第3章 17話 タンポポの花

 

 窓から顔を出した陽愛ひよりから逃げるように去った奏は、寮の門の前で一人、とある少女を待っていた。学校を早めに切り上げたため、それなりの時間を待っているが、彼女を取り逃がさないためには致し方ない。


 それにしても、俺が陽愛を見ていたこと、何でわかったんだ?


 疑問が浮かぶ。


 彼女の名前は清水柚葉。州浜陽愛すはまひよりの親友の少女だ。こっそりと陽愛のボディーガードをしている奏は、陽愛のことだけではなく、陽愛の友好関係も全て把握済みだ。


 茶道の家元の気高いお嬢様、かつ、陽愛の一番の親友。それがかつて、奏が清水柚葉に抱いていた印象だ。けれど、ここ二、三日の様子を見ていると、いきなり人が変わったように、穏やかで落ち着いた少女になっていた。その様子が気になったとはいえ、奏がずっと観察していたのは、あくまでも陽愛。清水柚葉がどんな変化をしていようとあまり興味がなかった。


 それがまさか、俺がずっと陽愛を見ていたことがバレているなんて。


 外は少しずつ暗くなってきた。清水柚葉は寮には戻って来ないのだろうか。もしかしたら、卒業式が終わってすぐに、京都の家に帰った可能性もある。


 ……そろそろ帰ろうか。


 そう思いながら、門の柱に寄りかかっていた背中を起こした。そして、


「あ……、どうも」


 奏は反射的に挨拶をしてしまう。目の前には待ち人である銀髪の美しい少女、清水柚葉が立っていたからだ。


「あ……。楊井やぎい……くん」


「っす」


 可憐な姿と声に、ぺこりと一礼をする。


「えっと……、どうしてここに……? ここに陽愛はいませんよ?」


「わかってます」


 また陽愛だ。この少女は俺が陽愛に特別な気持ちを抱いていることを知っているようだ。……それがなぜかはわからないが。


「じゃあ、その、どうしてここに……? もしかして、お友達が寮に住んでるとか……?」


「清水柚葉さん、貴女に話があるんです」


 清水柚葉の星の雫のような煌めく瞳をじっと見つめる。彼女は目を泳がせ、ジリっと後退りをした。暗がりで表情はよく見えない。照明のLEDライトに照らされ、瞳だけが輝いていた。


「私に話って、えっと、なんでしょう?」


 動揺した様子を隠すことなく、尋ねる。


「単刀直入にいいますーー」


 ごくりと唾を飲み込む音がした。


「どうして、俺が陽愛を見てたってわかったんですか?」


「へっ?」


 間の抜けた声だった。何を尋ねられると思っていたのか、彼女は目をぱちくりとさせて、驚きの表情を見せている。


「だから、どうして、俺の行動に気づけたんですか?」


「どうしてって、えっと……?」


「俺は今まで誰にも気が付かれずに陽愛を見守ってました。それこそ、陽愛にもバレずに」


「は、はぁ……」


「それなのに、どうして俺が陽愛を観察しているってわかったんです?」


 清水柚葉の動きが数秒止まる。それからすぐに、ほんの少しだけ目線を逸らして、考え込む顔をした。


「それは……。あんなに堂々と教室を覗き込んでたら、誰でも気がつくと思うんですけど……」


「そんなに堂々としてたか?」


「えぇ、まぁ……。むしろ、今までよく誰にも気が付かれなかったなって思うくらいです」


 清水柚葉は控えめな口調で答え、


「やっぱり、ゲームの中だからかな……」


 と、蚊の鳴くような声で言った。


「ゲーム?」


「あぁ、いや……、こっちの話です」


「それならいいんですけど……」


 そろそろ、本題に入らなければ。彼女もオドオドと不安そうに体を動かしている。


「貴女が鋭い洞察力で、俺のことに気がついたことはわかりました。清水柚葉さんはさとい人ということで有名ですし、俺にも杜撰な行動があったのだと思います。……そこで、です。先ほどもお願いしましたが、どうか、俺が見ていたことは、陽愛には言わないでください。お願いします」


 出来るだけ丁寧に振る舞い、頭を下げる。男嫌いの陽愛にストーカー紛いなことをしていることがバレたらもう二度と陽愛に近付けなくなってしまう。


「あ、あの……! 顔をあげてください。元々陽愛に楊井くんの行動を言うつもりありませんよ。……それに、言ったじゃないですか。わたし、陽愛と楊井くんの恋路を応援しているんです」


 清水柚葉が意を決したように顔をあげて、奏を見つめる。


 応援……。そういえば、さっきもそんなようなことを言ってたような? 陽愛が出てきてその後の話を聞きそびれたけど。


「楊井くん、陽愛のこと好きなんですよね?」


 と、清水柚葉が曇りのない眼で言う。


「へ? は? 好き?」


 唐突な問いに情けない変な声が漏れ出る。


 コイツは、何を言ってるんだ? 好きっていうのは友情としての好き?


 それとも……。


 恋愛感情、としての、好き?


