第二章 狛犬が啜り泣く《一》

 林を抜けて路地に出た頃には、空は茜に染まりかけていた。

 日吉山王大権現の裏手には、多くの寺が軒を連ねている。道の先に続く寺の屋根瓦が、夕陽を吸って、赤く照っていた。

(福徳稲荷には、明日にも向かおう)

 歩き出した善次郎の背中に、声が掛かった。

「善次郎様! 御無事ですか。御怪我は?」

 振り返り、はっと気が付く。張り詰めた表情で駆けてくるのは、皓月こうげつだ。

 三十五歳の皓月は、日本橋の裏通りで万屋≪皓月堂≫を営んでいる。

 看板通り何でも請負うが、皓月の生業は砥師だ。職人道具の手入れを主にしている。刀の砥ぎは好まぬようで余程の事情でもなければ受けない。だから、店はいつも閑古鳥が鳴いていた。

 善次郎から皓月に歩み寄る。善次郎を隅から隅まで見回して、皓月が息を吐いた。

「御無事のようですね。滅多に音沙汰のねぇ鈴が鳴りっぱなしに鳴るもんだから。いやはや、肝が冷えやしたよ」

 蒼顔に、安堵が浮かぶ。額に滲んだ汗を見つけて、善次郎は何とも申し訳ない心持ちになった。

「慮外にも死神の助手があり、難を逃れた。徒労をさせて、すまなかったな」

 皓月は嫌な顔一つせず、それどころか表情を和らげた。

「善次郎様に助太刀してくださる死神様とあっちゃぁ、俺も礼を言わなけりゃぁなりやせんね」

 口端を上げて、にっと笑う。これは皓月の癖だ。表情は、すっかり平時に戻っていた。

「死神は、もう消えた。そのうちに、また会う機会もあろう」

 手の中に残る竹筒を眺める。皓月の眼の先も同じだったが、何も言わず顔を上げた。

「それじゃぁ、帰るとしやしょうか」

 善次郎より四寸ほど背の高い皓月に、眼を合わせる。二人は並んで歩き出した。

 二人の影が歩の先に伸びる。皓月の影は善次郎より随分と大きく長い。

 皓月は背丈が大きいだけでなく、引き締まった筋骨をしている。何せ皓月の前身は、西脇新陰流・師範代だ。本名を木村卯之助といい、皓月は本人が好んで使う通称である。

 兄・宇八郎の幼馴染でもある。若き日の二人は稽古場で日々、研鑽を積んでいた。幼い善次郎は、稽古をする二人の姿を羨慕の眼差しで見詰めていた。

(竹刀を構える皓月は、恐ろしくも美しい)

 幼心に思ったことだが、構えも剣筋も体捌きも、総てが美しく見えた。兄が称賛しながら嫉妬する腕前だったのだから、善次郎の目利きも間違ってはいなかったのだろう。

 本来なら木村佐左衛門の名を継ぐはずだった男なのだから、当然の実力だ。

 目前にあった名跡を捨てて町人となった仔細は、実のところよく知らない。今更、聞くわけにもいかず、聞き損じたままだ。

(兄上なら、何か知っていたのだろうが)

