第二章 狛犬が啜り泣く《五》

 空が白み始めた時分。善次郎は一人で、皓月堂を出た。

 じっとしている気には、とてもなれなかった。

(福徳稲荷へ行かなければ)

 急く気持ちを抑えきれず、足がどんどん速くなる。

(しかし何故、福徳稲荷が狙われたのか)

 福徳稲荷神社は、日本橋瀬戸物町に鎮座する。三十坪ほどの小規模な社だ。昨日、巡った三社とは、比べものにならない。

 名称の縁起が良いと、参拝者が少なくないのは、知っている。台徳院(徳川秀忠)も「徳川に福を齎す社」として、福徳稲荷を痛く気に入っていたと聞く。

 しかし、それ以降、徳川宗家との目立った所縁はない。同規模で有験と名高く、徳川所縁の稲荷社なら他に、いくらでもある。

(あの死神が言うからには、狛犬が壊されていることに間違いは、ないだろう。まずは、この眼で確かめねば)

 考えを巡らせ歩いているうちに、雲母橋が見えてきた。

 伊勢町堀に架かる橋を右に折れ、真っ直ぐ進むと、唐人料亭≪百川≫がある。百川を通り越し、南に行くと、福徳稲荷神社の正面に出る。

 皓月堂のある通旅籠町からは、目と鼻の間であった。

 真正面から社に向かい、小さな疑問を持った。朱塗りの鳥居が見当たらない。代わりに立っているのは、黒木鳥居だ。

(福徳稲荷は、赤い鳥居だったはずだが)

 稲荷社は大概朱塗りの鳥居が定石なので、思い違いをしているのかもしれない。善次郎は、さして気にも留めず、礼をして椚の鳥居を潜った。

「それにしても、随分、古い鳥居だ」

 樹皮のついた生木の鳥居が地に挿し立っている。じっくりと見入っていると、鳥居の根元から小さな若芽が顔を出していた。

「これは、何とも目出度い」

 と呟きつつ、不思議に思う。

(今は仲秋。若芽の萌出る季節ではない。作り物か?)

 若芽に顔を近付けようと屈みこんだ時、後ろに気這いを感じた。

「台徳院様からも、同じ言葉を頂きました。その時、芽吹神社との別称を賜ったのですよ」

 振り向くと、年老いた神官が善次郎に向かい微笑んでいた。

「昨今は、黒木鳥居のある神社も減りました。椚は鳥居の原始、新芽の回生は信仰の起源です。その鳥居は、この社の誇りでございます」

 善次郎は眼を凝らし、周囲を探った。

(音が、消えておる。人の気も、物音も、総て。何もない)

 瀬戸物町は、名の通り瀬戸物問屋の多い町だ。加えて、福徳稲荷は河岸沿いにある。百川が仕込みを始めてもおかしくない時分だ。

 空が白み始めたばかりとは言え、これほど何の音もしないのは、普通ではない。

 境内に人気はなく、生き物の気が、まるでない。椚に芽吹く新芽の生気が、やけに際立って感じられた。

(夜中に囚われた幻影とは、また違う、気味の悪さだ)

 目の前で微笑む老翁からは、殺気どころか悪意すら感じない。

 珍しい黒木鳥居に気が向いたせいか。或いは、鳥居を潜った刹那。知らぬ間に自ら、現から切り離された異世界に入り込んでしまったのかもしれない。

(だとすれば、恐ろしい手管だ。この死霊の、いざないか)

