15
松島と薮内はレクリエーションに必要な項目の最終チェックをしていた。その向かいでは、平田が驚くほど速いスピードで何やらパソコンに打ち込んでいる。
うわあすげえ速えー、と松島は内心で感心していた。平田のこのタイピングの早さはPCゲームで培われたとか、かわれてないとか。
人間、経験したどんなことが役に立ち、得意なことに転ずるか分からないものだ。
ぱちぱちぱち、と淀みなくキーボードを叩く手がふいに止まった。
松島が顔を上げ、平田と目が合う。
「どしたん?」
「遅いな…、あいつ」
唸るような恐ろしく低い声で、平田が再び画面に目を落として言った。
「
はい、とマグカップに入った紅茶を差し出される。受け取って、ありがとうと口をつけた。
温かい。
立ち上る湯気の向こうでは、先生が椅子に座りながら淡い笑みを浮かべていた。
「その燿平とは高校に入ってからの友達だったんだけど、もう長いこと連絡を取ってなくてね。それで…佐根井くんは燿平が来月式を挙げるから、僕に顔を出せって言ってきてるんだよ」
「式…て、え、結婚式?」
「ん」
頷いて先生はマグカップに口をつけた。傾けたカップからの湯気で眼鏡が白く曇る。
それは昨日買ったものだ。
俺が似合うと言ったもの。
俺はこめかみを掻いた。
「よく分かんねえんだけど。なんで…佐根井は先生を出したいわけ? もう連絡とかもないんだったらさ、そういうの行かないのは当たり前じゃねえの?」
先生は笑みを深くした。
「そうだね…それに、そもそも燿平はこのこと事体を知らないと思うよ」
「は?」
「佐根井くんが勝手にやってることだから」
兄には内緒で。
その言葉に俺は目を見開いた。
「何のために?」
先生は目を伏せると、かすかな笑みを浮かべたまま言った。
「自分の兄がまともになったことを、証明するために」
***
西日の差し込む部屋の赤い情景を今でも思い出すことが出来る。
その日、僕は学校の帰りに燿平の家に寄った。
彼の家は祖父母と両親、ふたりの弟と、今では珍しい三世代の大家族が一緒に住んでいた。
『あれ、静かだね、今日』
家の玄関を入れば、いつもなら彼の母親の声に出迎えられ、あちこちから人の笑い声や気配がするのに、あの日はそれがなかった。
『あー今日誰もいないんだわ』
『えっそうなの? 珍しいね』
『じいちゃんとばあちゃんは老人会の旅行、母さんは何か同窓会?だっけ。で、あいつらは学童』
どっかでお茶した帰りに母親が迎えに行くってさ、と自室に続く階段を上がりながら燿平は言った。彼の父親は仕事なのでいつも不在だった。
『そっか。でも、静かなのってヘンな感じだな』
『はあ? いっつもうるせーからせいせいするわ』
『はは贅沢』
ドアを開けた燿平が先に部屋に入り、ベッドの上に荷物を投げ出す。僕も後について入り、いつものように鞄を下ろした。見慣れた部屋の真ん中には小さなテーブル。その上に鞄から取り出した教科書やノートを置く。
『なんか飲むもん取ってくる。何がい?』
『お茶とか、なんでも。同じのでいいよ』
頷いて、燿平が階段を下りていく。
秋の中頃の、まだ少しだけ暑さの残る午後、六畳ほどの部屋の中はむっとしていた。差し込む西日の眩しさに目を細めながら、立ち上がって窓を開けた。入ってくる風もまだ冷えない温度だ。衣替えになったばかりの学生服は暑くて、脱いでしまおうと思った。下に着ていた指定のシャツも首元が窮屈だった。
思えばそれがきっかけだったのかもしれない。
後になって気づくことは、得てしてもう取り返しのつかないことばかりだ。
あのときこうしていれば。
あのときこうだったなら。
こう出来ていれば。
言葉ひとつで。その些細な行動ひとつで変わってしまう。誰もが思いもしなかった、小さな相違。
『かおるー、わり、麦茶しかなかったわ』
とんとん、と軽快な足音を立てて、燿平が戻ってきた。
開いたドアから現れたその目が僕を捉える。
僕は窓辺で言った。
『いいよ。ありがと』
襟元のボタンを外しながら。
「僕は燿平を友達としてしか見たことはなくて、でも、彼は違ってたみたいでね」
自分の声がどこか遠くに聞こえる。
風間くんが目の前にいるのに、意識は過去に戻っていた。
むっとした暑い空気、夕暮れ前の太陽の傾き、赤い光。僕らは受験生で、放課後にはよく一緒に勉強をしていた。
「それ…、って、──つまり」