 宇八郎が心に留め置いた事情を、善次郎が軽率に聞き出すわけにはいかない。皓月が話してくれる時まで、聞くつもりはなかった。

せせらぎの皆は息災か」

 聞きたい疑問を胸にしまって、世間話を振る。

「善次郎様が鈴を鳴らしてくださるのを、今か今かと待っておりますよ」

空言そらごとを申すな。皆、それほど暇ではなかろう」

「あっはは。まぁ、そうですねぇ。円空は、まだ江戸に戻っていねぇし、環は自分の仕事が忙しそうでさぁ」

 皓月は遠慮なく言葉を返す。いつものやり取りが、心地よい。

「ですがね、皆が善次郎様を案じているのは、空言じゃぁねぇんですよ」

 先ほどより、しっとりと流れた皓月の声に、善次郎は言葉を詰まらせた。

「潺」は、善次郎が忠光の許しを得て独自に抱える間諜である。皆がそれぞれに異色な力を持つ変わり者ばかりだ。証として全員が善次郎と同じ鈴を身に付けていた。

 善次郎が名を唱え、鈴を鳴らせば「潺」が集う。だが、善次郎が実際に呼び出す相手は、大概が皓月だ。

 皓月は善次郎が最初に力添えを求めた相手であり、「潺」の纏め役である。付き合いも最も長く、信の置ける男だ。

「潺の手を借りねばならぬほどの仕事を、仰せつかっていなかっただけだ。自分の力で充分、事足りた」

 今までは、足りていた。だが此度は、今までの御役目と中身が違う。

 御庭番は通例、二人一組で仕事をする。だが、明楽家に限っては、単独に下賜される異例の御役目がある。「潺を使え」という忠光の冥冥裡の意趣だ。潺を使役することで、善次郎の仕事は二人一組と同等に扱われる。

忠光の並々ならぬ信用の現れでも、あるのだが。

(この手の御役目は滅多にない。つまりは殊更の難事と、出雲守様は読んでおられるのだ)

 平時は善次郎が自由に使う「潺」だ。忠光が暗に動かせと示唆するからには、相応の仔細があるに違いない。想念は悪いほうにばかり傾く。

「そいつぁ残念ですねぇ。俺たちぁ善次郎様の耳と目、だってぇのに」

 眉を下げて細く笑む皓月に、善次郎は立ち止まり、向き合った。

「本日、御役目を拝した。此度は潺に、儂の耳と目になってもらいたい」

 皓月の目から笑みが消え、すっと背筋が伸びた。高い背丈が、より大きく見える。

「一度、皓月堂に戻りやしょう。事故ことゆえを伺うのは、そこで」

 善次郎が頷くと、皓月はまた歩き出した。平素の通り歩いている背中は、周囲に気を配して微かに彊直している。

(剣客の気質が、全く衰えておらぬ)

 剣を捨てた今も、皓月が鍛錬を続けている証だ。目の前の広い背中に、宇八郎が重なって見えた。

(兄上とも、夕暮れに二人で、よく歩いたな)

 同時に、林の中で見た兄の影が頭を過った。静まった胸が再び、ざわつく。

「善次郎様? どう致しやしたか?」

 皓月に声を掛けられたが、善次郎は思案したまま動かなかった。

 もし、兄が件に関わっている危懼が微塵でもあるならば、家に帰ることは憚られる。年嵩の母に憂慮させたくない。

 御庭番の仕事の内実は家族にさえ口外無用である。機密が高ければ高いほど、文字にすら残せない。

 先ほどの経緯から考えても、此度ばかりは、どこで何が起きるか、わからない。

(兄上が関わっているなどと信じたくはない。だが、策は講じねばならぬ)

 善次郎は顔を上げ、皓月に向き合った。

「しばらくの間、皓月堂で厄介になっても、良いか」

「勿論、構いやせんよ。善次郎様の気が済むまで、いてくだせぇよ」

 あっさりと答える皓月に、善次郎は頷く。

 皓月は、目を細めて微笑んだ。

「そうして頼ってもらえなけりゃぁ、俺がここにいる意味が、なくなっちまいますからねぇ」

 緩く流れた風に攫われそうなほど小さな呟きは、善次郎の耳に届いた。逸らした顔には影が下りて、表情がよく見えない。ちらりと伺った目は、物憂げな色を帯びていた。

「よろしく、頼む」

 どこか寂しげな皓月の目が心に沁みて言葉にならず、短く返した。

「ご存知の通り狭い所ですが、ゆるりとしていってくだせぇまし」

 皓月が俯いていた顔を上げる。にっと口角を上げて笑う顔は、いつもの皓月だ。善次郎は皓月に追いつき、二人は並んで帰路に就いた。垣間見た皓月の、らしくない顔と声が心の奥に、やけに引っ掛かっていた。

 茜の広がる夕の空を、垂れこめる夜の紺青が飲み込もうとしていた。

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