第3章 7話 瀧本翔磨



 私は、今、1人で、大きな段ボールを抱えながら、ふらふらとした足取りで廊下を歩いている。この段ボールの中には、卒業制作のちぎり絵で使用する紙がびっしりと入っていた。


 現在の時刻は、13時20分。5限目の時間。今日の5〜6限目は卒業制作の時間に当てられていた。


 他のクラスよりも作業が進んでいた私たちのクラスは、クラスメイト数名が助っ人として他のクラスへ駆り出されていた。陽愛ひよりもその1人で、私を残し、他のクラスの手伝いに行ってしまった。陽愛のいない教室で、1人作業するのが心細かったため、荷物運びをすることを申し出たのだ。


「おっも…」


 思わず、野太い声がこぼれる。何度も往復するのが嫌で、段ボールにこれでもかと紙を詰め込んでしまったのが原因だ。早く作業を終わらせようと、欲張ったツケが回ってきたのだ。あまりの重さに、段ボールを少し持ち上げては下ろして、少し持ち上げては下ろして、を繰り返して運ぶ。これでは、逆に効率が悪い。

 廊下は少し肌寒いのに、じんわりと体に汗が滲む。


「重そうですね…。大丈夫ですか?手伝いましょうか?」


 荷物を下ろし、持ち上げようとした時、不意に、後ろから声をかけられた。聞き馴染みのある声だ。


「ありがとうございま……えっ」


 振り向いた瞬間、私は、声を上擦らせ、目を見開く。振り向いた先には、悠斗はるとの次に好きなキャラクター、瀧本 翔磨たきもと しょうまがいたのだ。


 にっこりと微笑む彼は、どこか、煌めいて見え、神々しい。紺色の制服が、彼の美しい白髪をより一層引き立て、輝かせている。私を見つめる優しげなコバルトブルーの瞳が、私の胸を締め付ける。


 そうだ、この包容力のある優しい声音は、翔磨のものだ。どきり、と胸の奥の感情が動く。

 翔磨は私にヤンデレの良さを教えてくれた少年。悠斗はるとがいなければ、No.1の推しになったであろう少年。


 かっこいい。胸が高鳴る。つま先から頭のてっぺんまで、全て完璧だ。見惚みとれてしまう。


「ど、どうしました?僕の服に何かついてます…?」


 私の不躾な視線に気づいた翔磨は、ソワソワと戸惑い、衣服を確認している。彼に申し訳ないと思うと同時に、その様が実に愛おしく、もっと見ていたい、と思ってしまう。

 口元がだらしなく緩みそうになるのを、私は、グッと堪える。


「あ、いえ。すみません、ジロジロと…」


「いいえ、突然、声かけちゃいましたし、びっくりさせちゃいましまよね、ごめんなさい」


「大丈夫です。お声かけ嬉しかったです。段ボールが思ったより重くて…」


「大変ですね、手伝いますよ」


 翔磨は、優しげに目を細め、スラリと伸びた綺麗な白く細い腕を、段ボールへと伸ばす。


「あ、待ってください!持ってもらうなんて、悪いですよ。私が頼まれたものですし」


「え、でも重いですよね…?」


「重いですけど、これくらいなら持てます。本当に、大丈夫です」


 私は、語尾を強め、翔磨の申し出を断った。推しである彼の手を煩わせてしまうのが申し訳ない、という気持ちもあったが、それ以上に彼の優しさに触れるのが嫌だったのだ。

 翔磨は、まさか断られると思っていなかったのか、驚いたように数度目を開閉させる。


「えっと、ごめんなさい。せっかくの心遣いだったのに…」


「全然いいです。でも、こんな重そうな物を一人で運ぶのは無茶だと、思います。フラフラしてましたし、このまま運んでったら階段とか危ないですよ」


 爽やかに微笑む彼の姿に胸がチクリと痛む。一見、誰にでも優しく、心温かい人のように見える彼は、強い執着と歪んだ愛を持つ腹黒い少年であった。人との距離を一定に保ちつつ、人には親切に。それが彼の行動原理だった。

 翔磨は、母親から精神的DVを受けていた。彼が母の気に入らない態度を取った時、彼の母は、言葉で彼を責め立てたのだ。


「こんなこともできない貴方に生きている価値はない」とか「貴方よりも優秀な子が生まれればよかったのに」とか「本当に貴方は冷たい子ね。もっと人を、母親を、敬いなさい」とか、彼の人格を否定する言葉を毎日シャワーのように浴びせられた。


 その描写はとても生々しく、当時、自分と重ね合わせて、少し泣いてしまったくらいだ。

 そういう生い立ちのせいで、彼は人が今、何を望んでいて、どうすれば喜ぶのかを第一に考えるようになり、自分本来の感情を押し込めながら、その人が望むであろう自分像になりきるようになった。


「でも、えっと、悪いです」


 私は、そんな翔磨の優しさに甘えたくなかった。私の前では、気遣わなくていいんだよ、なんて、翔磨推しの私は軽率に思ってしまう。


「んー…、そっか…。あ、じゃあ、半分ずつ持つのはどうです?そうすれば、押し付けちゃった罪悪感とかもないですよね?」


「え、でも…」


「いいのいいの、"僕が"手伝いたいんです。ほら、こっち持ってください」


 そういうと翔磨はダンボールの片側を軽く持ち上げ、「反対持ってくれないと重いなー」なんて微笑んでいる。


 ずるい。


 結局、私は翔磨に甘えて、ダンボールの半分を託すことにした。


「お名前は?」


「清水柚葉です。えっと…」


「あ、僕は瀧本翔磨です。気軽に翔磨って呼んでくれたら嬉しいかな」


「あ、しょ、翔磨……さん…」


「"さん"なんていらないですよ。同じ学年なんですし、そんな畏まらないでください」


「じゃあ、お言葉に甘えて…。翔磨…くん、で。私のことは、えっと…好きに呼んでください…」


「そしたら、清水さん……、だと、ちょっとよそよそしい感じがするから…。そうだな。柚ちゃんって呼びたいんですけど…大丈夫ですか?」


「あ、はい。じゃあそれで」


「よかった!せっかく名前で呼び合う仲になったんだし、よかったら敬語で話すのやめて話したいんですけど…どうです?」


「えーっと…。そう…だね。同じ学年だし…」


「じゃあ、卒業間近でこんなこと言うのも変だけど、これからよろしくね、柚ちゃん」


「う、うん。よろしく……です」


 プツリと会話が途切れる。"推し"と会話している現実に、嬉しい思いと、戸惑う気持ち、そして、"優しくさせてしまっている"という罪悪感、複雑な気持ちが絡み合い、言葉がしどろもどろになる。

 ずっと正面に向けていた視線を、翔磨の顔に移し、彼の顔色を窺う。


 話が、盛り上がらない。というか、何を話したらいいかわからない。私の視線に気づいたのか、翔磨がこちらをチラリと見る。胸がドキリと音を立て、私は慌てて目を逸らした。

 翔磨が、私に気を遣って、いくつか話題を振ってくれるものの、話が盛り上がらないまま、廊下を進み、階段を登り、3年生の教室のある階まで来てしまった。


「おー、翔磨。また人助けしてんのか」


 1組の教室の前に差し掛かった時、横から突然、大柄の男が、大声で現れたかと思うと、翔磨に体当たりし、「えらいえらい」と翔磨の頭をわしゃわしゃと撫で始めた。その衝撃で、段ボールがぐらりと揺れる。


「うわ、危ない!なにすんだよ、もう!」


「おっと、悪りぃ悪りぃ」


「柚ちゃんにも迷惑かかるんだからやめてよ」


「柚ちゃん…?」


 バチリと、大柄の男と目が合う。私は軽く会釈をした。


「お、おい!清水さんじゃねぇか!」


「あれ?ケント、知り合い?」


「知り合いも何も、ずっとお前に言ってただろ!俺の憧れの存在、清水柚葉!俺、ファンクラブにも入ってるんだぜ?」


 ケントと呼ばれた男は、声を潜め、翔磨に顔を近づけ、ヒソヒソと話している。しかし、ケントは声が大きいタチなのか、声を小さくしきれておらず、全部の会話が丸聞こえであった。

 【一条めぐ】のファンクラブなんてあるのか。そりゃそうだよな、この美貌だし。何より、主人公の親友だし。


 私は一人納得し、心の中で頷く。


「なぁ、ダンボール持つの変わってくんね?」


「は?」


「いやだからさ、俺は清水さんと少しでもお近づきになりたいわけよ。これ、5組にまで持ってくんだろ?俺の方が力あるし、翔磨は翔磨で手伝いの引く手数多だろうし。な?頼むよ」


「いや…でも、」


「翔磨くーーーん、こっち手伝ってぇー!人手が足りなくてぇー!」


 まるでタイミングを計っていたかのように、翔磨を呼ぶ女の子たちの声が、1組の教室から廊下に届く。


「ほら、お呼ばれしてんぞ?紳士の翔磨くんは、行ってやんないと、な?」


「はぁ…、わかったよ…」


 二人の内緒話はここで終わり、翔磨は私に向き返った。申し訳なさそうな顔をしている。


「柚ちゃん…、その、ごめんね。他の子に呼ばれちゃって…。段ボールはこの大柄な男に引き継がせるから」


「あ、はい。わかりました」


「ほんとに、ごめんね」


「いえ、気にしないでください。むしろここまで持ってくださってありがとうございました」


 私が小さくお辞儀をすると、翔磨は段ボールをケントに渡し、1組の教室へと消えていった。少しだけ、名残惜しい。


「あ、あの!清水さん…ですよね?」


「はい、そうです」


「お、俺、その、ずっと素敵な方だなーって思ってて…!えっと、これ5組に持ってけばいいんですよね?」


「あ、はい。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」


 軽くお辞儀をして、歩み出す。


「いやいやいや!迷惑だなんてそんな…!レディーが困ってたら助けるのが男の役目ですから!」


「ふふっ」


 思わず、吹き出してしまった。まさか、レディーなんて言われるとは。この世界はどこまで行っても"乙女ゲーム"の世界なんだと実感する。


「あ、俺、なんか変なこと言っちゃったでしょうか?」


 ケントが慌てた様子で尋ねる。


「すみません、ふふっ。突然笑ったりして。"レディー"って言葉を使う人、初めて見たので、ちょっと可笑しくて」


「あはは、すみません。柄じゃないっすよね」


「そんなことないです。重いのに手伝ってくれてありがとうございます」


 優しく微笑んで見せると、ケントの耳が一気に赤くなる。わかりやすい人だな、と思う。彼の正直な姿を見て、ふわっと緊張の糸が緩んだ。


「力持ちなんで、気にしないでください!いくらでも持ちます!」


「お〜、頼もしい」


 私たちがそんな中身のない話をしているうちに、5組の目の前に到着した。段ボールをゆっくりと床に降ろす。


「えっと、手伝ってくださってありがとうございました。おかげで助かりました」


「どういたしまして、です!俺も清水さんとお話しできて光栄でした!これからも、いつだって手伝いますから!」


「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです。あと、翔磨くんにもお礼を言っておいてもらえると、助かります」


「もちろん!全力で伝えますね!」


「ふふ、ありがとうございます。よろしく願いします」


 私は小さく頭を下げ、顔をほころばせる。


「はい!では、俺もやらないといけないことあるんで、戻りますね!」


 ケントは体いっぱいに大きく手を振り、時折振り返りながら、廊下を早足で駆けていった。私もそれに応えるように、胸のあたりで小さく手を振った。

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