第六章 真の終焉に、新たな今日が始まる《二》
紺青が、白い朝に押し上げられる。
夜と朝が交わる空を見上げながら、善次郎は歩いた。
(福徳稲荷に赴くのは、いつもこの時分だ)
偶然かもしれないが、縫殿助に導かれているようにも思う。
初めて会った時に感じた、何とも表しがたい不気味さ。その意味を、善次郎は考えていた。
(あの場から離れられぬ、死霊。源壽院と繋がりがあったのは事実だが)
縫殿助殿の抱える想いは、乗邑とは違う何かだと、善次郎は感じていた。
(その何かが此度の騒動の元凶、なのだろうな)
遠回りして、うき世小路に入る。
足下が、淡い靄に包まれた。靄が福徳稲荷に向かって流れる。
善次郎の後ろを歩く長七が、ぞっとした声を上げた。
「この靄は、何やら不気味でございやすね」
善次郎が感じたのと同じ不気味さを、長七は既に感じ取っている顔つきだ。
「うき世小路は福徳稲荷社の参道らしい。正しい道行きでなければ、本来は会えぬそうだ。縫殿助殿は、儂らを迎える気があるようだな」
淡靄の流れる先に、黒木鳥居が見えてきた。靄に包まれる鳥居を見て、長七が息を飲む。
二人は社の前に並び立った。顔を合わせて頷くと、椚の生木の鳥居を潜る。
総ての音と生気が消えた。隣にいる長七の息遣いが、やけに実を持って感じられる。
目の前に立つ縫殿助が、空を見上げていた。
「怨霊も、ようやく逝きましたか。長いようで短い恨みでございましたね」
その声は、善次郎に向けたのではなく、乗邑に語り掛けているように聞こえた。
「兄上様とは、お話しできましたか。彼の怨霊と共に逝かれたのでしょう。お別れは、告げられましたか」
縫殿助が、善次郎を振り返る。
しばし黙した後、縫殿助の問いには答えず、話を始めた。
「約束通り、鏝絵職人を連れて参った。長七という、儂の知人だ。獅子像の修復をさせてもらって良いか?」
縫殿助が、嬉しそうに頷いた。
「勿論でございます。善次郎様と御友人の御心遣いに感謝致します」
縫殿助が、深々と頭を下げる。
善次郎は長七に眼を向けた。
長七が頷き、道具を広げる。阿の口が裂けた獅子と向き合った。
気を澄まし、仕事に入った長七の気這いを感じ取り、善次郎が眼の先を戻す。
縫殿助が、相好を崩さず、二人を眺めていた。
「解き放たれた御霊は社の上で、獅子の本復を心待ちにしております。この場所に戻れる今に、感謝しておるようです。総て、善次郎様の御尽力の賜物でございます。何とお礼を申し上げたらよいか」
「礼は、総てを終えてから貰うとしよう。儂にはまだ成すべき仕事がある。黄泉に送らねばならぬ死霊が、もう一人、残っておる」
縫殿助の顔から、笑みが消えた。
「初めて儂がこの場所に参った時、縫殿助殿は獅子の御霊を救ってほしいと懇願したな。あの願いが嘘ではないと、今でも思うておる。だが其方は儂に、知る事実の総てを話さなかった。縫殿助殿は怨霊の正体が源壽院であると、知っておったのだろう」
善次郎を見詰める縫殿助が、口を引き結ぶ。
しばし黙した後、小さく、息を吐いた。善次郎から顔を逸らすと、白い空を見上げた。
「怨霊の名は、本当に存じませんでした。誰であろうと良かったのです。現に執着するほどの強い念を纏った怨霊であれば、どんなものでも構わなかった。尤も、私があれに獅子を与えたのは、生霊の時分でありましたが」
善次郎は、唇を噛んだ。
「やはり獅子は奪われたのではなく、縫殿助殿が宛がったのだな」
にこりと微笑んで、縫殿助が迷いなく頷いた。
「あまりに自分と似た魂でありました故、憐れに思いました。獅子にとっては迷惑千万だったでしょうな。その時から、狛犬の涙が止まらなくなりました。善次郎様がここに来てくださった時は、救われた思いでございました」
「源壽院が獅子の御霊を離さなかったからか? だから儂に、獅子の御霊を救ってくれと、願ったのか」
口元を隠し、縫殿助が、くくっと、押し殺すように笑う。
「私が獅子の御霊を救ってくれと、いつお願いしましたか? 私は斯様な願いを、一度も口にしておりませぬ。貴方様は確かに、そのように仰っておりましたがね」
顔が強張ったのが、自分でもわかった。
縫殿助は、変わらぬ柔らかな笑みで、話を続けた。
「願わくば、あのまま大きな社の獅子を壊し続け神力を削げば良いと、思うておりました。御公儀に守られ、あれほどの広い敷地を与えられた神社の総てを壊せば良い、と。怨霊の祟りも武州の神力が弱るのも、人にとり都合の悪い事情でしかない。死霊である私には、関りなどございませぬ故」
縫殿助の肩から、もわりと、黒く澱んだ気が浮き出した。
作業をしていた長七が手を止め、ぎょっと、目を剥く。
「長七、手を止めるな。急ぎ、獅子像を修復してくれ。こちらは気に留めるな。儂が守る」
昏惑しながらも頷いて、長七が作業に戻る。
(あれが、不気味さの正体か。源壽院の恨みや銷魂とは、違う。もっと湿深く根深い執念が膠着しておる)
ごくりと、唾を飲み込む。いつでも刀を抜けるよう、鯉口を切る。
縫殿助の目が俯き、影を帯びた。
「怨霊とは、恨みの塊。死霊は、想いや使命の塊。それを枷と申すのでしょうな。どちらも実に、愚かしい」
掠れた声で、縫殿助が呟く。その寂しそうな目の先は、何も見ていない。自分に発した言葉のようだった。
一瞬、宇八郎の笑顔が浮かんだ。善次郎は改めて喉を締め、刀を握り直す。
縫殿助が、朗らかに微笑んだ。
「福徳稲荷社は開府より遙か古から、この場所に在る社でございます。辺りには、鎮守の森が広がる霊地でございました。開府後も大権現様と台徳院様には、大いなる芳意を賜りました。大権現様がお隠れになり神君となられた年には、台徳院様から三百三十三坪という吉数に
縫殿助が目を上げる。柔らかな表情に似つかぬ鋭い目が、善次郎を眺める。
「私は、幼少の時分に両親を亡くしましてね。この辺りの町人たちが親代わりとなり、私を養ってくれました。無事に元服し、縫殿助の名を継ぐことが叶った矢先です。町人どもは養育の代償と称して、私から三百坪もの土地を奪った。その後、御公儀にまで二十七坪を街路とされた。鎮守の森は消え去り、この町が出来上がりました」
縫殿助の目が凄味を増す。善次郎は、柄に手を掛けた。
「たったの三坪。残ったのは、たったの三坪です。二十四坪を借地して、二十七坪の霊地を、何とか維持した。悔しかった。体が火を吹き、焼ける思いだった」
縫殿助の背から溢れる黒い気が猛り、蠢く。
構えを取った善次郎だったが、縫殿助の目を見て、動きを止めた。
「ですが。……それ以上に、この地を守り続けた御祭神に。代々、社を守ってきた森村家の御先祖に、申し訳がなかった。あの時の私に、もっと智恵や力があればと、何度も悔やみました。結局、私は、
縫殿助の目から、涙が溢れる。
善次郎は構えを解き、柄から手を離した。
「だから死霊となり、この地に留まったのか」
口を覆い、縫殿助が声を殺して、涙を流す。
その姿は、今まで見てきた縫殿助とは違う。人を欺き嘲る笑みも語り口もない。真の姿に、善次郎には映った。
「残った三坪までも、奪われては。その恐ろしさが、私を現に留めました。悔しさと恨めしい念を抱いたままに。しかし、代が変わり、私から斎を奪った子孫たちの姿を見るにつれ、心が、絆されてしまった。町人たちは、福徳稲荷を氏神として、大事に祀ってくれた。私は恨みの矛先を、失いました」
黒い念が色褪せて、動きを鈍らせる。
「その時、許す気には、なれなんだか」
善次郎の問いに、縫殿助は首を振った。
「台徳院様から賜った広大な敷地。大事な斎を奪われた恨みは、容易に消せるものではございませぬ。絆された心は、いつしか妬みに変わりました。同じように、開府以前から武州にあり、今尚、隆盛を保つ社が妬ましかった」
善次郎は、ようやく得心した。
(縫殿助殿の背に膠着する黒い念は、妬みだったか。正直に話したのは、懺悔の気持ちが多分にあるからだろうな)
縫殿助の全身から、気が流れてくる。最も強い想いは、恨みでも妬みでもない。後悔や自責であると感じた。
「源壽院が大きな神社の獅子を狙ったのは、其方の指示だな」
縫殿助は、素直に頷いた。
「彼の怨霊は、力を得られれば何でもいい、と吐き捨てました。ならば、思惑通りに動かそうと。私は神官でありながら、神を傷つけた。私の行為は、取り返しのつかぬ罪です」
縫殿助が膝を折り、その場に
「ならば、償えばいい。これから黄泉に参れば、閻魔様から沙汰があろう。死神が、其方を待っておる」
縫殿助が、虚ろな目を上げた。
「儂に、ここに来るよう焚きつけたのは其方の知己である死神だ。あれは其方を案じておるぞ」
色をなくした顔が、善次郎を見上げた。
「何故、そのような言葉を吐けるのです。私は貴方様に、大変な御無礼を。大いに迷惑を掛けたのですよ」
善次郎は、首を振った。
「儂がここに来た時、救われた思いだった、と語ったな。本当は初めから、溜め込んだ心情を吐露したかったのではないか。だからこそ昨晩、源壽院の元にあった獅子の御霊に力を注ぐのを、止めたのだろう」
これまでの源壽院は、獅子の御霊である核を力の根源としていた。昨晩に限り、怒りを力に変えるしか術がなかったのは、源壽院の心情だけではない。
(終わらせたかったのは、源壽院も縫殿助殿も、同じなのだろう)
恨みも妬みも怒りも、持ち続けるには強さが要る。人の心は、たった一つの負の感情を長く維持できるほど強くないと、善次郎は思う。
(人の心は、
死して尚、枷に縛られ続けた源壽院や縫殿助を見ていると、そう思えてならない。
(だが、人の心は強さも持ち合わせておる。許すのや忘れるのも。憤りに堪えるのも、叱るのも、素直に泣くのも。強さと呼べるのかもしれぬ)
何故か、お鴇の笑顔が浮かんだ。身を守る術すら持たないお鴇の心からは、確かに強さを感じる。
本当の強さとは、たおやかで柔らかな。もっと簡素で純粋なものなのだろう。
ぼんやりと、そう思った。
「お陰で儂は、怨霊を討つ役目を全うできた。今の縫殿助殿の言葉は総て、本音であろう。伏せるのでも、ごまかすのでもない。ようやく真実が聞けて安堵した」
縫殿助の顔が歪み、項垂れる。敷石に、涙の雫が、ぽたりぽたりと落ちた。
「本当にお優しいお人でございますね、善次郎様。私はもう、疲れました。早う黄泉に連れて行ってくださいまし」
項垂れたままの縫殿助に向かい、善次郎が刀を構える。
鯉口を切り、背に膠着する黒い念を斬り払った。縫殿助の体から離れた黒い念が色を消して、無に帰す。
縫殿助が、忙然と顔を上げた。
「善次郎様! できやしたぜ。見てくだせぇ! 俺の大傑作だ!」
振り返ると、長七が得意そうな顔で、こちらを見ている。
阿の口が裂けていた獅子は、すっかり綺麗に直っていた。
罅割れた箇所が、わからないほど丁寧に漆喰が塗り込まれている。その上には、くりっと円を描いた髭の装飾が、細やかに施されていた。
「やはり長七の技は一流だ。獅子の御霊も、きっと喜ぼう」
頭上から、青い灯火が二つ、ふわりふわりと降りてきた。灯火は長七と善次郎の周りを、くるりと一周する。
「あっはは! 気に入ってくれたみてぇでさ。直した甲斐があるってぇもんだ!」
長七と善次郎が、顔を見合わせ、微笑む。
二つの灯火は、縫殿助に近づくと、くるくると周り、頬擦りするように寄り添う。
灯火は、それぞれに分かれ、狛犬と獅子の像に戻っていった。
「あぁ……。獅子が、戻りました。狛犬の涙が、止まりました。やっと、元に戻った」
感嘆の声を零した縫殿助が、立ち上がる。その顔には、穏やかな安堵の笑みが浮かんでいた。
善次郎と長七に向かい、深々と礼をする。縫殿助の姿が、透けていく。
「あの死神様に、しっかと送ってもらいなぁよ! もう迷いなさんな!」
長七の声に、善次郎が続く。
「死神、後は頼むぞ。縫殿助殿を黄泉まで、無事に送り届けてくれ!」
境内の銀杏の木から、黄に色付いた葉が一枚、はらりと落ちた。
「任せておきなぁよ。善次郎の旦那に、長七さん。世話んなったねぇ。いずれ、また、どこかで、お会いしやしょうねぇ」
声だけを残して、死神が縫殿助の魂を運んでいった。
気が付けば、辺りに音が戻っていた。黒木鳥居が朱塗りに変わっている。
朝を迎えた瀬戸物町の界隈には、今日も活気溢れる人の騒めきが響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます