第3章 8話 静寂たる宵



 夕食後、私は寮の中にある庭園を散歩していた。上着を羽織っているとはいえ、少し肌寒い。


 卒業制作は、段ボールの件以外、スムーズに行動できていた、と思う。だけど、何をしていても、翔磨の整った顔が、頭から離れない。段ボールを挟んで見た彼の横顔は、とても美しかった。余分なものを削ぎ落とし、すっきりとした輪郭に、うっとりするほど長いまつ毛に、小ぶりの鼻と唇。本当に端正な顔立ちで、まるでドールのようだ、と思った。どことなく儚さを持つ彼の顔は、私の理想とする瀧本翔磨たきもとしょうまそのものだった。そりゃ、本人なのだから、当たり前なのだが、改めて実感すると、胸のあたりがざわざわとする。


 私のオタク的感情が溢れ出す。あまりのかっこよさにペンライトを振り回したい気分だ。それと同時に、翔磨の背景を知る1ファンとして、彼の手を煩わせてしまったことに対する罪悪感を覚える。

 部屋に籠ると取り留めのない感情がむき出しになってどうしようもなかったため、私は今、夜風に当たっているというわけだ。

 風に乗って届いた草の匂いが、鼻の奥をくすぐる。私は、中庭にあるベンチに腰掛けた。


 なんて素敵な風景なんだろう。


 庭園の中央にある大きな噴水、学校から寮へと続く石畳の道を照らす、ヨーロッパ風の街灯の光がほのかに揺れ、なんともいえない雰囲気を醸し出している。そして、花壇を取り囲むようにある生垣をバックに、厳かに佇む学生寮を見ていると、まるで、自分がお城に住むお姫様になったかのように錯覚をしてしまう。


 私は、ふぅー、と息を少しだけ吐いた。


「……、柚ちゃん?」


 不意に後ろから声をかけられ、体がびくりと跳ねる。


「えっ?」


 振り向くとそこには、美しい瞳を携えた王子様が、私に優しく微笑みかけていた。夜の光を浴びた彼はあまりに美しく、私は息をのむ。


「よかった!やっぱり、柚ちゃんだ」


「翔磨…くん…?」


「あ、うん、そう。びっくりさせちゃったかな?」


 彼はふわりと微笑んだまま、首を傾げる。胸のあたりがボワッと、熱を帯びた。


「隣、座っていい?」


 私は何も言葉にすることができず、こくり、とだけ頷いた。


「ありがとう。んー、春になってきたとはいえ、夜は流石に冷えるね」


 翔磨は優しく私に声をかけながら、ベンチへと腰掛けた。人1人分くらいの間が空いている微妙な距離感。胸の鼓動が、早くなる。


「今日はごめんね。途中で投げ出す形になっちゃって」


「あ、ううん、大丈夫。翔磨くんのお友達に手伝ってもらえたし、それに、元々、一人で運ぶ予定だったから…」


「もう、あんな重いものを一人で持つなんて、無謀だよ。次からは絶対にしないこと、わかった?」


「う、うん。心配してくれてありがとう。流石に持てないってわかったから、次からは気をつけるようにする」


 平常心を装ったまま、私は翔磨と会話をする。翔磨の姿、声、仕草一つ一つが、私の心を揺れ動かす。お互い、向き合うことなく前を向いたまま話せるこの状況は、正直、とても有り難かった。


 私は彼の美しい顔をまともに見ることもできないし、私の顔もおそらく真っ赤で、見せられたものじゃない。


「あのさ、柚ちゃんって、僕のこと、あんまり好きじゃない?」


「いや!そんなことは…!」

 

 唐突に問われ、思わず翔磨の方を向く。彼は顔を少しだけこちらに向け、寂しげな瞳で私を見つめていた。


「ホント?昼の時もそうだったけど、今も全然、顔を合わせてくれないでしょ?僕と話してる時もすごく、なんていうんだろう、話しづらそうだし…。ケント、えっと、あの大柄の男の人ね。ケントとはすごく楽しそうにしてたから、気になっちゃって」


