第二章 狛犬が啜り泣く《二》

 善次郎と皓月が大伝馬町に戻った頃には、町は夜の色に染まっていた。

 皓月が首尾よく持ってきた提灯で足下を照らし、朔の夜道を歩く。

 大伝馬町三丁目。俗称を通旅籠町という、この大通りは呉服屋の大店が連なる。角には、義商と名高い大丸屋が堂々と店を構えている。

 大丸屋の角を折れてすぐの裏路地へ入る。うっかりすると見過ごしそうな細い路地を、ひたすら奥へ進む。

 寂れた看板が空風に揺れて、かたかたと乾いた音を鳴らしていた。

「すっかり暮れちまいやしたね。飯にでも、しやしょうか」

「さすがに腹が減ったな。久方振りに皓月の飯が食えるのは楽しみだ」

「それじゃぁ本領発揮と、いきやしょうかねぇ」

 などと話しながら、皓月が戸に手を掛けた時――。

「皓月さん! やっと会えた! どこに行っていたの? ずっと探していたんだから!」

 若い娘の高い声が路地に響く。

 振り向くと、大きな風呂敷包みを抱えた娘が駆けてくる。威勢の良い声とは裏腹に、足元が覚束ない。

「お鴇ちゃんかぃ? そんなに慌てて、いってぇどぅした?」

 蒼顔と額に浮かぶ大汗を見るなり、皓月の表情が強張った。

 お鴇の抱える包みから、瘴気が漏れている。先に気付いた善次郎は、お鴇に歩み寄った。

「その包みを早く、こちらへ。持ち続けていれば、其方そなたが危ない」

 善次郎は、包みに手を伸ばした。お鴇は怪訝な顔で、包みを持つ腕に力を込め、身を引いた。

「ごめんなさい。これは大事なものだから……その……」

 初対面の者には渡せない、と言いたいのだろう。用心しながらも、お鴇の息が上がっている。瘴気にあてられている証だ。

「名乗りもせず、すまなかった。儂は明楽善次郎と申して、皓月殿の友人だ。儂に渡せぬのなら、皓月に手渡してくれ。とにかく早く、その包みから離れなさい」

 お鴇の表情が和らぎ、抱える腕の力が弱まった。

「そういう事情だから一時、預かるぜ」

 皓月がお鴇の手から、ひょいと包みを掴み上げた。

「皓月さんに見てほしかったから、いいのだけど……」

 突然、お鴇の体がぐらりと傾く。肩を受け止めた善次郎は、皓月に目配せした。

 皓月が店の戸を開ける。お鴇を抱えた善次郎が中に入ると、素早く戸を閉めた。

 上がり框にお鴇を休ませるも、一人で座っていることすら辛そうだ。

「いつから、あの包みを持っていた? 何が入っている?」

 善次郎の問い掛けにも、まともに応えられないほど、お鴇の息が上がっている。ふいに、腰に下げていた竹筒が目に入った。

「この水が、飲めるか? 楽になるはずだ」

 お鴇は、眠たい童のように目を虚ろにして、頷く。頷いているのか、ふらついているのかも、識別できない。意識も朦朧としているのか、言葉も返ってこない。

「すまぬが、触れるぞ」

 お鴇の肩を抱え、竹筒を口に宛がう。流し込むと、口の端から水が零れた。

(飲み込むこともできぬか。しかし、このままでは命が削られてしまう)

 お鴇は少なからず、気が敏いのだろう。どうやら、対処する術を持っていないようだ。

 善次郎は腹を括り、竹筒の水を含むと、口移しにお鴇に流し込んだ。口を塞いだまま、小さな顎をくいと持ち上げる。

「ぅん……」

 お鴇の喉がこくり、と音を鳴らし、水を飲み込んだ。

 唇を離すと、細い体が善次郎の胸の中に落ちてきた。すっぽりと腕に納まり眠るお鴇を、どうすることもできず、抱きかかえる。

(やけに体が冷えているな)