 押し黙っている善次郎に、老翁は人の好そうな声音を向けた。

「私が人でないのには、既にお気づきでしょう。貴方様は穎脱えいだつした力をお持ちのようです。でなければ、私の声は届かぬはずですから」

其方そのほうは、何者だ?」

 あえて短い問いを投げると、老翁は畏まった。

「これは大層失礼を致しました。私は森村もりむら縫殿助ぬいのすけと申します。この場所を案じるが故、黄泉の門を潜り損ねた、愚かな死霊でございます」

 下卑た言廻しに、哀愁が漂う。

「儂は明楽善次郎と申す。然有る者から、福徳稲荷の狛犬が壊れていると聞き、確かめに参った次第だ」

「もしや、あの死神でございましょうか。それはまた、余計なお手間を、お掛け致しました」

 手で口元を隠し、品よく笑う。

「あれと知り合いか? これは、面白いな」

 驚く善次郎に、縫殿助が頷く。

「もう随分と長い付き合いになります。あの者のお知り合いであれば、余計な詮索は無用でございますね。ご案内致しましょう」

 縫殿助が手を差し伸べると、黒木鳥居のすぐ後ろに、狛犬が現れた。

「これは、如何様な技だ。先ほどまで、ここに狛犬は、なかっただろう」

「可哀相な姿になってしまいましたので、私が隠しておりました。ですが、善次郎様には、この次第を知っていただくべきでしょう」

 現れた狛犬は、顔が罅割れて、阿の口が大きく裂けていた。確かに気の毒な姿だ。

(他の三社ほどの破損は、なさそうだな)

 手を近付け、気這いを探る。瘴気はない。それどころか、何も感じない。

(まるで、抜け殻のようだ。この中に守護獣たる狛犬は、おらぬのではないか)

 もう一対のほうに、善次郎は眼を向ける。吽の狛犬は無傷で、台座の上に鎮座していた。

 近付き、手を差し伸べる。口元に触れると、ひやりとした石造りの狛犬から、冷たい雫が零れ落ちた。

「狛犬が、泣いておるのか」

 目の端に溜まる涙を、指で拭い取る。涙はすぐに溢れ、頬に一筋、つぅと流れた。

「対の朋輩が、斯様な目に遭ったのだ。さぞ無念で、悲しかろうな」

 袂から手拭を取り出すと、流れる涙を拭いてやる。

「なんと、お優しい人だ」

 それまで黙っていた縫殿助が、ぽつりと零した。

「善次郎様、是非とも聞いていただきたいお話がございます。貴方様になら託せる、いいえ、貴方様にしか託せぬ願いでございます。どうか、お聞き届けください」

 善次郎は振り返り、縫殿助に深く頷いた。

「今、御府内の神社で狛犬、いいえ、阿形あぎょうの獅子を壊しているのは、この福徳稲荷の獅子でございます」

「何? それは、どういうことだ。それに獅子とは、なんだ。これは狛犬ではないのか」

「狛犬とは吽形うんぎょうのものを申します。対となるのは阿形の獅子で、狛犬ではございませぬ。大衆が狛犬と呼ぶ対の守護獣は、厳密には狛犬と獅子なのでございます」

「それは、知らなんだ。して何故、福徳稲荷の獅子が、他の神社の獅子を狙う?」

「恐らく、依代を探しているのでしょう。獅子の像が壊れた後、御霊が飛んでいったのです。ですが、それだけでは、ございません」

 縫殿助の眉間に深い皺が刻まれる。

「この獅子を道具のように使っている者がおります。あれは怨霊の類でございましょう。彼の怨霊は獅子の霊力を利養しているのです。器を壊され荒ぶる御霊を使い、御府内の神社の獅子を壊して廻っております。そうして荒魂あらみたまを集めているのでしょう」

「何とも卑劣で、浅ましいやり口だ。その話からすると、これ以後も壊される獅子が増えるやもしれぬな」

 自然と声に怒りが籠る。縫殿助が苦い顔で頷いた。

「獅子の心の痛みが、私に流れ込んできます。ですが、私はこの地を離れられぬ身故、どうすることもできませぬ」

 啜り泣く狛犬と同じ痛みを、善次郎は縫殿助から感じ取っていた。

「何故、大きな社を狙うか、わかるか? やはり神力が強いからか?」

 縫殿助は首を横に振った。

「善次郎様は、獅子の壊された神社に赴かれましたか」

「今のところ、神田明神、根津権現、日吉山王大権現の三社を巡った」

「それでは気が付かれましたでしょう。神の気が遠くに隠れていたはずでございます。守護獣を失い、神が怯えておるのです」

 確かに、三社とも神の気を遠く感じた。壊された獅子に神気はなく、強い恨みの念がべったりと膠着していた。

(あの時、感じた神気の遠さは、間違いではなかったか。これでは加護が弱まってしまう)

 と考えて、はっと顔を上げた。縫殿助が頷く。

「お気づきの通り、獅子の壊された社は、太古から武蔵野を加護してきた神々ばかりです。このまま神気が弱まれば、御府内のみならず、武州の加護が薄れます。その分、怨霊が力を増しましょう」

 背中に冷たいものが流れ落ちる。想像以上に恐ろしい事体になりかねない。

「縫殿助殿、福徳稲荷の獅子を壊した怨霊を、其方は見たか?」

 対の狛犬の涙に触れ、気這いは覚えた。獅子も似たような気を纏っているはずだ。だが、荒魂と化し、他の獅子と融合とけあっては、気這いを追うのは難しいだろう。

 となれば、根源を断つより他にない。怨霊の正体を暴くのが、最も近道だ。

「我が獅子を壊したのは、荒魂を集めている怨霊とは違う者です。若い御武家様の姿をした、死霊で、ございました」

 どくん、と胸の内が嫌な音を立てて、心ノ臓が下がる。どくどくと動悸が速くなる。

「善次郎様、如何なさいましたか? お顔の色が優れぬようですが」

 縫殿助の声に、俯いていた顔を上げる。善次郎は努めて笑みを作った。

「何でもないのだ、気にしないでくれ。この社の獅子を、必ずここに戻すと約束しよう。また来ても、良いか? 縫殿助殿に智恵を借りたい時が、来るやもしれぬ」

 早口に言い終えると、息を吐く。縫殿助は柔らかな笑みで頷いた。

「勿論でございます。私でお役に立てるならば、尽力致しましょう。いつでもお越しください。善次郎様なら、この黒木鳥居を潜れましょうから」

「有難い、恩に着る」

 一つ、頭を下げて、善次郎は黒木鳥居の外に歩を踏み出す。

「ご武運をお祈り致します。お優しい、明楽善次郎様」

 背中に聞いた縫殿助の声に、含みを感じた。

 黒木鳥居から境内の外に出てから、振り返る。

「やはり、朱塗りの鳥居であったか」

 聳え立つ鳥居は黒木鳥居ではなく、善次郎が覚えていた赤い鳥居であった。外から伺い見た境内に、縫殿助の姿はない。

(黒木鳥居は現の隙間に入るための門、といったところか)

 最後に聞いた縫殿助の声が、やけに心に引っ掛かった。

(悪いものにも感じなんだが、どこか不気味な死霊だ。話は虚偽では、なさそうだが。それにしても)

 調べるほどに、宇八郎の関わりが濃く浮き上がる。 

(若い武士の死霊、か。詳しく姿形を聞くべきだったか。いや、その必用は、ないな)

 夜中の幻影と、現で会った死霊。縫殿助の話と照らし合わせれば、充分、得心がいく。

(肝要なのは、怨霊の正体だ。紀州の犬と、儂を罵る男。生霊なのか、死霊なのか。兄上の死霊と怨霊は同じものか、違うのか。それを、はっきりさせねば)

 幻影の中で宇八郎と交わした、何でもない会話を思い返す。

(思えば、兄上が家督を継ぐ前に、あのような話をしたことなど、なかった)

 宇八郎が元服した時、善次郎は、まだ三つほどだ。善次郎の記憶に残る宇八郎は、既に家督を継ぎ、父・嘉太夫と共に御役目に勤しんでいた。

 尊敬する背中を、ずっと追いかけていた。届かない手を懸命に伸ばして、羨むしかできなかった。

 部屋住から、いつか別家となり、宇八郎と共に御役目に就くことが、善次郎の願いだった。

 描いた未来とは違う今を、善次郎は生きている。

「兄上……。父上と兄上から引き継いだ明楽家を、儂が、この手で守ってみせます」

 白んだ空を朝焼けが染め変える。真新しい今日が、始まろうとしていた。

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