第3章 4話 椿の花
「先輩!先輩!!!!!」
自分より頭ひとつ分くらい小さい女の子が、自分の腕をものすごい強い力で引っ張り、一心不乱にズンズン前へ進んでゆく。
拓海の声は、どうやら届いていないようだ。
「先輩、柚葉先輩ってば!」
突然、体に急ブレーキがかかる。それと同時に、腕が空気を吸い、解放感に満たされる。彼女の手が腕から離れたのだ。
中庭の通称"森"と呼ばれる入り口の前だった。木々がそよそよと揺れている。
「ごめんね、無理矢理引っ張って」
柚葉は、こちらをチラリとも見ずに言う。
「いや、そんな、全然…。……柚葉先輩、その…大丈夫…ですか?」
「ん…」
ひどくか弱く、今にも消えそうな声だった。
「あの人、最低です。優しい柚葉先輩に、あんな…あんな…」
「うん、私もそう思うよ…。まぁ、でも、あの人にもあの人なりの理由があるの知ってるからさ」
柚葉は静かに空を仰ぐ。拓海もつられて、空を見上げる。青空の中にある真っ白な雲は、何か形を作る訳でもなく、ただただぼんやりと、漂っている。
「ごめんね、巻き込んで」
「え?」
「いや、なんか、家族間のギスギスしたやつっていうの?…巻き込んで、ごめん」
「俺、本当に、全然気にしてないですから」
「ううん、ああいうのって見てて気持ちのいいものじゃないから。不愉快な思いさせてごめんね」
大きく首を振る。「そんなこと、ないです。不快じゃなかったです」、そう言葉を伝えたかったのに、柚葉は、伝える暇を与えず、言葉を続けた。
「まぁ、見ての通り、私と婚約者は全然仲良くなくてさ。…多分、"私"に原因があるんだけど…」
柚葉の肩が震えていた。泣いているのかもしれない。
「…たとえ、柚葉先輩に原因があったとしても、あんな言い方はないです。自分は女作って遊んでるくせに、柚葉先輩が男の人とご飯食べたくらいであんな嫌味言うし。最低、最悪のクソ野郎です。やっぱり、俺があの時、ガツンと言うべきでした」
「強いなぁ、拓海くんは。強くて優しくて…。うん、少し羨ましいかな」
柚葉がやっと、こちらに顔を向けた。拓海と目が合うと、ふわりと頬を緩ませる。椿だ、と拓海は思った。目元に滲む涙は、朝露を浴びた花びらで、優しく微笑む姿は、
触れたい、と思う。だけど、触れたら簡単にぽとりと落ちてしまいそうで、触れることも彼女と言葉を交わすことでさえ、許されない気がした。
ぽつりぽつりと、柚葉が言葉を続ける。そのひとつひとつを取りこぼしちゃいけない気がして、拓海は全神経を耳に集中させた。
「私も、拓海くんと一緒で、あの人にガツンと言ってやりたかったんだ。でも、できないの」
柚葉は唇を震わせ、瞳を彷徨わせながら、下唇を噛む。言葉を探しているように思えた。だから、拓海は待った。傷ついた彼女が、せめて安心して話せるように。
「私ね、思ってることを、言葉にするのが、苦手なんだ。特に、私に対して、悪意を持っている人に対しては。本当はね、言ってやりたいこと、たくさんあるんだよ。だけど、言えないの。言う前に、涙になっちゃうから。涙になって流れちゃうから」
さらさらと風が吹く。柚葉の声がどうも心地いい。ゆったりとした時間が流れる。時間の流れが、ここだけ変わってしまったみたいだ。
「泣くとね、ずるいって言われちゃうんだよ。自分に都合が悪くなったから泣いてるって、勝手に思われちゃうみたい。こっちだって、泣きたくて泣いてる訳じゃないのにね。…そういうわけだから、なんでも素直に言葉にできる拓海くんが、羨ましいなーって思ったの。でも、結局、私が自分の思いを伝えられないのって、私が弱くて、ずるいからなんだよね。自分の言葉に自信がないの。思ってること伝えたら、なんて思われるか不安なの。否定、されたくないんだ。………それに………」
続く言葉を、拓海は待った。だけど、それ以上、言葉は続かなかった。
柚葉は、服の裾で軽く目元を擦る。
「あーぁ、ごめんね。変な話しちゃった。初めて会った人に、いきなりこんな話しちゃうなんて、やばい先輩だよね。今のは冗談ってことで、忘れて!」
空に言葉を捨て去るように言い放つ。目が、合わない。
まただ。また、椿のように含みを持たせて微笑んでいる。触れたいのに、触れられない。拓海が、関与できないところまで行ってしまう。こんなことは、拓海が14年生きてきて、初めてだった。欲しいものにはなんでも、手を伸ばしてきたけれど、触れられないって、なんて、もどかしいんだろう。
「ごめん!校舎には一人で行くね!ここまで付き合ってくれて、ありがと!じゃ、また」
柚葉は左手を小さく挙げると、早足で、その場を後にした。一度もこちらに振り返らない。
柚葉の後ろ髪が、彼女の歩幅に合わせて、リズム良く揺れている。
柚葉の、力強い瞳を思い出す。震えながらも懸命に生きている彼女。自分のことを弱いと認める強さを持っている彼女。
ねぇ、柚葉先輩。
彼女の後ろ姿に、心の中で語りかける。
先輩は、自分のことを弱くて、ずるい人間だって言ったけど、俺はそんなこと思いませんよ。
だけど、もし、誰も先輩を受け入れてくれないと言うなら、俺が先輩を受け止めます。もし、先輩が自分自身を弱いと言うのならば、俺が先輩を守ります。
「だから、そんな悲しい顔で笑わないでください」
誰よりも美しくて、とってもかっこいい、憧れの先輩。
拓海は、柚葉の跡を追うように、歩み出る。
その場には、木々の葉のそよぐ音だけが残った。
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