彼だけ惚れてくれません!

佐倉 るる

第1章 始まりの夜



 いつか、かっこいい王子様が―――


 そんなことを思っていたのはいつの頃だろう。


 黒色の髪に青色のメッシュを入れ、黒色の美しい瞳を携えてる彼が、私にだけ特別な笑顔を向けて、私に向かって手を差し伸べてる。とびっきりかっこよくて、とびっきり優しい笑顔だ。彼の笑顔を私は知っている。


 あぁ、白馬の王子様。


 太陽を十分に浴びて、ふわふわを取り戻した布団のように柔らかい空間。彼の周りには、ダイヤモンドダストのようなものが煌めき、彼の美しさをより際立たせている。彼の髪がサラリと揺れる。


「この手を取って」


 彼の桜色の美しい唇が動く。声は聞こえないけれど、彼がそう言ったのがわかる。ああ、居心地がいい。この空間にずっといられたらいいのに。その手に触れたい。


 でも、彼の手には触れられない。私はその手を取ることはできない。だって、私はその手を取るのに相応しい人間ではないから。

 わかっていた。わかっているのに手を伸ばしてしまう。ああ、崩れてしまう。この世界が、この居心地の良い柔らかい世界が終わってしまう。足元から崩れ落ちる。体がふわっと宙へ浮く。


 それと同時に体に大きな衝撃が走った。痛い。痛い痛い痛い。痛みに耐えられず目を開ける。ベッドから落ちたのだと気づくのにそう時間はかからなかった。


「はぁ…最悪だ」


 誰に言うでもなく小さくつぶやく。枕元にあるであろうスマホを手探りで探し、ディスプレイを覗き込む。ディスプレイに映る時間は午前5時27分。中途半端な時間だ。とても良い夢を見ていたような気がしたのに、気分が晴れないのはベッドから落ちたせいだろうか、それとも、スマホに上司の名前が表示されていたせいだろうか。


「はぁ…」


 私は重くぼんやりとした体をなんとか持ち上げ、ベッドに横になる。体も重いが瞼も重い。目を閉じると、昨日の嫌な光景が目の前でぐるぐると回る。




 梅雨の始まりを告げるかのように、昨日は大雨が降っていた。いつもカバンに忍ばせている折り畳み傘をさし、私は上機嫌で会社に向かっていた。

 ショーウィンドウに映る自分を見てはにっこり微笑んでみる。歩くたびに揺れるポニーテールでさえ、愛おしく思う。

 今日はすごく化粧とヘアセットが上手くいった。

 ただそれだけ。だけどそれらは、私を元気にさせるには十分なほどの力があって、ジメっと体に張り付くような空気ですら、今の私には味方につけてしまうだけの自信があった。今の私は最強のような気がして、どんな敵でもかかってこいと心の中で意気揚々と叫んでいた。

 だけど、私は知らなかったんだ。最強と思い込んだこの感情がいかに脆くて、簡単に萎えてしまうものであるなんて。


「清水さん」


 会社に着いてすぐ名前を呼ばれる。私の上司の二階堂さんだ。


「はい」


「着いて早々悪いけど、この書類まとめておいてもらえる?急ぎじゃないから、とりあえず、今日の貴方の仕事がひと段落したらでいいから」


「わかりました」


 そう私が答えると二階堂さんは満足そうに、他の人たちにも指示を出し始める。


 私の勤める満福堂商事は歴史のあるそこそこ大きい食品メーカーで、私はそこの商品開発部に所属している。二階堂さんの仕事の出来は目を見張るものらしく、まだ男尊女卑根強く残っている満福で、女性にしては異例の早さで昇進しているらしい。


 あまり昇進とかに興味がない私でも、二階堂さんはかっこいいな、と思う。自分を持っていて、目標に一生懸命で、言動も合理的で隙がなく、自分の信念を貫いて突き進める人間。二階堂さんのような強さを持てたらどんなにいいだろう、と思う。


 ふう、と軽く息を吐き、自分の机に積まれた書類やメモを軽く整理し、パソコンの電源を入れる。いつもは仕事なんてしたくないし、早く帰りたい気持ちでいっぱいなのに、今日はとにかく気分が上がっていた。どんな面倒な仕事もばっちこいだ。


 だから、自分なりに早く自分の仕事を片付けられたと思う。お昼前には、今日の分の仕事を2/3ほど終わらせることができたし、これなら二階堂さんからパスされた仕事もうまくできそうだと高揚していた。


「清水さん」


 お昼休みに入ると、朝と同じ声色で二階堂さんに声をかけられる。


「今朝頼んだ書類の整理、やっておいてくれたかしら?」


「あ、ちょうどお昼休み終わったらやり始めようと思って」


「ちょっと、まだやってくれてなかったの?」


 声色が一段階低くなった。なのに、少し大きな声。二階堂さんの眉間に皺が寄り、腕を組む。威嚇のポーズだ。


 周りの体温が一気に冷め、先ほどまであったオフィスのざわつきも遠くに感じる。さっきまでの高揚感は嘘みたいに萎んでいき、心臓の音がやけに大きく聞こえ始める。私は、この感覚知っている。今から責められるのだと自覚した時にはもう遅い。私は蛇に睨まれた小動物のように動けなくなっていた。異様に喉が渇く。


「あ、で、でも、急ぎじゃないとおっしゃっていたので」


 声がうまく出ない。すんでのところで絡まり、吃ったような掠れた声になってしまう。盛大なため息が聞こえる。


「急ぎじゃないって言ったって上司に頼まれたものは一番にやるべきでしょう?そんなこと社会人として常識でしょう?」


 ―――社会人としての常識でしょう?


 頭の中で復唱する。そんな常識初めて知った。だって、私の仕事がひと段落してからでいいって、言ったじゃないか。私はあなたの指示に従っていただけなのに。


 内心で毒づく。だけど、その言葉どれもが言葉にならない。喉の奥につっかえて、声を発することができない。


「はぁ…、無言なわけね。貴方いつまで学生気分なの。もうここで働いて3年よね?もう少し社会人としての自覚を持ったらどうかしら?」


 ずぶり。足が床に沈んでいく感覚に陥る。オフィスのひんやりとした白色のタイルが底無し沼になったかのようだ。ダメだダメだ、何か言わなければ、このまま足を絡め取られて何もできなくなってしまう。


 穏便に済ませるために、謝らなきゃいけないのに、「申し訳ございません」すら、喉の奥に突っかかって言葉にならない。静かに私は二階堂さんの瞳を見つめる。キレ長な目によく似合う漆黒の瞳だ。白と黒のコントラストが美しい。


「だいたい貴方、仕事やる気あるの?いつも出社時間ギリギリに来て、退社時間になるとすぐ帰るわよね?貴方の先輩も貴方の部下も貴方よりも早くに来て遅くに帰ってるっていうのに。仕事、やる気あるの?」

 

 二階堂さんに言われて考える。仕事のやる気があるかないかで言われれば、多分ない。だけど、毎日、私は私なりによく頑張っている。

 そりゃ、二階堂さんに比べられたら私は出来ていないのかもしれない。だけど、私なりに毎日精一杯やっているのだ。出社時間ギリギリなのも、退社時刻に帰るのも、もう私の分の仕事は終わっているからなのに。業務は全て終わらせているのに。


 二階堂さんは私の言葉を待たずに続ける。


「机の上も汚いし、ちょっとした書類のミスも多いし、貴方たるんでいるのよ。甘やかされて育ってきたのね。ちょっとはその甘えた根性叩き直しなさい!」


 思い出したかのように私の欠点を責め続ける。こういうタイプの人間はいつもそうだ。私が反論しないことをいいことに私をサンドバッグにする。でも仕方ないのだ。私が無言でいるから。無言でいるということは、相手の都合の良いように解釈されるってことだから。


 思考は冷静だ。冷静なのに、声が出ない。声にならない心の叫びがずんずん沈んでいく。目頭が熱い。足元が重い。本当は叫んでやりたい。私だって一生懸命やっていると、私だってそれなりに苦労して生きてきたんだ、と。