「好き、なんですよね? だから、いつも陽愛を見守ってる」


 目の前の美少女はさも当たり前のことのように問うてくる。その態度にも驚いてしまう。


「すまん。考えたこともなかった」


「そっか……。まだ自覚してないんだ……。とにかく! わたしは陽愛と楊井くんの恋を応援していますので! だから、楊井くんのマイナスになることを陽愛に言ったりしないし、陽愛について知りたいことがあればなんでも教えます」


 ……「お前、何言ってんの?」と言いそうになるのをかろうじてこらえる。


「全面的に協力させていただきますので、ご安心ください」


「ちょっと飛躍しすぎて、話が見えないんですけど……」


「あっ、柚葉せんぱーい!」


 突然、高い声音が割り込んでくる。男だ。こないだ陽愛と清水柚葉と共にカフェでお茶をしていた男が、寮の庭園から満面の笑みで走ってくる。


「拓海くん……!?」


「ご卒業、おめでとうございます! 俺、直接卒業を祝いたくて、待ってたんです。さすがに、教室まで行くのは気が引けましたから……」


「ありがとう。でも、卒業って言ったって、高校はすぐそこだし、寮もこのまま変わるわけじゃないから、待ってなくてもよかったのに」


「それは……、わかってるんですけど。でも、卒業っていう晴れの日じゃないですか。だから、俺、ちゃんとお祝いしたくって……」


「……うん。ありがとう」


 拓海と呼ばれた少年がチラリと奏を見て、ぺこりとお辞儀する。


「お話の邪魔してすみません。話の途中かなと思ったんですけど、そろそろ夕飯の時間なので声かけさせていただきました」


「えっ、うそ!? もうそんな時間?」


「はい。なので、柚葉先輩は荷物を置いて、早く食堂に来てください」


「そうだね。早く行かないと食堂の人たちに迷惑かけちゃう」


「そうですよ。早くいきましょう」


 拓海が清水柚葉の腕を取り、


「あっ、ちょっと……!」


 という声も無視して、清水柚葉を引っ張り、寮の敷地内へと連れ去っていってしまう。


 敵意だったな。


 奏は苦笑した。


 強い敵意だった。


 拓海という男はおそらく、清水柚葉のことが好きなのだろう。だから、清水柚葉を連れ去った。


 わかりやすい。わかりやすいが、きっと清水柚葉の方は気づいていないのだろう。そのチグハグさが面白かった。


「あ、あの!」


 声がした。俯き、思案していた顔を上げる。目の前には、先ほど消えたと思っていた清水柚葉がいた。


「あれ? さっき寮に帰りませんでしたっけ?」


「そうなん、ですけど……。どうしても、伝えたくて。拓海くんには先に帰ってもらいました」


「は、はぁ……? それで? 俺に伝えたいことって?」


 ふっと息を吐いた清水柚葉が奏を見据える。


「わたしは。わたしは楊井くんの味方であり、協力者です。なにがあっても、陽愛と楊井くんを応援します。陽愛との恋のためにわたしのことを利用してもらって構いません。……高校に上がっても、そのことを絶対に忘れないでください」





 清水柚葉が去ってから、奏は一人、薄暗い帰路につく。変な女だったな……。しみじみと先ほどの出来事を思い出す。彼女と会っていたあの瞬間がまるで嵐のように思えた。すぐさっきの出来事なのに、遥か遠くのことのようだった。


 清水柚葉という嵐が去った今、薄暗く閑静な住宅街の中で、少し落ち着いて考えられる。


 ――陽愛のこと、好きなんですよね?


 彼女の可憐な声がこだまする。


 好き? 俺が? 陽愛のことを?


 考えてみたけれど、やはり実感はなかった。たしかに、かつて陽愛に助けてもらったことを感謝しているし、陽愛を陰ながら守りたいとも思っている。だけど、陽愛のことを恋愛対象として、どうしても考えられないのだ。


 恋人っていうよりも、妹的な可愛さかな。


 それよりも気になるのは、清水柚葉だった。


 気の強そうな一匹狼。凛とした佇まいが印象的な近寄り難い少女。陽愛が一番頼りにしている同級生。陽愛の大切な親友。


 それだけが清水柚葉の印象だ。


 なのに、どうだ?


 陽愛と話す時は屈託なく笑い、カフェでは友人たちと楽しくおしゃべり。許嫁との関係に悩み、後輩にも慕われている。戸惑ったり、驚いたり、友達の恋を応援すると言ってみたりーーそこにいたのはごく普通の女の子だった。


 もっと生意気で勝気なお嬢様だと思ってたんだけどな。


 陽愛の腰巾着程度の女というぼやけた印象から、くっきりとした少女の像が浮かび上がる。健気に頑張る平凡な姿が野草……いや、タンポポの花のように思えた。


「奏、遅かったな。おかえり」


 養父の落ち着いた声にハッとなる。大きな鉄製の門の前でニコニコと微笑みながら、奏を見つめている。


 卒業の式典が終わった後、友達と遊んでから帰ると伝え、養父と養母には先に帰っててもらったのだ。


「父さん、ただいま」


 何も持たない奏を引き取ってくれた養父も養母も、とてもいい人だ。引き取られた当初は『父さん』なんて呼ぶことすらできなかったが、今や本物の父と母のように感じている。奏の大切な家族だ。


「そんなに笑って帰ってくるなんて、それほど友達と遊ぶのが楽しかったんだな」


 思わず、口を押さえる。


 俺は、笑っていたのだろうか……? 陽愛ではない少女のことを考えて、笑っていた……?


 ――わたしは楊井くんの味方であり、協力者です。


 ――陽愛との恋のためにわたしのことを利用してもらって構いません。


 彼女の言葉を思い出し、苦笑する。清水柚葉ほことを考えて笑っていたのではないことに気がついたからだ。


 俺はただ、清水柚葉を利用しようと思っていただけだ。陽愛に対する思いは恋ではないが、高校生になった際、陽愛に近づくために利用させてもらおう。


 そんなことを考えながら、奏は養父に促されながら、家の中に入っていったのだった。

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