第6話 Soupir d'amour 恋の溜息④

 「ねぇヴィー」

「何ですか?」


さてさてシャルロット様がヴィンセントに引きづられて向かった先は、柔らかな太陽の光が入り込むサロンの一室でした。そこには大きなピアノが部屋の片隅に置かれ、広々としたフロアと大きな鏡が張り巡らされたお部屋でした。


「セシルとケヴィンってケンカしているの?」

「みたいですね」

「なんで?」

「…なんで私に聞くんですか」

「だってヴィー何でも知ってるじゃない」

「…」

「だってヴィーの耳は地獄耳だって皆…特に秘書官の人たちが言ってるから何でも知ってるんでしょう?」

「ほぅ…」

「で、地獄耳ってどういう意味なの?」

「…辞書引きましょうね、姫様」

「?」


シャルロット様の一言に、ヴィンセントは静かにピクリと反応しておりました。きっと今頃執務秘書官たちは悪寒でブルブルと震えていることでしょう。無邪気に自分のお顔を見上げているシャルロット様のお顔を見たヴィンセントはふぅ…と聞こえるように溜息をつき、いまだいまいちよく分かっていない様子のシャルロット様のおでこにデコピンを一撃くらわせました。


「…いや、もういいです。と言うかアレですよ、ただの痴話喧嘩でしょう。なので放っておきましょう」

「でもセシルだいぶ落ち込んでない?大丈夫かしら…」

「姫様、『夫婦喧嘩は犬も食わぬ』です。放っておくのが一番です」

「…」

「すみません、姫様には難しい言葉でしたね。とにかく放っておきましょう。それよりも今から姫様特訓ですよ」

「…やだ」


シャルロット様が部屋から脱出しようとヴィンセントの手からすり抜けて走り出そうとしましたが、ヴィンセントはドレスのリボンをキュッと引っ張ってシャルロット様の行く手を阻みます。


「『やだ』じゃありません。一国の姫たるもの、ピアノやダンスが出来て当たり前です。姫様は少しお勉強が嫌いなので難しいお話無理でしょ?外見だけしか取り柄が無かったら若い時しか生きていけないのでちゃんと一芸秀でておかないと」

「ちょっとヴィー!」

「先程、リボンに細工しておいてよかったです。さぁとにかく練習あるのみです。何事も練習しないことには上手くなりませんからね」

「…やだ~!」

「だから『やだ』じゃないと言っているじゃないですか。言っときますが姫様より陛下の方が断然ピアノ上手いですからね」

「だってお兄様器用ですもの」

「器用ですけど、陛下は昔からきちんと練習されていましたからね。ちゃんと努力もされております」

「…」

「だから姫様だってできるはずです。さぁメヌエットのおさらいです。楽譜を開いてください」

「先生まだ来られてないじゃない」

「…先生なら居るでしょ」

「?」


小首を傾げて、シャルロット様は訝しげな表情でヴィンセントを見つめます。ヴィンセントはシャルロット様を手早く抱え込んでピアノの椅子に置いて座らせると、ニヤッとサディスティックに微笑みかけます。


「今日はピアノもダンスも私が先生です」

「え~!!やだーーーーーーっ!!」

「『やだ』じゃないです。さぁさっさと楽譜開いてはじめてください」

「ヴィーが先生だなんて嫌よ!」

「私だって嫌ですよ。でも陛下に頼まれたんだから仕方ないでしょう?…姫様だから少しソフトに行きますがスパルタで行きますよ」

「…頭痛くなってきたわ」

「奇遇ですね、私もずっと姫様の横の部屋に越して以来連日連夜、頭が痛いです」

「じゃあお互いのために練習なんてやめましょう?」

「同意したい気持ちはやまやまですがダメです。姫様、貴女は運動神経は良いはずなのにどういう訳かリズム音痴過ぎます。ピアノも一応それなりに弾けるけどやはりリズム音痴が前面に出てきてピッチが怪しすぎます。と言う訳で特訓です」

「いやよぉ~」


なんとかしてヴィンセントの手から逃れようとシャルロット様はジタバタされますが、ヴィンセントはキュッとウエスト部分のリボンを握りしめたまま離そうとしません。

ですがこれ以上この不毛なやり取りを続けるのが面倒臭くなったのでしょうか、ふぅ…と溜息をつくとシャルロット様を横目でチラッと見つめながらゆっくりと口を開きました。


「とりあえず駄々こねたってどうにもならないのさすがに分かっているでしょ?終わったら思いっきりお菓子食べていいですから、まずは一回弾いて見てください」

「お菓子!?最近食べ過ぎだって食後のデザート以外禁止されているお菓子食べていいの?」


シャルロット様は瞳をキラキラと輝かせ、ヴィンセントの方を振り向きます。ご褒美を前に待ちきれないと言った子犬のような表情にプッと笑うと、リボンをもう一度きちんと結び直してもう一度シャルロット様をキチンと椅子に座らせました。


