「ここ学校!」

「学校じゃなきゃいいの?」

「う…っ」

 俺は身を乗り出して、狼狽える先生の頬を両手で包んだ。俺の手首を握り首を振って外そうとするのを、少し力を入れて自分に向ける。力では俺のほうが勝っている。先生の腕は細くて、折れそうだった。

「こっち向いて」

「風間く…」

「ね、だめ? したい」

 びく、と先生の肩が跳ねた。首筋まで赤くなる。

「…っ、きみ、ほんとに高校生? なんでこんな手慣れてるんだよ…っ」

「普通でしょ」

「そんなわ、っ、絶対ちがっ…、ん、だ──」

 駄目、と抗議する唇を塞ぐように、指で辿る。

 顔を近づけると、先生がぎゅっと目を閉じた。

 可愛い。

 この人ほんとに年上か?

 可愛すぎて駄目になる。

 少しずれた眼鏡を避け、俺は顔を傾けた。

「おいなにやってんだおまえ」

 くそ。

 後ろから聞こえてきた声に体が止まった。

 あとちょっとだったのに。

「平田」

「ひ、平田くんっ…」

 真っ赤になっていた先生の顔が見る間に青くなった。

 肩越しに振り向くと、平田が開いた扉のところで仁王立ちになっていた。

「随分長いトイレだよな? あ? 仕事はどうした?」

「わざわざ呼びに来るなよ」

「来なきゃ帰って来ないだろうが」

 俺を睨みつけていた平田の視線が先生に向く。

「先生も年下だからって甘やかしてないで突き放さないと。つけ上がるだけですよ」

「え、…え?!」

「ほら」

 平田は無造作に俺の上着の襟首を掴むと、ぐい、と引っ張り上げた。

「行くぞ」

「おい、引っ張るなって」

 首が締まって苦しい。仕方なく俺は立ち上がった。

「平田くん、なんで、今の、見て…見てたよね?」

 先生は驚いた顔で俺と平田を見ていた。

 平田は呆れたように肩を竦めた。

「あー、こいつに聞いて知ってますし」

「え、知っ…、はあ!?」

「付き合うんなら先生気をつけないと、こいつ案外ダダ漏れですよ」

「……!」

「つーかおまえ学校で何してんだ」

 今度は俺が肩を竦めた。

 ふと見れば、ぱくぱくと開いた口が塞がらない先生が、俺を上目に睨みつけていた。

 うあ、怒ってる。

 でも全然迫力はない。

 俺は誤魔化すように笑った。

「ごめん先生、俺行くから。あの、帰り待っててくれる?」

「待たないよ!」

「えーなんで? 一緒に帰りてえのに」

「嫌だ。もう帰ります」

「おい行くぞ生徒会長、いいからとっととやることやれ」

「先生待ってて!」

「早く行きなよっ」

「えー」

「それじゃ先生」

 平田に引きずられて保健室を出る。廊下に出る寸前、ちらりと後ろを振り返ると、真っ赤になった先生と目が合った。笑いかけると、むっとしたように目を逸らされた。


***


 昇降口の明かりがちかちかと瞬いている。

 もう誰も校舎には残っていないのか、しんと静まり返った廊下に、自分たちの足音だけが響いていた。

「あーもうこんな時間かよー」

「腹減ったあ、なんか食って帰りてえ」

 閉められていたガラスの扉を押し開けると、真っ暗な夜の中に雨の匂いがした。

「雨上がったな」

「ん」

 手に持っていた折り畳み傘を鞄に仕舞いながら、平田が言った。それに頷いて、空を見上げる。

 ちぎれたようにある雨雲の隙間から、綺麗な夜空が見えていた。

 星だ。

「まあとにかく、なんとかなってよかったよなー」

「そうだな」

 松島の言葉に返して校門横の小さな通用口をくぐり外に出た。

 すでに下校時刻はとっくに過ぎてしまっていて、門は閉ざされている。この通用口も俺たちが出た後で、事務員の人が締めに来るはずだ。残っている先生たちも、これ以降は職員用の裏口から出るようになっている。

 あーあ、残念…

 今日はもう少し話したかったな。

「なー風間、なんか食ってく?」

 声に目を向けると、先に行く薮内が俺を振り返っていた。

 少し考えて、俺は言った。

「あー…、うん、今日は帰るわ」

「そっか。じゃあまた明日な」

「ん、明日。お疲れ」

「またなー」

「じゃあな」

 分かれ道で三人に手を振り、俺は自分の帰り道を行く。

 しばらく歩いて、そう言えば今日も両親は遅かったのだと思い出した。

 家になんか食うもんあったっけ?

 母親の作り置きのおかずは、一週間分はあるはずだけど、週の半ばには飽きてくる。薮内達について行けばよかったかと思ったけど、今さらだった。俺は近くのコンビニに寄って帰ろうと、次の通りを左に曲がった。

「いらっしゃいませー」

 通い慣れたコンビニの中をぐるりと回り、弁当コーナーに行くと、見覚えのある後ろ姿に、俺は足を止めた。

 そいつが、視線に気づいたように振り返った。

 俺を見てかすかに目を瞠る。

「…風間」

「よ、櫂」

 まさか逃げてばかりの友人にこんなとこで会うなんて。

「おまえも夕飯? 俺も」

 かい──沢村櫂さわむらかいが手にした弁当を見て、俺はそう言った。




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