第一章 善次郎、気鬱を拝す 《三》

 神田明神は、江戸城の艮鬼門守護の場所に鎮座する。「江戸総鎮守」として、武家のみならず町人にも親しまれる社だ。祭りや神事に限らず、参拝客は常にある。

 今日は疎らに人がいるものの、境内は、とても静かに感じた。だが、見える範囲に異変はなさそうだ。

(いつもより神の気が遠い。加護が薄まっておるのか。胸の騒めきは、このためか)

 本殿の前に立つ狛犬を見詰める。吽の狛犬は平時の通り、何ともない。だが、阿の狛犬には白い布が被せられていた。

「修繕しているらしいよ」

「早く直るといいねぇ」

 参拝を終えて帰る二人の娘が話をしながら歩く脇を、すり抜ける。

 本殿に手を合わせてから、近くにいた若い神官――権禰宜に声を掛けると、快く応じてくれた。権禰宜が奥に戻ると、しばらくして初老の男が現れた。

「禰宜の津田勘治と申します。因幡守様より承っております」

 勘治が善次郎に向かい、丁寧に礼をした。

 役目柄もあり、善次郎が寺社に赴く機会は多い。寺社奉行の青山因幡守忠朝は、忠光を通じ、いつも力添えをしてくれた。

 忠光とは懇親の忠朝は、善次郎の立場や心情を何かとねぎらってくれる。

(誠に有難いことだ、とは思うが)

 忠光の顔立てでなく、自分の仕事で信用を得たい。そのためにも、此度の御役目は善次郎にとり、大事だ。

(この六年、儂とて何もしてこなかったわけではない)

 気を取り直し、拳を強く握る。

 その間にも、勘治が狛犬を覆う布を縛っている赤い紐を、慎重に解いていく。

「っ……これは」

 懐から素早く手拭を取り出し、口元を覆う。

(この瘴気しょうきは、吸い込めば胸が侵される類のものだ)

 口元を覆う手拭は、瘴気を遮る特殊な糸を織り込んだものだ。良くも悪くも、善次郎は気の変化に敏い。身を守るため、常に持ち歩いている道具の一つである。

 紐が解けるにつれ、妖の残り香が濃くなる。すっかり紐が解けて、勘治が布を手繰たぐり上げた。

 瞬間、どっと流れ出たおぞましい気這けわいに顔を顰める。善次郎は慎重に周囲を探りながら、布の内側に入った。

 狛犬の姿を見て、ぞっとした。

「これは、むごい」

 阿の狛犬の首がげて、地面に転がり落ちている。顔の下半分は、ごっそり抉り取られていた。吽の狛犬が無傷だから、これが阿の狛犬だろう、と推し測る程度だ。残っているのは、左目と、その上の耳だけだった。

「誰の仕業かわかりませぬが、このような姿になって。本当に可哀相でございます」

 眉を下げて狛犬を見詰める勘治の顔には、悲愴が浮かぶ。

 善次郎は手拭を口に強く押しあてた。地面に転がる狛犬に顔を寄せる。抉り取られた顔の部分に、禍々しい気がべっとりと、こびり付いている。

(まるで、人の所業とは思えぬ)

 様子を探ろうと、地面に転がる顔の部分に手を伸ばす。言い得ぬ気這いに、悪心と眩暈を覚えた。だが、構わず触れた。

(まだ新しいな。触れただけでは正体までは、わからぬ。とはいえ、良いものでないのは明白だ)

 触れた指を懐紙で拭い、折り畳んで袂に仕舞う。この懐紙も手拭同様、瘴気を遮る細工を施した道具だ。

(抉られ方も尋常ではない。まるで鋭利な刃物で切り取ったようだ)

 見るに堪えない狛犬の顔の断面は、つるりとして、皮肉なほど美しい。いったい何を使えば石造りの狛犬をこうも綺麗に抉り取れるのかと、不思議に思うが。

(妖……ですら、ないかもしれぬ。もっと、底知れぬ、得体の知れぬ、何か……)

 ぞくりと、背筋に寒気さむけを覚えて、身震いした。

「すまぬが、外に出る」

 善次郎の額には、玉の汗が浮かぶ。

 布の外に出た善次郎は、額の流汗を拭うと、大きく息を吸いこんだ。

「お顔の色が優れませぬようですが。少し、お休みになりますか」

 勘治は憂慮して、善次郎を見上げた。どうやら善次郎の感じる気這いが、勘治には、わからないらしい。

(神職でも、この瘴気に気付かぬ者があるのか。じわじわと体を侵すのが瘴気だ。刻が経てば、勘治殿にも自覚なく変調が現れるやもしれぬ)

 今一度、汗と口元を拭い、勘治に向き直る。

「大事ない。かえって、すまぬ。勘治殿も布の外に出てきてくれ」

 笑みを見せながら促す。勘治は善次郎に従い、外に出た。

「して、この狛犬が壊されたのは、いつの頃か」

 勘治は善次郎を憂慮しながらも、頭を低くした。

「三日前でございます。朝の掃除に出た巫女が見つけまして、大騒ぎになりました。八朔の礼が迫っておりましたので」

 八朔とは、東照大権現(家康)が江戸城に入府した日の祝いの礼で、本日だ。江戸城には直参の旗本や大名が登城し、八朔の礼を執り行う。

 神社にとっては元々、豊作を願う神事である。だが、東照大権現と所縁の深い神田明神では、両方を兼ねて神事を行う。

 続けて長月十五日の神田祭を壮大に行うのが通例だ。日吉山王社の天下祭と共に二大祭礼として、百姓町人にも広く親しまれている。

「本日の八朔の礼は神職のみで何とか行いました。ですが、狛犬がこの有様では、神田祭がどうなりますか」

 勘治が気落ちした顔で、狛犬に丁寧に布を巻き直す。赤い紐を硬く締めると、禍々しい気が薄れた。同時に、悪心と眩暈が軽くなる。

「狛犬の修繕は、せぬのか」

 残念そうな顔で、勘治が首を横に振った。

「因幡守様からは、沙汰を待て、とだけ御指示を頂いております。狛犬には、誰も触れぬように、との御達しです」

 確かに、勘治のように何も感じない者には無害かもしれない。だが、善次郎のように敏い者が触れれば、体に障りの出る恐れがある。軽率に動かして界隈に大事がないとも、今はまだ言い切れない。

 それにしても、青山忠朝の指示は的確で早すぎる。善次郎の胸中に、小さな疑念が湧いた。

(儂の調べを待つ、ということか。或いは)

 御庭番の善次郎にも仔細を伝えられぬ『何か』に、心当たりがあるのかもしれない。

(それを調べよ、という意趣なのだろう)

 わざわざ八朔の礼の日に呼び出された事体にも、引っ掛かりがあった。

更に忠光の急かすような言廻しを思い返す。善次郎の想像を上回る、只事ではない何かが、動いているのかもしれない。

(この御役目、急がなければならぬな)

 勘治に「くれぐれも紐を解かぬように」と言い含めて、神田明神を去る。

 善次郎は急ぎ、次の根津権現へ向かった。

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