第一章 善次郎、気鬱を拝す 《四》
紙に書かれた順に、根津権現、日吉山王大権現を巡った。善次郎は、山王社裏手の林にいた。
道を挟んだ向かいには、寺が連なる。人通りの少ない道だが、念のため
どっかりと、腰を下ろした。
「さすがに直に触れるのは、良くなかったか」
神田明神で覚えた悪心と眩暈は、他の二社を巡り、更に身体を衰弱させた。
残り二つの神社も、神田明神と同じ有様だった。
吽の狛犬は無傷。阿の狛犬の顔の大半が抉り取られ、首が落ちていた。狛犬の損壊も三日前、いずれも、夜の惨事と見て、間違いなさそうだ。
(境内も本殿も無害。狛犬だけが、ひどく禍々しい気に
更に、神田明神で感じたのと同様に、根津権現も日吉山王大権現も、神の気が遠かった。
(神が怯えて、奥の院に隠れたのかもしれぬ。それほどに恐ろしい怪異を目前にしたわけか)
境内や本殿に被害がなく、阿の狛犬だけが破壊された情態にも、いささか矛盾を感じるが。
(斯様な姿になってまで神を護ったのか。だから狛犬の他は無事だったのかもしれぬ。憐れな姿であったが、なんと誉高い)
善次郎は今一度、狛犬の武功に手を合わせた。
顔の大半を失うほどに壊れてしまっては、修繕も難しいだろう。顔の砕けた阿の狛犬の無慚な姿を思い返すと、心が痛む。
(壊された狛犬のためにも、禍々しい気の正体を早く探らねばならぬ、が)
三つの狛犬にべっとりと纏わりついていた瘴気にあてられて、悪心と眩暈が酷い。 流汗は拭っても拭っても、すぐに噴き出る。
善次郎は、明楽家の中でも秀出した敏い眼と力を持っている。
だが、力を制御する術を知らない。教授してくれる父も兄も、他界してしまった。
この六年、我流を試したが、どうにも巧くいかない。
(使いこなせない情態は、やはり面倒だな)
抑える術さえ身に付ければ、瘴気を断つ仕法は必ずある。
今のような醜態は晒さない。
(何年かかろうと、必ずものにしてみせる。父上や兄上のように、御役目に活かせるようにならねば。明楽家を盛り立てるために)
成せない今は、道具を使って仕事に備えている。だが、此度は少しばかり迂闊だった。
(障りはあったが、収獲もあった。あれは、恨みの念だ)
じっとりした汗を握り締め、善次郎は熟慮する。
人のものか、人以外のものかは、まだ判然としない。
ただ、深い恨みの念だけは、強く感じ取れた。
三つの社は、確かに徳川との所縁が深い。だが開府以前より、この地に存在する社でもある。
(公方様や大御所様への怨恨というには、あまりに回りくどい。真意は他にあるはずだ。しかし何故、出雲守様はあのような言廻しを……)
ぐらりと一際大きな眩暈が襲い、思考が止まる。意識が段々と遠のき、眼界が狭くなってきた。
「情けないが、ここは力添えを頼もう」
袂に手を突っ込んで、ごそごそと探る。
取り出したのは、赤い根付に結んだ
善次郎が一振りすると、揺れた鈴から涼やかな音色が流れた。まるで小川の
流れた音色は、木々の間を抜ける風に溶けた。
「皓月の鈴よ、鳴れ」
唱えて、鈴を握り締める。
「ふぅ。皓月が着くまでに、少しも快方すれば良いが」
衰頽していく体を休ませ、気を保つ。
頭上から、聞き慣れない声が降ってきた。
「お前さん、大丈夫かぃ」
皓月が辿り着くには、早すぎる。
すっと鯉口を切り、細く眼を開いた。
見下ろしているのは、見窄らしい着物を纏った汚らしい男だ。殺気は全く感じない。
(何者だ……? 人、ではない。……いや待て、この気這いは、以前どこかで……)
訝しい目で睨み据え、はたと、気が付いた。
目前に立つのは、御庭番として初めての仕事で出会った、死神だ。
「お主は、あの時の死神、か」
耳奥に響いた自分の声が、やけに弱々しく感じる。
死神は六年前と変わらぬ調子で、にやりと笑う。
断りもなしに善次郎の傍に、すとんと腰掛けた。
「まぁた、随分と悪いもんをくっつけてきたもんだなぁ。変わっていないねぇ、お前さん」
死神が竹筒を差し出した。あまりに自然な仕草に、思わず受け取る。
「飲めば少し楽になるよ。呼んだ朋輩が迎えに来るまで、とりあえず飲んでおきなぁよ」
「忝い。……頂戴する」
躊躇いを悟られぬように竹筒の水を勢いで一口、流し込んだ。
こくりと飲み込むと、酷かった胸の悪さが、すっと引いた。
善次郎は、目を瞬かせた。
(この死神が持ってくるなら、悪さはしないだろうと思ったが、これほどに有験とは)
善次郎を窺っていた死神が、はにかんだように見えた。
善次郎は小さく吹き出した。
「お主も、六年前と変わっておらぬようだ」
「そりゃぁ、そうさ。六年なんざ、死神にとっちゃぁ、お前さんの数日ってなもんだ。そう変わりゃぁ、しないさね」
死神が、くくっと笑う。
その顔もまた、六年前と変わっていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます