第3章 6話 境界線



 私は教室の自分の席に座り、机に突っ伏していた。机の木の匂いが、ダイレクトに鼻に入ってくる。


 恭哉に色々言われた時は、悔しかった。悔しくて悔しくて、涙が出そうになった。私は、いつもそうだ。肝心な時に、言葉が出ない。言いたいことが言えない。なんのために口がついているのか、とさえ思う。


 だけど、今は、それ以上に、自分自身に腹が立っていた。


 肝心な時に、上手く喋ることができないくせに、余計なことは、たくさん喋る。


 私は、乙女ゲームで、"天能 拓海"がどんなキャラかを知っていた。だから、彼が私のことを、絶対否定しないってことに、確信を持てた。拓海が受け止めてくれるのがわかったから、甘えた。甘えて、余計なことをペラペラと喋った。


 そういえば、私が話している間、拓海は言葉を発していなかった気がする。話を聞いてくれたのに、彼を置いて去ってしまった。


 最低だ。


 自己嫌悪で頭の中がぐるぐるする。


 そもそも、全部、恭哉が悪くない?恭哉はあんな嫌味なこと言うキャラじゃなかったはずなのに、なんで、あんな酷いこと言ったの。隣にいた女も、ずっとクスクス笑いやがって。


 唐突に、怒りの感情が沸々と浮かび上がってくる。自分の中の様々な感情が、行ったり来たりして、せわしない。


「柚葉、どうしたの?」


 思考に飲み込まれそうになった時、頭上から、春の木漏れ日のような柔らかい声が降り注いだ。陽愛ひよりだ。伏せていた顔を、ゆっくりとあげ、彼女の方へ向ける。


「あ、おはよう」


「おはよ…って、わわ、柚葉、すっごい顔げっそりしてるよ。何かあったの?」


「話すと長くなるんだけど、聞いてくれる?」


「もちろんだよ」


 陽愛が、私の隣の席に座り、椅子をこちらに近づけ、優しく微笑む。私と陽愛は現在、隣同士の席だ。

 私は大きく息を吸った。


「いやあのね。今日食堂で知ってる後輩に会ったんだけどいや知ってる後輩っていうか相手は私のこと知らなくて私は知ってる後輩でそれで一緒にご飯食べてそしたら恭哉に会っちゃってそれで―――」


「ちょ、ちょっとまって!そんな一息で呪文みたいに言わないで」


 私は口をつぐむと、慌てふためく陽愛の目を捉える。陽愛とバチリと目があった瞬間、なんだか、おかしくなって、2人同時に吹き出した。


「あはは。もう、柚葉、ちゃんと説明してよ」


「ごめんごめん。すごい嫌なことが起こったから、一気に言い切ってやりたくて」


「そんなに嫌なことが起こったの?」


「うーん、まぁ…ね」


「そうなんだ…。あ、もし、話して不愉快になるとかだったら、全然、話さなくていいからね」


「ううん、むしろ話してスッキリしたい感もあるし、聞いてくれると、嬉しい」


「そっかそっか。そしたら、聞くよ、私」


 陽愛がポンポンと、私の頭を優しく撫でる。

 陽愛は優しい子だと思う。どんなことも柔軟に受け止めて、つらいことがあっても微笑んで、人が傷ついていたら、自分もその傷を一緒に背負ってくれる女の子。まさに、乙女ゲームの主人公に相応しい女の子。

 それに、陽愛は少しだけ、咲子に似ている気がする。見た目こそ似ていないが、心の底にある優しさの部分が似ている気がする。咲子も、人のことを無条件で愛せる人間だ。学生時代、どんな私も受け止め、側にいてくれた人。


 陽愛に似てるよ、なんて咲子に言ったら、


「いやいやいや!私が『桃ロキ』の主人公に似てるなんておこがましすぎる!」


 って、大慌てで否定するんだろうけど。


 でも、こうして陽愛と触れるたびに、咲子に似ているな、と感じ、咲子と過ごした学生時代の感覚を取り戻している気がする。

 だからこそ、私はこうして、陽愛と自然に"親友"になれているのかもしれない。



 私は、陽愛に今朝起こった事を、大まかに説明した。


 説明し終えると、陽愛が机をバンッと思い切り叩いた。クラスメイトたちの視線が、一瞬だけ、こちらに集まった。が、すぐにその視線は興味なさげに散っていく。


須崎すざき先輩、本当に、さいっていだね。女遊びするなんて最低、って前から思ってたけど、柚葉にそんなこと言うなんて。絶対に許せない。」


 ごめん、恭哉。恭哉ルートのフラグは折れたよ、と私は心の中で、恭哉に合掌する。


「ほんとにね…。まさか私もあそこまで酷いこと言われると思わなくて、びっくりしちゃったよ…」


「今までは、これ見よがしに外見をちゃらくさせたり、女の子とイチャイチャしてただけだもんね…」


「そうそう…。私の行動が気に食わなかっただけだと思うけど、それにしたって言葉がキツすぎると思うんだよね…」


「あ、もしかしたら、須崎先輩、やきもち焼いたのかもよ?俺の婚約者なのにーって!」


「そんなまさか!」


「わかんないよ?今まで自分の物だと思っていた女の子が、他の男の子と食事!許せない!ってなったのかも」


「ないない!まったくもう、陽愛は少女マンガの読みすぎだよー」


 ふふふ、とお互い顔を見合わせて笑いあう。こんなくだらないやりとりが、心地いい。さっきまで1人で抱え込んでいた罪悪感が、少しずつ薄れていく。


 教室独特の喧騒も相まって、本当に自分が学生時代に戻った気持ちになり、胸が少しだけぎゅっとする。


「でもその、拓海くんって子?すごくいい子だね!柚葉的にはどうなの?」


「え、どうなのって?」


 唐突に、話が思わぬ方向に飛び、素っ頓狂な声を出してしまった。


「恋の予感、みたいなの、ないの?」


「えええ、ないよ!絶対ない!可愛らしい後輩だなぁとは思うけど、私の好みじゃないもん」


「なんだー、残念」


 陽愛はわざとらしく唇を尖らせる。その仕草があまりにも可愛らしくて、思わずドキリとしてしまう。


「もう、なんで急にそんなこと言うの?」


「だって、柚葉の口から、初めて須崎先輩以外の男の人の名前が出てきたんだよ?もしかしたらー、なんて、思っちゃったの!」


 陽愛は私の机に両肘をつき、両手を頬に当て、にこにこと微笑んでいる。「それに、自分自身が恋愛するのは気が進まないけれど、親友と恋バナするってすごく憧れがあるから」と、はにかみながら付け加える。


「そういえば、私たちって恋バナってしたことなかったよね」


「うん。私は男の人好きじゃないし、柚葉も恋するタイプじゃないもんね。でも、ずっと憧れてたんだ。お友達と恋バナするの!」


「あはは、陽愛っぽいね」


 陽愛は両手を前にグーっと伸ばしたあと、私の瞳を覗き込む。


「でも、柚葉、本当に変わったよね。前なら、須崎先輩にビシって言い返してただろうし、恋バナなんてくだらないって笑って言いそうなのに」


 陽愛の目が、窓から入り込む日差しを受け、キラキラと輝く。ありのままの私を受け止めてくれそうな、真っ直ぐな瞳だ。なんだか、居た堪れなくなって、私は目を逸らした。


「そ、そうかな?」


「うん、全然違うなって。…それに、前の柚葉はお嬢様で高嶺の花って雰囲気だったけど、今の柚葉は、なんていうか…すごい親しみやすい感じがする!もちろん、私はどっちの柚葉も魅力的だって思ってるけどね!」


 陽愛の口元がほころんだのがわかる。主人公に相応しい、可愛らしい笑顔。

 私は、視線を逸らしたまま、天井を仰ぎ見る。


 一条めぐと私の性格は正反対だ。思ったことをなんでもハッキリ言えるめぐに対し、私は人の顔色ばかり伺って、何も言えなくなる弱虫。

 芯があり、一本の軸を持っているめぐに対し、人に流されて、自分の感情でさえもふわふわ浮かぶだけの私。

 まさに、対照的と言っていい。こんなに人格変わったのに、受け入れてくれるのは、ゲームの世界だからなのだろうか。

 でも、私も結構この環境を受け入れちゃってるしな…、と心の中で苦笑する。もしかしたら、この世界は細かいことが気にならなくなる空気が流れているのかもしれない。


「ねぇ、何考えてるの?」


 思考が「今」に引き戻され、慌てて、柚葉の方を向く。


「あああ、ごめん。そんなに変わったかなぁ、と思って!」


「本当に悪い意味で言ったんじゃないよ!今の柚葉も、とびっきり可愛いし、どんな柚葉も柚葉だし、私の大切な友達には変わりないんだから!」


「陽愛……。うん、ありがとう」


 胸がチクリと痛む。陽愛の大切な友達は、『一条 めぐ』で『清水 柚葉』ではない。私はただのめぐの代役で、ここは、仮初かりそめの世界。

 視線を手元に移す。自分の手のひらを見て、私は、思う。

 私は一体、誰なんだろう。


「柚葉!」


 不意に、手のひらに、陽愛の柔らかく温かい感触が伝わる。びくりと体が小さく跳ね、陽愛に、再び視線を戻す。


「柚葉、1人で抱え込もうとしないで。柚葉は私と出会った時からずっと、1人で抱え込む癖があるから…。私、柚葉の役に立たないかもしれないけど、でも、聞くことはできるから。だから、もし柚葉が、私に話せるようになったら、いつでも話してほしいの。なんでも聞くし、柚葉の全部を受け止める」


 陽愛が真っ直ぐにぶつかってくる。本気の瞳。6人の攻略キャラを包み込む、無性の愛。それがとても眩しくて、痛くて、今の私には受け止めきれず、喉の奥が痛む。

 私は、陽愛のこの強い思いに答えられない。私も陽愛と同じ熱量でぶつかることはできない。だって、どこまで行っても、陽愛は、私にとってゲームの中のキャラクターでしかないから。『主人公』としてしか、見ることができないから。


 なんだかやりきれなくなり、私は、曖昧に笑って、「ありがとう」と頷く。


 朝のホームルームを知らせるチャイムが、騒がしい教室に鳴り響いた。

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