 仲秋とはいえ、風はまだ残暑を引き摺っている。冷えも瘴気のせいだろう。抱えたお鴇の腕を優しく擦る。繰り返していると、少しずつ熱が戻ってきた。

「旦那も隅に置けませんねぇ。初めて会った娘に、大胆な振舞いをしなさる」

 奥で荷の中身を識認していたはずの皓月が、いつの間にか後ろで、にやにやと笑っている。熱くなる顔をどうにもできないまま、善次郎は皓月を睨んだ。

「放ってはおけぬ、やむを得まい。それより、包みの中身は何だった?」

 皓月の目から面白尽の色が消えた。

「左官の職人道具でしたよ。お鴇は長七ってぇ左官の妹でしてね。長七のもんかと思いましたが、どうも違うようでさぁ」

 善次郎の前で包みを開く。風呂敷の中身は桐箱だ。

 蓋を開けると、道具が丁寧に並んでいた。道具一つ一つに、べったりと瘴気が纏わりついている。善次郎は念のため、口を手拭で覆った。

「おっと、いけねぇ。善次郎様にも、こいつぁ悪さをしましょうね」

 皓月が、薄梳きの白い紙を道具の上にふわりと載せる。途端に悪い気が薄れ、善次郎は手拭を下ろした。

「いや、大事ない。だが、その紙は助かる」

 今日、巡ってきた社の狛犬に膠着していた瘴気に比べれば、どうということはない。

 目を見開き、紙の上から道具に纏わりつく気の正体を探る。

(狛犬の瘴気とは別物だ。それどころか、よく見れば、瘴気とも呼べぬものかもしれぬ)

 道具から感じ取った気這いは、禍々しいものではない。手拭を巻き、いくつかある道具の中からこてを一つ、手に取った。隅々まで見回す。

(障りは、なさそうだな)

 鏝の先を額にあてる。直に触れるほうが、道具に纏わりついた気を、より感じ取れる。

 瘴気のように悪いものでなければ、最も早く気の正体に辿り着ける。善次郎ならではの法である。

「この鏝は、付喪神になりかけていたようだ。かなり古い代物だな。長いこと使わず、大事に収蔵していたのだろう」

 大切に使われ続けた道具は、百年経つと付喪神になる。特に、持ち主が丹誠込めて手入れし使われていた道具ほど、付喪神になりやすい。

 年季の入った鏝はかなり使い込まれており、丁寧に手入れされた形跡がしっかり残っていた。

「だとしたら付喪神に、なり損じちまったんでしょうねぇ」

 皓月が別の鏝を善次郎に差し出す。鏝の先に、赤黒く固まった血が黏着ねんちゃくしている。

「血の穢れ、か。さぞや口惜しかったであろうな」

 穢れを受けた道具は、どれほど月日が経ち、大事にされようと、付喪神になれない。道具のまま寂とするものが、ほとんどだが。

「邪気が混じり、悪い妖に転じる半途と考えると、得心がいく。だが、この血は、かなり古い。今更、何故……」

 善次郎が血の黏着した鏝を顔に近付け、じっと見つめる。

「ぅっ……」

 腕の中で眠るお鴇が、呻り声を漏らした。眉間の皺を深くし、苦しそうに身悶える。

 手に持った鏝が、瘴気に似た気這いを帯び始めた。お鴇が抱えて駆けてきた時に感じた気と同じだ。

 鏝をお鴇に近付けると、お鴇の顔は更に苦悶に歪み、鏝は気を濃くする。遠くに離すと、鏝の気が弱くなり、お鴇の表情が和らぐ。

「お鴇の気を吸っているのか」

 善次郎や皓月は鏝に触れても、何ともない。

「何やら深い事情がありそうですねぇ。話を聞けりゃぁ早いんですが」

 善次郎は鏝を置き、遠くに押し退けた。

「今は、やめておこう。慣れぬ事体に体も衰弱していようからな。皓月、悪いが布団を敷いてくれ。お鴇を休ませたい」

 腕の中で眠るお鴇の顔を眺めたら、軽挙に起こす気になれなかった。

「そう仰ると思いましたんで、整えてありやすよ。俺は道具を今一度よっくと調べたいんで、善次郎様が奥の間の布団まで運んでやってくだせぇまし」

 くくっと小さな笑みを残して、皓月は道具を抱え、さっさと別の間に下がった。

「妙な気を回しおって。背中に揶揄の文字が見えるぞ」

 頬がほんのり熱を持つ。下心など特にない。だが皓月の態度のせいで、ぎこつない心持になる。お鴇の顔を見下ろすと、小さな唇が目に飛び込んだ。

行燈の火に照らされたお鴇の肌は白く、赤々とした唇が、やけに鮮明に浮かび上がる。

 水を飲ませた時に触れた唇の柔らかさが頭を過り、今更どきりと胸が鳴った。善次郎は軽く頭を振って、思考を切り替えた。

(血の気が戻ってきたのだ。良いことだ)

 華奢な体を抱き、立ち上がる。お鴇の体は思った以上に軽かった。

「この細腕で、あれだけ重い道具を抱えて走ってきたのか」

 ぽそりと呟いて、善次郎はもう一度しっかりお鴇の体を抱え直した。起こさぬよう気を配りながら、ゆっくりと奥の間へ歩く。

 星灯しかない今宵は、いつもより夜の闇が深い。奥の間に続く廊下は外と同じ暗さだったが、それすらも善次郎は気にならなかった。

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