第三章 潺、皓月堂に集う《一》

 朝の支度に活気づく町内を抜け、大丸屋裏の細い路地に入る。

 しばらく進むと、朱塗りの壁が見えてきた。

「陽の下で見ると、やはり派手だな」

 魔除けになる、と皓月は気に入っているようだ。六年が経った今も、変わっていない。

「少しばかり、色がせたか」

 壁に、すぃと指を滑らせる。漆喰も所々痛んでいる。掛かる看板も年季が入って、文字がようやく読み取れるかどうかだ。

 客の少ない店だから、銭の入りを考えると修繕も後回しになるのだろう。

(この御役目を終えたら、直してやるか)

 などと考えていると、店の中から声が聞こえてきた。

「もう大丈夫だから、朝餉あさげは私が作ります。皓月さんは休んでいて」

「いやいや、お鴇ちゃん。もう少し、休んでいなよ。でなきゃ、俺が善次郎様に叱られちまう」

 善次郎は咄嗟に店の戸を開けた。二人の声がする、台所に向かう。

「こんなにお世話になったのに。お礼の一つもできなきゃ、私が兄ちゃんに叱られるもの」

「今より調子が戻ったら、お願いするよ。だから、休んでおいでな」

「元気になったの! だから、お願い。動いていないと、体がなまっちゃう」

 お鴇が皓月の手から前掛けを奪おうと、詰め寄っている。

 二人のやり取りを遠巻きに眺めていた善次郎は、笑みを漏らした。

「善次郎様、お帰りなせぇまし」

 善次郎に気付いた皓月が、困り顔で振り返る。善次郎の姿に気付いたお鴇が、はっとした顔で、前掛けから手を離した。

「お鴇は随分な働き者だな。気持ちは有難く受け取るが、もう少し、休みなさい。まだ目が潤んでおる」

 お鴇に歩み寄り、頬に手を添える。羸瘦るいそうの浮かぶ瞳を覗き込むと、お鴇の頬が、じんわり熱を持った。

(昨夜は指の先まで冷えていたが、熱は充分、戻ったようだ)

 安堵する善次郎の顔を、お鴇が何も言わず見詰め返す。頬が熱を増すのに気が付いて、善次郎は慌てて手を引いた。

「これは、すまぬ。不躾であったな。儂や皓月に遠慮は要らぬ。しっかり休んで元気を取り戻しなさい。でなければ、其方そなたの兄上に申し訳が立たぬ。無理は、してくれるな」

 俯いたお鴇が、こくりと小さく頷いた。

「善次郎様が、そう言ってくださるなら……。休んで、います」

胸に当てた小さな手が、きゅっと袂を握った。

(強情なのか、律儀なのか。いずれにしても、休んでいられるたちでも、なさそうだな)

 ふぃと隣の皓月を振り返る。同じように思っているらしく、眉を下げて笑う。

「では、お鴇。昨晩、其方が持ってきた道具の話をしてくれるか。走り回ってまで、皓月を探していたのだ。火急の要件なのだろう。朝餉は、その後にせぬか」

 ぱっと表情を明るくして、お鴇が顔を上げた。

「先に、聞いてもらえるんですか? 善次郎様、お腹がきませんか?」

「気にするな。朝も、まだ早い。儂も外から戻ったばかり故、茶でも飲んで落ち着きたい」

「じゃぁ私、お茶を淹れてきますね」

 嬉しそうな顔で、お鴇が台所に入っていった。

「働き者で、気立ての良い娘だ」

 ぽそりと零す。善次郎の呟きを、しっかり聞き取った皓月が、にやりと笑う。一目見て、皓月の思惑を察した善次郎は、顔を背けて居間に歩き出した。

「他意は一切ないぞ。思った通りを言ったまでだ。それより、あれから道具に何か、変わりはあったか」

「特に何もございやせん。静かなもんです。お鴇から離しておけば、ですがね」

 皓月の表情が一変して、真剣さを帯びた。

「やはり、話を聞くのが、先だな」

 顎に手を当て、善次郎は思案する。

「しかし、本当によろしいので? 大事な御役目もございます。今朝も早速、福徳稲荷に参られたのでしょう」

「このまま放り出す訳には、ゆくまい。皓月に任せると言っても、此度の御役目には、お主の力も肝要だ。ならば、お鴇の件も二人で片を付けるのが、最も早い」

 顔を緩めて、皓月が笑みを零した。

「善次郎様は、相変わらずで。そういうところは、宇八郎に、そっくりですよ」

 皓月が、はっと顔を上げる。困り顔で、善次郎に頭を下げた。

「すみません。余計な話を致しやした」

 平素は、宇八郎の名を滅多に口にしない皓月だ。善次郎への気遣いであり、自身の心に打った楔でも、あるのだろう。

(儂より皓月のほうが、痛癢が大きいのかも、しれぬ)

 昨晩の死霊は、善次郎が思う以上に皓月の心を蝕んでいるのかもしれない。

「お主に似ていると言われるのは、素直に嬉しい。兄上は儂の誇りであり、道標みちしるべだ。だが、此度は一度、この想いを捨てるべきであろうな」

 皓月に向けた警告であり、自身に課した戒めのつもりだった。

「わかっておりやす。俺の成すべきことも、善次郎様のお気持ちも。ちゃんとわかって、おりやすので」 

いつもより声が重い。細めた目に、影が帯びて見える。

皓月の心の奥底に澱む別の何かを、善次郎は感じ始めていた。

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