第2章 1話 ようこそ、桃ロキの世界へ



 落ちる。落ちる。どんどん落ちる。


 暗闇に吸い込まれていくように。暗闇に溶け込むように。


 自分と世界が一体化していく。落ちているのか、それとも、浮かんでいるのか。


 自分と世界の境界線がぼんやりとして曖昧になる。


 落ちる。落ちる。自分の意識下に。世界の中心に。ただ、落ちるだけ。


 心地の良い空間。私しかいない空間。世界に身を委ねるだけ。暗くて、怖くて、暖かい。




 急にぐわり、と世界が揺れる。いや、揺れたのは私の頭だ。

 そう気がついた途端、目の前が眩しくなる。暗い空間を突然、光が覆う。私は鳥の囀りを聞き、春の柔らかい草木の匂いと、暖かさの中の肌寒さを感じた。


「柚葉、おはよう!」


 唐突に名前を呼ばれ、意識が現実にゆっくりと戻る。そうだ、私は清水柚葉。都内のOL。


「え、あっ…、おはよう…ございます…?」


 反射的に返事をする。目が光に慣れず、前がよく見えない。ふんわりと柔らかそうな女の子のシルエットだけがぼやけて見える。


「もう卒業式も間近だっていうのに、まだ肌寒いね。3月ってこんなもんなのかもしれないけど、卒業式に桜、咲いて欲しかったな」


 春の木漏れ日のような柔らかく優しい声。聴いてる者を優しく抱きしめてくれるような包容力のある声。どこか懐かしくも暖かい声に安心感を覚える。


 少しずつ、視界が晴れてくる。先ほどとは打って変わって、輝かしく明るい世界。私の横を、制服を着た生徒のような人たちが、愉快におしゃべりしながら通り抜け、青い空からはこれでもかと、まばゆい光が降り注いでいる。


 私の目の前にいる声の美しい栗色の髪をした少女も制服に身を包み、私に微笑みを向けている。


 ピンク色のブレザーに丸襟にフリルがあしらわれている白いブラウス。スカートはハイウェストで履くタイプのもので、こちらも裾にレースがあしらわれている。そして、極め付けは、制服の可愛さを引き立てるように添えてあるブラウンのリボン。アニメに出てくるようなデザインの制服。現代の人が着ていたら、まず間違いなくコスプレを疑われる制服。


 すべてが目の前の彼女を引き立てるためにこしらえたもののようだ。いや、「ようだ」ではなく、確実に、目の前の彼女を引き立てるためにデザインされたものであろう。なぜなら、目の前にいる彼女は、『桃ロキ』の主人公、州浜 陽愛(すはま ひより)であり、この可愛らしい制服は『桃ロキ』の舞台でいるソフィーリア学院の制服だからだ。


「ひ、ひより、ちゃ…ん…?」


「え、柚葉、どうしたの?ひよりちゃん、なんてよそよそしい…」


 目の前の主人公は、首を小さく傾げながら、私の名前を呼んでいる。状況が把握できない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。ふと自分の手元が目に入る。服の袖が、ピンク色だ。慌てて服を確認してみる。私も、主人公と同じ制服を身を包んでいるようだ。


 私の横を通り過ぎる女子生徒も、目の前にいる彼女も、そして、私も、この制服を着ている。どうして?どういうこと?


「ゆ、ず、は!」


 まだ幼さを残す整った顔が、私の顔を覗き込み、瞳を揺らす。コバルトグリーンターコイズの瞳が美しい。このまま見つめられたら、吸い込まれてしまいそうだ。そんな彼女を見つめていることが憚れ、思わず、一歩後ろへと身じろぐ。


「柚葉、本当に大丈夫?さっきから変だけど…」


 全く身に覚えはないけれど、どうやら、私と主人公の関係は親しい間柄らしい。


「あ、ううん。ごめん、少しお手洗いに寄りたくて」


 状況がうまく把握できず、流れに身を任せ、当たり障りのない理由を言ってしまったが、そういえば、ここはどこなのだろう。


 目の前にいる主人公に怪しまれないよう、そっと辺りを見渡す。どうやらここは校門の前のようだ。学校銘板には「ソフィーリア学院 中等部」と書かれている。やはり、ここは『桃ロキ』の世界のソフィーリア学院なんだ。だけど、おかしい。『桃ロキ』は主人公が高校生になったところから始まる。なのに、中等部と記されている。そういえば、さっき陽愛は卒業がどうの、って言ってたような。


 どこかぼんやりしている頭をフル回転させる。混乱してるはずなのに、どうしてか冷静に状況を分析している自分がいて、少し可笑しい。自分のことなのに、まるで他人のことのように感じる。


 そうだ、これは夢なのだ。ずっと私が見たいと望んでいた明晰夢。だから、この状況をあまり驚かずに、受け入れ、分析することができているんだ。


「あ、そうだったんだ…。ごめんね、待たせちゃって…。一緒にお手洗い行こ!」

 

 可愛らしい彼女はそういうと、私にとびっきり優しい笑顔を向け、私に左手を差し出した。



 友達と手を繋いで学校に登校するなんて何年ぶりだろう。きっと眠る前、咲子のことを思い出したから、こんな夢を見ているのだろう。でも、せっかくなら、私が主人公になりたかったな、なんて思ってしまう。


 トイレに向かうまでの道、様々な女子生徒に「ごきげんよう」という挨拶を投げられた。そういえば、ソフィーリア学院は、日本屈指のお金持ちが集う学校って設定なんだっけ。校門から校舎まで行くのに、噴水のあるレンガ造りの中庭を通らなければいけないという始末だ。


 私の右手を引っ張って歩く陽愛は、楽しそうに言葉をさえずっている。まぶしいな、と思う。それは目の前の彼女の容姿がいいからなのか、主人公だからなのか、わからないけれど、眩しいと思う。


 お手洗いは、下駄箱をまっすぐいくと突き当たりにあった。下駄箱はこげ茶の古ぼけた歴史を感じさせるものだったのに対して、校内は厳かで、いかにもお金持ち学校といったような出立ちで、少し気後れしてしまう。


 トイレの中に入ると、ライトブラウンに覆われ、シックで落ち着きのある高級感あふれるものだった。入り口には観葉植物が飾られており、手洗い場には百合の花が飾られ、ハンドドライヤーまで添えられている。おしゃれだ。


 トイレに入り、陽愛もトイレに入ったのを確認すると、私は急いでトイレから出た。そっと、手洗い場にあるお洒落で細長い鏡を覗く。


 アッシュグレーで癖のないサラサラロングヘアにアメジスト色の瞳。薄く小さな唇を持つ儚くも芯の強さも見える美しい少女。私は目の前の鏡に写る少女を知っている。


 彼女は、一条 めぐ。『桃ロキ』の登場人物で、主人公、陽愛の大親友。


 自覚した瞬間、再び世界が揺れる。ひどい耳鳴りにひどい目眩。そういえば、この感覚、知っている。なんで知ってるんだっけ。

 急に目の前が暗くなるのと同時に、ぼんやりとしたどんどん頭が冴えていくのを感じる。


 そうだ。そうだった。私は「ゲームの世界の中に入れるゲーム」とかいう胡散臭いゲームを起動した後、『桃ロキ』を起動し、まばゆい光に包まれて闇深くへと、沈んでいったんだ。


 今、いるのは現実?あの体験を含めて夢?ゲームの世界へ入れるって本当だったの?


 ぐわん、ぐわんと思考も頭も世界も揺れる。堰き止めてられていた思考が一気に流れ込む。


 夢だと思い込んでいたけれど、もしこれが夢でなかったら?そもそもゲームの世界に入るって私が主人公になるんじゃないの?なんで主人公の親友ちゃんなの?これは夢なの?現実なの?現実だとしたら、どう受け止めたらいいの?


 疑問が回る。混乱が押し寄せる。


「ゆ…ず…!……ず…は……!ゆず……は…!」


 どこか遠くから、私の名前を必死に呼ぶ声がほのかな霞んで聞こえる。それと同時に、私はまた意識を手放したのだった。

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