第2章 2話 州浜陽愛と一条めぐ



 あれっ?


 目を開ける。白だ。どこまでも続く白。


 横たわったまま、白い天井を見つめる。少しだけ視線を横にズラす。銀色のカーテンレールとクリーム色のカーテンが目に入る。


 どこか身に覚えのある光景。


 私はゆっくりと身を起こした。どこも痛くもないし、具合も悪くない。ベッドの横には丸椅子がひとつだけポツンと置かれており、それ以外には何もない。今、私のいるベッドだけが切り離されてカーテンで仕切られているようだ。


「清水さん、起きたの?」


 不意にカーテンの外から、優しさを孕んだ女性の声がした。


 ゆっくりとカーテンが開けられる。白衣に身を包んだ小柄で目の細い優しそうな女性がこちらに顔覗かせる。彼女は清潔で、すっきりとした印象だった。齢はわからないが、おそらく30代前半。ほとんど化粧などしておらず、装飾品の類もつけていない。今、私のいるこの空間も、余分な物はひとつもないが、彼女にも、余分な物は何ひとつなかった。それなのに、彼女のカーテンを開け閉めする仕草が上品で、妙に色っぽく、彼女の女性らしさを引き立たせている。


「清水さん、大丈夫?トイレで倒れたって聞いたけど…。お腹、痛い?めまいとかある?」


 心配そうな面持ちで、ベッドの横に立ち、私の様子を伺う。


「え、あ…いえ、大丈夫です」


 気恥ずかしい。病院の類は苦手だ。具合が悪くても、上手く説明ができない。どこが痛いとか、どこが気持ち悪いとか、問われると自分でもよくわからなくなってしまうのだ。まぁ、今回の場合は、本当に大丈夫なのだけれど。


「よかった。洲浜さん、心配してたわよ」


 洲浜。その名前を聞いた途端、血の気が一気に引くのを感じた。洲浜、洲浜 陽愛(すはま ひより)。『桃ロキ』の主人公。

 私は、陽愛の親友、一条めぐになって桃ロキの世界に入り込んでしまう夢を見ていた。


 夢?本当に夢?


 夢にしては妙にリアルで、長く感じる。もしかしたら、これは夢ではなくて、私自身現実に起こっていることなのかもしれない。


 でも、夢ってそういうものじゃないか?夢を見ている時は、どんなにあり得ない状況も、ありえると信じ込んでしまう、そんな儚いものなのだから。


 私の中で相反する考えがぶつかり合う。冷や汗が止まらない。


「あら、清水さん、大丈夫?顔が青いけれど…。やっぱり、本調子じゃないのね…。1限目は大事をとって、お休みしなさい」


 白衣の女性は優しく微笑み、私に横たわるように指示し、またカーテンの外へと出ていった。

 また、私とベッドだけが、切り離された。



 それからの時間は長いものだった。カーテン越しに聞こえる、先程の女性が動いているであろう音。時折、人が入ってくる気配と、ぼやけて聞こえる若い人たちの声が室内に響く。そして、突然現れる静寂に、秒針の音。


 寝れない。寝て起きたら、目が覚めるかも、なんて考えたが、頭が冴え切ってしまって、上手く寝ることができない。

 私は白い天井を見つめながら、少しだけ、頭の中で状況を整理することにした。



 私が今いるこの場所は、おそらく『桃ロキ』の世界。


 『桃ロキ』の主人公は、洲浜 陽愛。お金持ちが通う中高一貫校『ソフィーリア学院』の生徒で、心優しく美しい少女。欠点などどこにもなさそうな彼女だが、彼女は、男性がなによりも嫌いだった。


 彼女の父親がどうしようもない女タラシで、自分の母親のことも自分のこともほったらかしで、女にうつつを抜かすような人間だったからだ。

 陽愛の母は、陽愛の父のせいで精神を病み、塞ぎ込むようになってしまった。それからというもの、陽愛は、男の人に苦手意識を持つようになってしまったのだ。

 陽愛の母と父は離婚したのだが、父親はかなりの資産家で、離婚してからも養育費と生活費の面倒はずっと見ているという。だから、このお金持ちしか通えない『ソフィーリア学院』に通えてるというわけだ。

 彼女自身は、クズのような父親に面倒を見てもらうなんて嫌だと思っていたが、母は精神を病み、彼女が未成年であることもあって、父親に頼ることしかできないことを歯痒く思っていた。


 以上が『桃ロキ』の主人公、洲浜陽愛の抱える背景だ。


 そして、おそらく、私が乗り移ってしまったであろう少女、一条 めぐは、『桃ロキ』の主人公の中学部の時からの親友で、京都にある茶道の家元、一条家の1人娘だ。

 お淑やかで気品があり、主人公のことを優しく見守りつつ、時には厳しいことを言い、アドバイスしたりする、恋愛に否定的な主人公を支える存在である少女。

 めぐには許嫁(いいなづけ)がいて、そのめぐの彼もまた『桃ロキ』の攻略対象である。

 許嫁とめぐの間には、愛なんてものはなく、家元を守るための政略結婚であったため、めぐは主人公の陽愛が許嫁といい感じだと知るや否や、全力で2人を応援する。

 めぐは、政略結婚を承諾する代わりに、また、政略結婚相手が東京にある『ソフィーリア学院』に進学していることを理由として話し、この学院の寮制度を利用して入学することを許してもらったそうだ。


 ふぅ、と小さくため息を吐く。こんなこと整理しても、今のこの現状が変わるわけではない。

 夢だろうが、現実だろうが、今ここに「私」がいることには変わりはない。

 一向に夢からは覚める気配がないし、現実だとしても、ここから出る方法を探さなくてはいけない。


 そういえば、あの砂嵐のアイコンのゲームの説明に「ゲームをクリア、または、ゲームオーバーでゲームが終了する」と書いてあった。つまり、もし、今起きている現象が万が一にも現実だった場合、ゲームをクリアしなければならないのだ。


 でもゲームをクリアするというのは、この場合どういうことだろう?


 もし、私が、主人公の洲浜陽愛になれていれば、話は簡単で、私が誰かと結ばれれば良い。だけれど、私がなったのは主人公ではなく、主人公の親友だ。親友として、私が誰かと結ばれたらゲームクリアなのか、それとも、私が親友として、陽愛と誰かを結ばせたからゲームクリアなのか、どちらのことを指しているのかわからない。


 「二つ達成したいことがあるなら、一つを諦めるのではなく、両方得られるようにすればいい」、上司の二階堂さんがたまに言っていたことだ。その時は、心の中で、「二兎を追う者は一兎をも得ずでしょ」なんて反発したこともあったが、今回の場合、両方達成できるように目指した方がいいだろう。


 そこまで考えて、少しだけおかしくなる。混乱しているはずなのに、どこか自分自身が達観していて、冷静でいられることに対して、変なの、と思う。

 夢だからなのかもしれないし、憧れの『桃ロキ』の世界に入れたからかもしれない。理由はわからないけれど、今の状況をなんとかしよう、と思う気概が今の私にはある。

 いつも、なんとなく生きて、なんとなく決めて、自分の意思ではなく、流れに合わせて生きてきた私なのに、現状を打破しようとしているその姿勢がなんだかおかしい。


 現実に戻ったって、ただ辛い日々だけれど、いつまでも、このわけのわからない夢の中にいるわけにはいかないもんね、と心の中で苦笑する。



 そして、授業の終了を告げるであろうチャイムが室内に響き渡った。

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