性癖と国家

 人間というものは、本質的に闘争が好きな生き物らしい。


 それは前世と現世、2つのまるで違う世界の歴史を学んだ私が持った率直な感想だ。


 2つの世界は地球の歩み、人類の歴史から文化まで全て異なるというのに、人という生き物はどちらも同じように争いを続けている。 


 何から何まで違う歴史をとくとくと語ることを私は好まないが、歴史が違えば文化風俗の何もかもが違うというのに、人を殺すための手段においての発展だけは、どちらの世界も共通しているのは面白い。


 棍棒から剣、そして槍や弓矢。更には銃の発明から機関銃への発展。果てには爆弾や毒ガスといった効率的に人を殺す兵器の類の登場。


 人の歴史は争いの歴史とはよく言ったものだが、いかに敵を楽に殺せるかを夢見て考える人種の思考回路は、異世界の壁を超えて共通しているらしい。


 それらの武器を使って楽しませて貰っている身とすれば、そんな彼らを非難するつもりはないが、それにしても人というものはどんな世界であろうと本質的には変わらないものなのだなと、少しだけ呆れてしまうのも無理はない。


 そして武器が発展するということは、それだけ争いが絶えない証左でもある。


 今の私が生まれたソラキア王国もまた、争いの絶えない世界の中に今も生き続けている国家だ。


 果てしない領土拡張競争や、列強諸国による覇権争い、民族独立運動や宗教対立などはどれも争いの火種であり、この世界に存在するどの国家も、これらの問題とは無縁でいられない。


 私の愛する祖国ソラキアは、列強と呼ばれる近代国家の中ではニ番目に規模の大きな国家だ。実り豊かな国土に広い海、地下資源にも恵まれ、多数の植民地も有している。


 国民は王と議会の指導の下で自由に経済活動を行い、例外はあるにせよ豊かに暮らしている。


 国を字面だけで表せばこんな風に記すことができるが、実際のところは近隣諸国による軍事的圧力を常に掛けられ緊張状態であり、国内においても少数民族による反乱や反政府テロが相次いでおり、その他数え切れないほどの火種があちらこちらで燻っている。争いの火種だ。


 争いの火種と聞いてまともな感性の人間は恐怖を感じるか、うんざりするだろう。しかし生憎と私はまともじゃない。


 私のような快楽殺人者にとって、争いとは人を痛めつける事が出来る最高の機会であり、望んでやまないものだ。


 もちろんだが、私はナイフ片手に通りに出て誰彼構わず刺殺して回る輩や、変態行為の一環としての残虐な殺しをする輩とは違う。


 そういう手合いは言ってしまえばただの野蛮人だ。おおよそ理性的とは言えない。理性的とは、デメリットを考えられるかどうかだ。


 人を殺せば罪に問われ、裁かれる。これは文明社会に生き、国家に帰属する人間であるならば、必ず付き纏うものだ。


 一時的な感情や快楽で人を殺してしまえば――厳密に言えば犯行が露呈した場合であるが――必ず何らかの制裁を受ける。それが一定期間の人権の制限か命そのもので贖うかはその時次第ではあるが、いずれにせよ代償を支払うことになるだろう。


 それは何故か。社会が人を殺すことを禁じているからだ。倫理的に殺人が禁忌であるからとか、そのような面倒くさいことを論じるつもりもないが、よく考えてみれば殺人が平然と許される社会など社会として成り立たない。


 私のような快楽殺人者達には生きづらい世界であるが、一般市民、もとい健常者の立場に立ってみれば、殺人の禁止こそが生活を送る上でどれほど大切なことか身に沁みて分かる。


 社会のルールを犯してまで自分の性癖を満たそうとする連中はやはり野蛮人である。後先考えず一時の快楽に身を委ねたいと思うことは理解できなくもないが、僅かながらに常識を持ち合わせる私には、やはり違法なことをしてまで欲求を満たそうなどとは思わない。


 しかし欲求だ。満たされなければ欲求不満となる。もし世の快楽殺人者達が欲求不満の末に罪を犯すというのならば、いずれは私も野蛮人に落ちるのだろうか。


 であるならば、やはり欲求は適度に発散してやらねばならない。しかし殺人は違法なことだ。一度でも人を殺し法を犯せば、末路は容易に想像がつく。


 だが合法な殺人であればどうだろうか。


 殺人は国が禁じているから違法なのだ。だが、時と場合により、国が殺人を認め合法とすることがある。それは国家が殺人を命じた場合だ。


 戦争や反体制派の弾圧、治安維持。


 その他色々あるが、国家というものは表向き暴力や殺人を否定し法律で禁止するが、国家を維持する上では暴力は必要不可欠なものだ。


 国家には必ず暴力装置が必要であり、それは抑止力であり、そして実行力である。


 小難しい安全保障の理論や自衛権の話をするつもりはないが、他国が攻めて来たとき、私達は暴力を否定しされるがままいるべきなのか。殺人を否定し、やってきた何千何万もの敵を全員逮捕するのか。いや、どれも現実的ではない。


 無論戦争であるならば、外交においてそれを回避する方法を政治家や外交官達は模索し努力する必要があるが、敵が攻めて来た時、それを迎え撃つ力が必要となる。


 迎え撃つとはつまり敵を殺すことだ。それは即ち、国が認める合法な殺人だ。


 だから私は戦争が好きなのかもしれない。


 だから私はソラキア王国の騎士団に入団したのだ。


 国家の暴力装置としての愛国的行為は、私の性癖を十分に満たしてくれる。


 騒乱の多いこの世界で、私は騎士となった。

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