 だけど、言葉にできない。思いを乗せた声は喉を通らず、底無し沼に沈んでいく。そして、どす黒いなんとも形容し難い感情だけが私の心に纏わりつく。


 少しの間の沈黙。静かな室内に雨の音がくぐもって響く。どうして誰かが叱られてる時って誰も喋らないんだろう。やっぱり気まずいからなのかな。


 数秒の沈黙を破ったのは二階堂さんだった。


「その生意気な目は何?何か言いたいことがあるなら、ちゃんと言いなさい」


 二階堂さんが顎を、クイッとあげる。威嚇のポーズ。人は人を非難する時、随所で威嚇のポーズをする。自分を大きく見せるためだろうか。


 言葉にしなくちゃ。


 ずっと見つめ続けていた瞳から目を逸らす。瞳を見つめたままだったら、きっと何も言えないから。


「……わたしだって、一生懸命、やってます。早く、帰るのは、もう仕事が終わってるからで、それで、えっと…。机の上が汚いのは…、それは、申し訳なく思っていて…ごめんなさい…」


 うまく言葉を紡げない上に、後半に行けば行くほど声は小さくなる。これでは相手の気持ちを逆撫でするだけだってわかっているのに、喉がひどく渇き、喉の奥の熱で、やはり、うまく言葉にできない。


「一生懸命やってるならもっと堂々とできるはずでしょう?そんなに声が震えるってことは、思い当たる節があるからでしょう?仕事だって、自分の分だけ仕事をしていればいいわけじゃないのよ?自分で探して自分で掴み取るの。本当に清水さんは―――」


 もうやめて!私だって私だって私だって―――


 思わず拳を握る。手のひらに爪が食い込み痛い。言葉にならない想い達が体の中で反響し合い、私を内側から攻撃する。痛い、苦しい、息がうまくできない。外側からの攻撃と内側からの攻撃に耐えられず、目のまわりがカァッと熱くなる。


 やめて、泣かないで。


 意識を目元に集中させ、自分自身に訴えかける。思考とは裏腹に、自分の胸に抑えきれなかった怒りや辛さややるせなさが感情が涙となって一気に溢れ出る。一度溢れ出たものは止められない。涙はもう止まらない。


「泣いたら許されると思っているの?」


 聞き飽きたセリフだった。そんなセリフは高校の時も、中学の時も、小学校の時でさえも聞いた。泣いたら許されるなんて思ってない。私だって泣きたくなんてない。でも決壊したダムのように溢れ出てしまうんだ。


 これ以上、涙が溢れないように、俯き無言を貫いていると、また大きなため息が聞こえた。


「はぁ、もういいわ。お昼休みの間に頭冷やしてきなさい。お昼休みが終わったらすぐ私の頼んだ書類の整理すること、いいわね?」


 肩にポンと二階堂さんの手が置かれる。手は一瞬で離されたはずなのに、服越しに伝わったその感触が妙に残って気持ち悪い。


 静かだったオフィスがぽつりぽつりと騒がしくなり、いつものお昼休みの彩りに戻る。


 私一人がその場に取り残され、ぼんやりと立ち尽くしていた。




 静かな室内に秒針の音だけが響いている。一人暮らしする際、「あんた、朝弱いからね。目覚まし時計、買っといたから」と母親が私に買ってくれた茶色を基調とした目覚まし時計だ。


 瞼を閉じていると余計なことばかり考えてしまう。昨日の嫌な出来事が鮮明に思い出されて、うまく寝れない。このまま寝たら、悪い夢を見てしまいそうで少し怖い。


 どんな敵もかかってこいって思ってたのに、カッコ悪いな、私。きっと、私が神様を挑発したから、神様が上司というとんでもない敵を送り込んだんだ。


 ゆっくりと瞼を開け、枕元にあったスマホの電源をつける。


『二階堂:明日は、早く出社すること』


 通知にあるメッセージをもう一度確認し、再びスマホを枕元に放り投げ、天井を見る。


 仕事辞めたいな、と思う。だけど、すかさずもう一人の私が出てきて、私自身に問いかける。


 ―――でも、仕事を辞めてどうするの?


 ―――また、あの辛い就活をまたするの?


 悪い会社ではない。仕事もすごく大変なわけではないし、休日もしっかりとある会社だ。どちらかというと、ホワイト企業に属するだろう。それに、容姿も、学歴も、何もかも普通な田舎者の私を拾ってくれた会社には感謝しているし、宮城から東京へと送り出してくれた田舎の両親にも心配をかけたくない。


 私は色々理由をつけて、3年間、これといった目標もなくダラダラと仕事を続けてきた。結局、私は、不満を溜め込みながらも、辞める勇気はなく、現在の生活という安穏を手放せないでいるずるい奴なのだ。