 彼は美しい顔をこちらに向けたまま、切なそうにつぶやく。胸がギュッと締め付けられる。肌寒さも相まって、彼の切ない雰囲気を増幅させた。


 私はなんだか居た堪れなくなって、彼の瞳から逃げるように、視線を自分の太ももへと移す。返事を、しなければ。私は、言葉をぽつりぽつりと紡いでいく。


「そう感じさせてしまっていたなら、ごめんなさい。でも、その、嫌いとかじゃなくて…私、緊張しちゃうと、その、うまく喋れなくなっちゃって…」


「緊張?」


「うん。私、緊張に、すごく弱くて、昔から、こんな感じなんだよね。あはは…。よくわからないんだけど、自分が嫌われたくない相手とか、自分に悪意がある相手とか、あとは、なんだろう、私自身が追い詰められてる時…とか、どう接していいかわからない相手とか、……とにかく色々なんだけど、そういう人に対して、上手く、喋れなくなっちゃう時があるの…。嫌われないかな、とか、こう言ったら相手は不快になってしまうかもしれない、とか、考え始めると、なんてお話ししたらいいか、わからなくなっちゃうことがあるんだ。あとは、頭の中で言葉を探しているうちに、相手の話がどんどん先に行っちゃって、いつの間にか、私が言葉を挟む隙がなくなっちゃう、って時もあるかな…」


「そう、なんだ」


 チラリと翔磨の顔色を伺う。優しく微笑みながら聞いてくれているが、彼が今、どう思っているかは、わからない。なんだか、たまらなく不安になる。


 私は「あ、だからって流暢に喋れる相手のことをどうでもいいって思ってるわけじゃないんだけど…」と慌てて付け足しながら、話しを再開させた。


「そういうわけで、その、別に翔磨くんとの話が嫌だったわけじゃなくて、緊張しちゃって、話せなくなっちゃっただけで…、だから、嫌いとかじゃないので安心してください…」


 言葉尻りがしょぼしょぼとしぼむ。なんだかきまりが悪くて、翔磨の顔を見られない。


「そっか、話してくれてありがとう」


「自分語りしちゃって、すみません。私、話し下手なくせに、自分の考えを話し出すと、心に余裕がなくなって、いっぱいいっぱいになって、わぁーーーってなっちゃって、こうやっておしゃべりが止まらなくなっちゃうんだ…。こういうところも本当に嫌で変えたいって思ってるんだけど……って、また自分語り、しちゃった。ごめんなさい」


「ううん。気にしないで。僕には、柚ちゃんのそういう気持ち、たくさん話して欲しいな。それで僕が、柚ちゃんのこと嫌いになることはないから。それに、そうやって、たくさん相手のことを考えて、発言できるのって、思慮深いってことだと思うし、すごいことだと思うな」


「あっ、あっ、いいの。大丈夫なの。そんな無理して、慰めの言葉、言わないで。慰めて欲しくて話したわけじゃなくて、私は、翔磨くんのこと嫌ってないよ、ってことを伝えたかっただけだから…」


 私は、翔磨の顔を、相変わらず直視できないまま、手持ち無沙汰な指を膝の上で遊ばせ、それを見つめる。


 人の顔色を伺う翔磨。私以上に、人に嫌われることをひどく恐れる翔磨。それ故に、彼がどう思っていようと、人が望んでる言葉を、優しく投げかけてくれる。彼の本音は、いつだって彼の優しい言葉の裏に隠れて見えない。だからこそ、私の話を聞いて、翔磨がどう感じたのか気になってしまう。


「無理して慰めたわけじゃないよ。本当にすごいことだと思ってるよ」


「……ありがとう」


 少しの沈黙。二人の間に冷たい風が吹き抜ける。沈黙を破ったのは翔磨だった。


「柚ちゃん、実は僕も、人に嫌われるの怖いんだ。だから、柚ちゃんの気持ち、よくわかるよ。…なんて、こんな出会って間もない男に、そんなこと言われたくないかもしれないけど。……僕は割と何も考えないで発言しちゃうことが多くて、寮に戻ってから、あんなこと言わなきゃよかったなー、あんなこと言って嫌われないかな、って反省することがよくあるんだ」


 嘘。『桃ロキ』の中で、いつだって翔磨は、相手に気に入られるように、相手が喜ぶように、様々なことを考えて、発言していた。だから、きっと、今、私に語りかけているこの言葉も、考えて考えて考えて、紡いでいるはずだ。

 私は、俯いたまま、ぎゅっと上着の裾を握る。


「でも、意外にもみんな、僕が言ったことなんて覚えてもいないんだ。僕があれだけ悩んでたのはなんだったんだろう、って馬鹿らしくなっちゃう時が多くてさ。人なんて相手が何言ったかなんて、全然気にしてないんだよ。だから、柚ちゃんも、そんなにりきんで人に接する必要はないと、僕は思うな。少なくとも、僕にはそんな気を遣わないでよ」