話の流れから察したのか、風間くんが言葉に詰まりながら言った。さすがに勘がいいというか、僕は思わず苦笑する。マグカップの中の紅茶を見つめた。
「何にも。何もなかったよ」
「え?」
「未遂だった」
「未遂って…、え、どこまで?」
どこまでが未遂? と風間くんの顔が問うていた。
「それ聞きたいの?」
「どこまで?」
うわ、瞳孔開いてる。
身を乗り出してじっと凝視する風間くんに気圧されて、僕は仕方なく口にする。
「あ…、あの、キスして、押し倒され…」
ハア? と風間くんが声を上げた。
「やられてんじゃん! それ未遂って言わなくねえ?!」
「えっ、いやでもそれだけ…」
「それだけでも立派な暴力じゃん! 何言ってんの先生! 無理矢理と、か…──」
はた、と風間くんの声が止まった。
互いに見つめ合う。風間くんの目が困ったように歪んで揺れて、彼が今何を思っているかが手に取るように分かった。
「あれは違うと思うよ?」
「…そんな慰めいらねえし」
気まずそうにふいと視線を逸らした風間くんの耳は赤かった。首筋までも真っ赤に染まっていて、普段は大人びて見える彼が、ようやく年相応の高校生に──ひどく幼く──見えた。
「とにかく、それで、驚いた僕が燿平から逃げようとしてるところに、佐根井くんが帰って来たんだ」
ぬるりとしたものが唇を無理矢理こじ開けようと押し付けられる。放り投げられ、組み敷かれたベッドの上で僕は必死にもがいていた。
『ん、あ、嫌だ…! ようへ…っ』
無言で体を押しつぶされる恐怖に体が竦み上がっていた。興奮で上擦った燿平の荒い息が首筋にかかる。熱い。嫌な汗が全身から吹き出して、僕も、違う意味で汗を滴らせた燿平も、べとべとだった。燿平の体はいつのまにか僕の脚の間にあった。熱い手のひらに体中をまさぐられて悪寒が走る。ベッドの上に斜めに差し込む西日が色素の薄い目を灼いて、まともに目を開けることも出来なかった。
涙が滲む視界は水の底のようだった。
それが恐怖を押し上げていた。
『なんで、やだ、いやだって! やめ、やめろよ!』
『…郁、かおる…っ、俺』
『燿平、バカ、やあ…っ、あ、嫌だ…! はなし…』
箍が外れたようにしがみついてくる、自分よりも大きな体を必死で押しのけた。熱い舌が耳の中にまで押し込まれて声が上がる。好きだ、と繰り返し呟く声が怖かった。はだけられたシャツも何もかもがくしゃくしゃだった。腰のベルトを外されそうになって無我夢中で体を押し返し、どうにか出来たわずかな隙間から体を捩って逃げようとして、は、と僕は息を呑んだ。
ドアは開いていた。
開いたドアの隙間に雄介が立っていた。
『……なにしてんの?』
その背にはランドセルを背負ったまま。
母親の迎えを待たずにひとりで帰って来ていた。
誰かが悪いわけでもない。
ただ間が悪かったのだ。
そう思うことにした。
「その後は燿平の部屋を飛び出して急いで帰ったよ。それで、燿平とはそれから話すこともなくなって…」
襲われたことよりも、友達をひとり失くしてしまったことがたまらなく悲しかった。
そんなふうに見られていたことにもショックを受けた。
自分の中の何が、友人を狂わせたのだろう。
学校で顔を合わせても、燿平はまともに僕を見ようとしなかった。その口元はいつも何か言いたげなのに、視線はこちらを向かないのだ。
やがてそれにも慣れたころ、燿平が女の子と歩いているところを見た。楽し気に笑い合い、冬の寒空の下で体を寄せ合っている。
似合いのふたりだった。
あの日の、赤い西日の中での出来事はまるで夢のようだ。
ふたりして悪い夢を見ていた。
きっとそうだったのだ。
燿平は勘違いをしていた。
僕を好きだと思い込んでいただけ。
あの気持ちは違っていたのだ。
よかった、と呟いて、なぜか胸が痛んだのを覚えている。
けれどそれも違っていたのだと知るのは、もっと後の話だ。
「それでなんで先生のせいになるんだよ」
ぽつりと風間くんが言った。
自分のつま先ばかり見ていたことに気づいて顔を上げると、風間くんは顔を歪めていた。
「先生のせいじゃねえだろ」
「…そうだね」
その顔は今にも泣きそうだった。普段は落ち着いた彼のその表情が胸に沁みて、温かくて、僕はたまらなく愛しく感じた。
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