 ごろり、と寝返りを打つ。見慣れた部屋が情報として、目に映り込む。

 ワンルームで、狭い中に、私の好きなものが盛り沢山に詰め込まれた部屋。女の子らしい丸みを帯びたエレガントな白い小さめの洋服ダンスに、白い猫足ティーテーブル、可愛らしい卓上ランプに、パステルカラーのクッションが乱雑に置かれた白いソファー。ピンク色をしたリボンと薔薇の絵が描かれている絨毯の上には、最近凝り始めたお高い化粧品とヘアセットの道具が転がっている。お世辞にも綺麗と言えるような部屋ではないけれど、自分の好きなもので囲まれているこの空間は、嫌いじゃない。


 部屋を一瞥し、もう一度目を閉じる。二階堂さんの顔が目の裏に映る。そして、惨めな私の姿。私は、再び思考の渦に捉えられそうになったところで、慌てて目を開けた。悪い考えに飲み込まれるところだった。身体中からじんわりと汗が滲んでいる。湿気を含んだ空気が体にまとわりつき、少し気持ち悪い。昨日の朝、湿気は味方だったはずなのに、今はもう立派な敵だ。


 今日はもうこのまま起きてしまおう、とゆっくりと起き上がる。出社時間まで時間を潰さないといけないのだけれど、どうもスマホは見る気になれなかった。画面を開いたとき、どうしても二階堂さんのメッセージが目につくから。本でも読もうかと思ったが、つい先週、断捨離をしたときに、全てフリマサイトで売ってしまったことを思い出す。


 何か一つくらい残しておけばよかった。一度やると強く決めたら、中途半端にできないのが、私の悪いところだ。


 何か時間を潰せるものはないかと、ゆっくりと部屋を見渡す。


 その時、私は、ふと、しばらくやっていなかったゲームの存在を思い出し、ゆっくりと立ち上がる。部屋の電気をつけ、タンスの上に置きっぱなしにされていた携帯ゲーム機と、ケースを包むビニール袋すら開けていないゲームソフトを手に取った。パッケージには、栗色の髪のカッコいい男の子と栗色の髪の可愛らしい女の子が、優しい微笑みを浮かべながら手を合わせている様子が描かれている。


 『桃花ソリロキー』、略して『桃ロキ』は、私が中学生の頃、ハマっていた乙女ゲームだ。リマスター版が先週発売されたため、懐かしさのあまり衝動買いしてしまったものの、自分の中での優先度が低く、今日に至るまで触れてこなかった。


 『桃ロキ』を見ていると、かつて、同じクラスで大親友だった咲子のことを思い出す。当時の咲子曰く、近年稀に見る良作なのだそうだ。


「柚葉!」


 ざわついた教室の中に一つだけくっきり輪郭を持った声が耳に届く。中学2年の秋頃、お昼休みに何をするでもなく、机に突っ伏していた私の名前を、咲子は大きな声で呼びながら、興奮気味に私の机の前に訪れた。


 私はゆっくりと顔を持ち上げる。


「柚葉、聞いて!ねぇ聞いて!まじで面白い乙女ゲーム発売されたんだけど、絶対柚葉にやってほしいの!」


「いきなり何かと思ったよ。んー、でもごめん。私、男に口説かれるゲームとか苦手なんだよね…」


「ふふふ、このゲームをそんじょそこら乙女ゲームと同じに考えないでよね」


 咲子は、チッチッチと指をわざとらしく左右に振る。


「何が違うの?」


「とにかく、ストーリー性がやばいんだよね。ここ最近の乙女ゲームってさ、ただひたすらにイケメンに口説かれる〜、みたいなのが多かったんだけど、この乙女ゲームは、どのルートも青春ラブストーリーの映画を見ているみたいなの。主人公ちゃんもただ守られるだけじゃなくて、自分の強い意志を持って行動している、っていうのもこの作品のポイントかな!私はこの作品が乙女ゲームの転換期になるんじゃないかな、って睨んでるんだよね」


 咲子は、魅力を余すことなく伝えたいからか、途中で言葉を挟ませる隙もないほどの早口で、『桃ロキ』の素晴らしさを説く。


「ふーん、そうなんだ。でもなぁ、別に私はラブストーリーにもそんなに興味ないし…」


「ラブストーリーに興味がなくても絶対面白いからやって!実はこっそりソフト持ってきてるんだよね」


 咲子はそう言うと、学校指定の野暮ったい紺色のジャンパースカートとブラウスの隙間に手を突っ込み、隠してあったゲームソフトのケースを取り出す。


「ちょっと!なんてところに隠してるの!」


「ずっと隠してたわけじゃないよ?私の机から柚葉の机に来るまでの間だけここに入れてたの。だって先生に見つかるわけにはいかないしさー」


 あっけらかんとしている咲子を見て、つい吹き出す。


「そんなに席離れてないんだから、そんなことしないで素直に持ってきたらいいのに」


「いいのいいの!こういうのって隠して持ってきた方が雰囲気でるでしょ?ちょっと悪いことしてるみたいでさ」


「ま、そうだね」


 そう言って私と咲子は、にやりと笑い合う。私たちは、

 陰キャと呼ばれるような部類で、地味グループに所属していた。別に不良に憧れているわけではないし、ギャルのようになりたいわけでもない。どちらかと言えば、優等生でありたいとさえ思っている。だけれど、世間一般に言われるような、「優等生」という枠にはハマりたくなかった。私たちはただの「優等生」じゃないのだと主張したかった。だから、時折、ルールを破る。私たちを枠にハメたがる世間への小さな抵抗だ。


「とにかく、一章だけでもいいからやってみてよ。つまらなかったら、すぐ返してくれて構わないからさ」


「わかったわかった。咲子がそんなに推すんだもんね。やってみるよ」


「やった!さっすが柚葉!我が同志!」


 お互いの手のひらをパチンと叩き合わせ、軽く握り合い、そのあと拳を突き合わせる。いつもの一連の動作。簡易的なハンドシェイク、アメリカ風の挨拶だ。咲子と一緒に見たアメリカ映画に憧れて、二人で練習したものである。


「ところでさ、柚葉は昨日の『ヒロスマ』見た?」


「見た見た!竜宮寺くん、めっっっちゃかっこよかった。バトルシーンとかまじ激アツ。あんなかっこいい人いないよ、まじで。理想 オブ 理想だね」


「あ〜、わかるわかる。でも、咲的にはやっぱり庄司くん派だな〜」


「庄司くんかぁ、たしかに彼も王道はイケメンって感じだよね。あ、庄司くんって言えばさ、声優のモリモット、またアニメ映画の主役はるらしいよ」


「え、本当に?絶対3回は行きたいのに…。近くに映画館があればなー」


「本当ここ、ど田舎だもんね」


 二人で笑い合う。女の子たちの会話は忙しない。あっちへいったり、こっちへいったり、と言葉はコロコロと転がる。話す内容なんて大抵はどうでもいいことばかりで、中身なんてほとんどない。私たちにとっては、同じモノ、同じ空間を共有しているという感覚がなによりも大切だった。


 その日、私は家に帰ると、カバンもそこら辺に放り投げ、制服のままベッドに座り込み、『桃ロキ』をプレイした。せっかく勧めてくれたのにやらないのは失礼だと思ったからだ。それに、咲子の好きなものは、私も触れておきたかった。


 プレイしてみてわかったことだが、『桃ロキ』は、自分が動かせるものは何もなく、時折、選択肢があるだけの特にゲーム性もないノベルゲームであった。


 だけれど、細部にまで及ぶ緻密なストーリーに、私はどんどんと引き込まれ、母親の「そろそろ夕飯だよ」という声すら、聞こえないほど、夢中でプレイしていた。

 他作品では「当て馬」とされる人たちと主人公が結ばれることができる、というのが良い。エンディングもいくつか分かれていて、自分の好きなエンディングを「正史」とすることができるのも、乙女ゲームならではだな、と好印象を持った。今まで「乙女ゲーム」というだけで、毛嫌いしていたことを反省する。


 こうして、乙女ゲームにあまり興味のなかった私は、無理矢理咲子に乙女ゲームを押し付けられ、まんまと『桃ロキ』にどハマりしてしまったというわけだ。


 ふふ、懐かしい。当時のことを思い出し、自然と笑みが溢れる。咲子に、会いたいな。


 現在でもSNSで頻繁に連絡を取り合う仲ではあるが、宮城から東京と物理的に距離が離れていることもあって、咲子と会えるのは、私が地元に帰った時だけだ。


 いまだに咲子の乙女ゲーム好きは健在で、「いいなぁ、東京。乙女ゲームのイベントとかさ、大体東京でやるでしょ?私も参加したいんだけどね…手軽にいけないから…。柚葉が羨ましいよ….」なんて愚痴られたりもする。


 私は、ゲーム機を小脇に挟み、パッケージについている透明なビニール袋を取りながら、ゆっくりとベッドに腰掛ける。


 ゲーム機に触れたのは何ヶ月ぶりだろうか。ソフトをゲーム機に入れ、電源を入れる。しばらく放置していたせいで、放電してしまったのか、ゲーム機の充電はほぼない。


 私は、本体を充電しながらプレイすることを決め、床に乱雑に置かれているコードの絡まりをなんとか解き、充電コードを取り出した。

 

 もう一度、ゲームの電源を入れる。ディスプレイには、先ほど入れた『桃ロキ』のアイコンがある。アイコンは横一列で並んでおり、今までプレイしてきた様々なゲームのアイコンが表示されている。


 え、なにこれ。


 今まで見たことのないホラー映画なんかでよく見かけるテレビの砂嵐のようなアイコン。なんだか不吉だ。不吉で怖い。


 アイコンの下には『バーチャルゲーム体験』という文字が書かれている。


 ホラーゲームか何かだろうか?こんなゲームダウンロードしたつもりはない。これ程までに不気味なアイコン、一度見たら忘れるわけないだろう。少し、身震いする。湿気を孕んだ空気がより一層、じめじめして感じる。


 アンインストールした方が良いのかもしれない。だけど、気になる。アンインストールしてはいけないような気がする。


 起動しなければ、大丈夫かな、なんて、そんな安直な考えを持ち、オプション画面でデジタルマニュアルを読み始めた。



『このアプリを起動した後、任意のゲーム始めるとそのゲームをバーチャルで体験することができます。プレイヤーはゲームの世界に存在するキャラとして、行動、会話、探索、戦闘等することができます。


 ただし、本来のゲームのシナリオ通りにゲームが進行するわけではありません。プレイヤーの行動次第で、ゲームにない物語を体験することができるのです。


 ゲームを終了するためには、クリアしないといけません。一時セーブというものは存在しなく、ゲームをクリア、または、ゲームオーバーにならない限り、ゲームを途中で終了することはできません。


 たとえば、RPGであれば、ラスボスを倒すこと、アクションゲームであれば、ストーリーモードをクリアすること、などゲームによって様々な条件があります。


 プレイヤーは各ゲームのルールに則り、動いていくことになるでしょう。


 では、ゲームの世界へ、行ってらっしゃい。良い旅を』



「…なにこれ」


 今度は声に出して呟いた。気持ち悪い。ゲームの世界に入るなんて、そんなことが、あり得るのだろうか。


 カーテンの隙間から、鋭い細い光が部屋に差し込んでいる。起きた時から、ずっと太陽の光がカーテンから漏れていたのに、今になってその光が妙に眩しく思えた。


 朝早く起きてしまったせいで思考が鈍っていたからだろうか、それとも、昨日、上司にめった打ちにされて気が滅入っていたからだろうか、はたまた、咲子とのやりとりを思い出してノスタルジックになってしまったからだろうか。


 いつもの私なら、絶対そんな好奇心は持たないのに、このわけがわからない不気味なゲームを起動して、『桃ロキ』をプレイしてみたい衝動に駆られた。


 もし、『桃ロキ』の世界を体験できるなら、悠斗(はると)くんに会いたい。悠斗くんとおしゃべりしてみたい。


 宮内 悠斗(くない はると)。黒をベースとした髪に青いメッシュを入れている彼は、『桃ロキ』の攻略キャラクターの1人で、私の一番好きなキャラだ。彼は、匂いに敏感で、人の感情や人柄、性格など、その人独特の匂いを嗅ぎ分けることができるという共感覚を持っている。


 基本的に人間は欲深い生き物だからか、彼は常日頃から人間の悪臭に耐えて生きているため、人間嫌いなのだ。その彼の閉ざした心をこじ開けるのが、『桃ロキ』の主人公、州浜 陽愛(すはま ひより)だ。彼が主人公に惹かれていくまでの、心の移り変わりの描写が、とても美しく、私自身、彼に惹かれていったのだ。


 私は、ゲームの主人公を「自分」に見立ててプレイするため、主人公の名前はデフォルト名ではなく、自分の名前でやるのだが、『桃ロキ』は作品としても好きだったため、悠斗くん以外のルートをデフォルト名でも何度か周回のを覚えている。


 私は大きく深呼吸する。彼に、会いたい。『桃ロキ』のシナリオを思い出せば思い出すほど、彼に会いたい気持ちが大きく膨んでいく。一時は彼に本気で恋をしていたのだ、会いたいという気持ちになってしまうのは仕方がない、なんて自分で自分に言い訳しながら、ゲーム画面を覗く。


 ちょっとだけなら、大丈夫。

 

 なぜそう思ったかはわからない。理性よりも好奇心が勝つなんてこと今までなかったのに、まるで砂嵐アイコンのゲームに引き寄せられたかように、私はとうとう『バーチャルゲーム体験』と書かれたゲームを起動した。


「…………」


 何も起こらない。画面が一瞬真っ暗になっただけ。真っ暗になったと言っても、画面が真っ暗になるとすぐ明転し、いつも通りのゲームのメニュー画面に戻ったので、ほとんど何も起こっていない。


 このあと、バーチャル体験したいゲームを起動したらいいんだよね。


 もう一度、深呼吸をする。


「よしっ」


 私は覚悟を決めて、『桃ロキ』を起動させた―――が、やはり何も起きない。


 出てきた画面は、ゲーム会社のロゴ、次に、著作権違法をしないようにという注意喚起の文字、そして、ゲームのメニューが表示されただけであった。


「はぁーなんだ……何も起きないじゃん…期待してたのにな」


 はは、と乾いた笑いが出る。そりゃそうだ、ゲームの世界になんて入れるわけがない。どうして期待なんてしてしまったんだろう。やはり、色々なことで頭がぼんやりしているのかもしれない。朝の新鮮な空気を浴びている鳥たちが、私を見て笑うかのように朗らかにさえずっている。今日は雨が降っていないみたいだ。


 スマホを手に取り、時刻を確認すると6時12分だった。まだ出社までは時間がある。このまま、『桃ロキ』をプレイして出社しよう。


 そうして、私は「NEW GAME」を押すと、すぐさまゲーム画面は名前入力画面に移動した。


「清水 柚葉…っと」


 乙女ゲームはすごい。きちんと名前を漢字入力することができるのだから。後ろでポップで軽快な曲が流れている。懐かしいメロディ。中学生の頃、よく耳にしていたBGM。胸が少しだけズキンと痛む。


 耳は思い出を記憶している。そのメロディーを耳にしたときに感じた想いも、音も、匂いも、雰囲気も、全て記憶している。軽快なメロディなのに少しだけ切ない。

 もう、全て過ぎてしまったことなのだ。中学生の頃も、昨日のことも。戻りたいと思っても戻れない。


 また、ゲームで悠斗くんに会える。あの時と寸分も違わないであろう悠斗くん。それとは反対に歳だけを重ねてしまった私。そんな私に彼はどんな笑顔を向けてくれるだろうか。

 

 私は胸に手を置き、胸の高鳴りを抑え、息を吐く。私は、さまざまな思いを抱き、優しく名前を決定するボタンを押した。



 その瞬間、眩い光がゲーム画面から溢れ出る。赤、黄色、オレンジ、緑、青、さまざまな色の光がゲーム画面の上で燻っている。こんな現象、今まで起こったことがない。光の雫が勢いよく部屋に放たれる。まるで個々の光が生きているみたいだ。部屋中電気をつけたかのように明るくなる。


 私はその光を目で追うことしかできなかった。人はあまりに驚くと、思考が停止し、動けなくなるらしい。


 次第に、その光は部屋を舞うのをやめ、私の体を覆うように、包み込むように、私の周辺へと集まってきた。眩しい、暑い、うまく息ができない。

 その光から出ようともがく。だけど、もがけばもがくほど上手く呼吸することができなくなる。海に溺れたかのように。


 少しずつ周りの雑音が遠くなる。音のない部屋だと思っていたけれど、音は常に私と一緒にあったんだ。意識がぼんやりする。眠りが浅い時の現実と夢が混じった時の感覚に似ている気がする。


 私、死ぬのかな。


 そう直感した。死ぬのなら、楽に死にたい。もがいて苦しくなるのなら、抗うことをやめよう。


 私は、ぼんやりとした意識の中で、静かに瞼を閉じた。



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