 翔磨が、ゆらりと身をこちらに寄せ、私の頭をぽんぽん、と軽く叩く。

 私は驚いて、頭を上げ、翔磨を見遣る。彼の顔には、恐ろしいほど優しげな笑顔が張り付いていた。


 心臓が、ドッドッドッ、と規則正しく大きな音を立てながら、鼓動する。


「あ…えっと…」


「あ、ごめんね。突然触れちゃって。びっくりしちゃったよね」


 翔磨はそう言うと、私からさっと身を離した。



 ふと、『桃ロキ』の翔磨ルート序盤のシーンが、頭に浮かぶ。


「瀧本くん、どうして私に優しくするの。私、この間、瀧本くんが人に優しくした後、舌打ちしているのを聞いちゃったの。他人に優しくするのは、何か意図があるの?私はその意図に沿おうと思わないの。だから、もう私に優しくしないで。もう、関わらないで」


 翔磨ルートに入った際、陽愛は、序盤で翔磨の偽善性を見抜き、彼女の男嫌いも相まって、翔磨を拒絶した。


「それって聞き間違いじゃない?舌打ちなんて、してないよ」


「微笑んで誤魔化そうとしても、無駄だよ。聞き間違いじゃない。たとえ、聞き間違いだったとしても、私は貴方が嫌いです。だから、もう近づかないで」


「あはは、ひどいなぁ…。ま、でも、僕の薄っぺらい上部だけの言葉に感動してる人たちよりマシか」


 翔磨の顔から張り付いたような笑顔が消え、冷め切った無表情に変わる。


「僕も、実はすごく嫌いな人種がいるんだ。あっ、陽愛ちゃん、君のことじゃないよ?……僕はね、僕の薄っぺらい言葉に、感動するような浅はかな人たちのことが大嫌いなんだ。ほんと、あんなしょうもない言葉で感銘を受け、僕のことを好きになるなんて、軽蔑するよ」


「……ひどい。みんな、瀧本くんのこと慕ってるのに。なんで、そんな心ないことが言えるの」


「みんな、僕の偽りの言葉、言動でほだされてるだけなんだよ。そんな軽薄な関係の人たちのこと、大切にできると思う?」


「……本当に最低」


 翔磨は人に好かれたいくせに、自分のことを好いてくれる人を嫌い、見下していた。そういった二面性を持つ彼は、陽愛と出会い、様々なイベントを得て、ありのままの自分を知る陽愛に、少しずつ心奪われていく。そして、その中で翔磨のヤンデレとしての才能を開花させていくのが、翔磨ルートの本筋であった。



 今、この瞬間、私はおそらく、大好きな推しである翔磨に軽蔑されている。偽りの優しさを甘受しているように見えるのだろう。

 この胸の激しい鼓動は、翔磨に対する憧れやときめき、ではなく、恐怖だ。推しに、いや、他人に、軽蔑されているかもしれないという恐怖。美しく整った顔がひどく恐ろしく歪んで見える。


 怖い。私は翔磨の顔を見つめたまま、何も言えず、押し黙る。鼓動の音だけが耳に響いている。


「あ、やっぱり柚葉先輩だ!こんなところで何やってるんですか?」


 突然、人の声が耳に飛び込んできた。最初、私の名前を呼ばれたことに気づかなかった。声のした後方に視線を移す。

 手を振りながら、駆け寄ってくる人の姿が見えた。暗がりで、よくわからなかったけれど、私に気軽に声かけてくれる後輩は、拓海しかいないだろう。


 駆け寄る子犬のような無邪気な後輩の登場に、助かった、と私はホッと胸を撫で下ろした。


「寮の窓から中庭に先輩がいるのが見えて、つい声かけちゃいました!もう、先輩、いくら暖かくなったからって、そんな薄着で外にいたら風邪ひいちゃいますよ……って、人と一緒だったんですね…!すみません、気づかなかったです。…えっと、オレ、お邪魔でしたか…?」


「ううん、全然そんなことないよ。心配してくれてありがとう」


 私は微笑みながら、答えた。やっと、息ができる。大好きな翔磨と一緒にいることができて嬉しいはずなのに、どうも息が詰まる。私では翔磨を包み込むことができない。他の人のように、彼の優しさに甘えることも、陽愛のように、はっきりと拒絶することもできない。翔磨の軽蔑の枠から外れることができない。そのことが、辛くて、苦しくて、歯痒い。


「えっと、お話のところ申し訳ないんですけど、先輩、そろそろ門限の20:00になっちゃいますよ!寮に戻らないと、玄関鍵かけられちゃいます!ほら、早く行きましょ!」


 拓海はそういうと、私の手首をガシッと掴み、引っ張り上げる。


「わっ、拓海くん、そんなに引っ張らなくても大丈夫だよ!……あの、翔磨くん、アドバイス、ありがとうございました。参考にします」


 私は振り向き様に、翔磨にペコリとお辞儀してお礼を言い、拓海に引っ張られるまま、寮のエントランスに足を向けた。



 寮のエントランスホールに着くと、翔磨は私の手首を握っていた右手を離したかと思うと、私に向き合って深々と頭を下げた。


「えっ、拓海くん、どうしたの?」


「ごめんなさい。人と一緒にいたのに連れ出して」


「ううん、本当に気にしてないから、気にしないで。むしろ、あのままだったら本当に門限過ぎちゃうところだったし、助かった」


「じつは、オレ、知ってたんです。先輩が他の人と一緒にいるの」


「えっ?」


 拓海が顔を上げる。


「その、先輩の姿が寮の窓から見えてたっていうのは、本当なんです。それで、何してるのかなと思って、後を追ったら、男の人と合流して。本当は立ち聞きなんてしちゃダメだってわかってたんですけど、でも、気になっちゃって…」


 拓海は、決まりが悪そうに、もごもごと言葉を発する。門限も近いからか、高級ホテルのロビー並みに広いエントランスホールは、ガランとしている。


「それで、立ち聞きしたのは本当に申し訳ないんですけど、その、柚葉先輩、すごく困ってるように見えて…。だから、お節介かもしれないけど、声かけて、連れ去っちゃいました。すみません」


「そうだったんだ…」


 そういえば、天真爛漫な拓海は、人の感情の機微や、行動の変化によく気がつく、いわゆる、空気を読めるキャラだった。陽愛も『桃ロキ』の中で、そんな彼のギャップに惹かれたんだっけ。


「本当に、すみませんでした」


「ううん。拓海くんの言う通り、その、困ってたから、正直、助かった…」


「よかった〜!役に立てたならよかったです!」


「うん、ありがとう。ほんと、助かりました」


 私は恭しく拓海にお礼を言い、2人で笑い合う。拓海の裏表のない無邪気なところに救われる。


「今日、拓海くんに2回も助けられちゃった。…本当にありがとう。……あと、朝は一方的に話して、一方的に解散しちゃってごめんね…。そのことが、今日ずっと気になってたんだ…」


「そんなこと気にしないでください!オレ、話聞くの好きなんで!オレ、柚葉先輩の役に立てるのすごく嬉しいんで、オレで良ければいつでも話聞きます!」


「ありがとう…心強いよ」


「どういたしまして!でも、1日にこんなに会うなんて、なんだか運命感じちゃいますよね!」


「あはは、そうだね」


 私は愛嬌よく笑う。

 ゲームの中で、拓海は、しょっちゅう、その気がないのに、その気があるように勘違いさせるようなセリフを、軽い口調で投げかけていた。

 そのせいで陽愛は、拓海が自分に気があるのだと勘違いし、痛い目を見る。その特性は、どうやら健在のようだ。

 だから、私は「でも、そんなこと女の子に簡単に言っちゃダメだよ?勘違いされちゃうよ」と、付け加えた。


「勘違い?」


「そう、勘違い。運命、なんて言われたら、『拓海くんは私のこと気があるのかなー』って女の子は思っちゃうの。だから、本当に好きになった人にしか、そういうことは言っちゃダメ」


「……そういうものなんですね。わかりました。気をつけます!」


 拓海の口元がぎゅっと引き締まる。本当に素直でいい子だ。


「…っと!さっき先輩が一緒にいた人も寮生ですよね?そろそろ戻ってきちゃいますね…!部屋に戻りましょっか!…先輩、今日はありがとうございました!先輩のおかげで、今日は、なんだかよく寝れそうです!」


「ほんと?よかった。私も今日はすごく助かりました。拓海くん、本当にありがとう」


 私たちは2人で深々とお礼をし合う。その様子がおかしくて、2人でまた笑い合った。


「じゃ、また会えたらお話ししようね」


 私は、肩のあたりで小さく手を振り、左奥にあるエレベーターへと向かう。


 寮はエントランスホールを中心に、男子棟、女子棟と別れており、玄関向かって右側奥にあるエレベーターは男子寮につながっており、向かって左側奥にあるエレベーターは女子寮へとつながっている。


「じゃ、先輩!また今度!」


 時折、お互い振り返りながら、手を振り合う。先に、男子寮へとつながるエレベーターが到着し、拓海はエレベーターの中に入っていく。私は、心の中で、「ありがとう」と再度つぶやき、彼がエレベーターに消えていくのを見送った。

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