「特訓を頑張ればね。ご褒美です。とりあえずまず弾いてみてください」

「…下手でも怒らない?」

「怒りません」

「本当に終わったらお菓子思いっきり食べてもいいの?」

「早く食べたかたっら早く終わらせることですね。今日は姫様の大好きなポールお手製のマドレーヌを準備してもらっています」

「ポールお手製のマドレーヌ!?私の大好物の!?」

「えぇ。先代ピエールから引き継いだあの秘伝のマドレーヌです」

「分かったわ…!頑張って弾くわ…!」

「でははじめてください」

「えぇ」


シャルロット様はヨシッと気合を入れると、ピアノの鍵盤の方に向き直りました。そして楽譜を開き、すぅ…と深呼吸をすると鍵盤に指を落とします。

しばらくすると、レッスン室からはコロコロと転調するピアノの面白い旋律とヴィンセントの厭味、そしてシャルロット様のそれに対抗するキャンキャンとした騒ぎ声がお城中に響いていたとかどうとか。


・・・・・・・・


 さてさてまたところ変わって、ここはお城の一番奥にあります王族の方のプライベートスペースのさらに奥にあります衣裳部屋でございます。

ただいまこちらではシャルロット様のばあやでありますシャンティさんがシャルロット様のお衣裳の衣替えのため、バタバタと忙しなく衣裳部屋を走り回っております。

そこに一人少し落ち込んだ様子で元気のないメイドのセシルが衣替えのお手伝いをしております。


「セシル!そこの棚の上の箱を取っておくれ!」

「あ…はい!」


あー忙しい!…と呟きながらばあやはぼんやりしているセシルに背の高い棚の上に置かれている箱を取るようにお願いしました。急に声を掛けられて慌てたセシルは、箱を引っ張り出そうと背伸びをしたところバランスを崩して棚の上の箱を豪快にひっくり返してしまいました。


「痛い~っ…」

「セシル大丈夫かい?」

「ごめんなさいばあや…」

「今日は何だか元気がなさそうに見えるけれど一体どうしたんだい?」

「そ…そうですか?」


思いっきり箱の角にぶつけた頭を押さえて涙目になって蹲っているセシルを見たばあやは、腰に手をあててふぅ…と一息つくと、部屋の真ん中に置いてあるソファーにセシルを座らせました。


「…ケヴィンと何かあったのかい?」

「!」

「図星だねぇ」

「すみません、仕事に私情を持ちこんだりなんかして…」

「セシルにしたら珍しいねぇ」

「…本当にすみません…。ちょっと頭冷やしてきます…」

「あっ!セシル!」


セシルが部屋から出て行こうとするとばあやはセシルの名前を呼びます。

え?と振り返ろうとした時、セシルはドアから入ってこようとした人に思いっきりぶつかってしまいまいました。


「いたたたた…すみません…ってセバスチャン!」

「こちらこそ不注意で申し訳ありませんでしたセシル。怪我はありませんか?」

「いえ、私は大丈夫です…」

「ならよかったです」


そこにはロマンスグレーの髪をピシッと後ろに流し、口髭をくゆらしたダンディーな執事長のセバスチャンが立っており、思わずよろめいてしまったセシルの腕を掴んで倒れないようにと支えておりました。

セシルはパッとセバスチャンから離れて思いっきり頭を下げようとしましたが、さらにバランスを崩してよろめいて入り口近くの棚にぶつかってしまいました。


「どうしましたかセシル?貴女らしくもない…!」

「す…すみませんっ!!」

「…何か悩みがあればこのセバスチャンお聞きいたしますが?」

「そんなたいしたことじゃないんです!あ、私この洗濯に行ってきますね!!」


心配そうな表情のセバスチャンに思いっきり手を振り、セシルは近くに置いてあった洗濯カゴを手に取り足早に衣裳部屋を出て行きました。

バタバタバタ…とセシルの大きな足音が廊下に響きます。そしてまた不注意を起こしてどこかでこけたような音が聞こえてきました。


「おやおや…」

「セシル、ケヴィンと痴話喧嘩中なんですって」

「おや珍しい」

「ねぇ。まぁあの子たちもお年頃ですからねぇ、色々あるでしょうね」

「今はお年頃がたくさんおられますからね」

「そうですわねぇ。お年頃がいっぱいですわねぇ。何とも賑やかですこと」

「えぇ本当に」

「で?何か用なのですかい、セバスチャン」

「あ…そうでした。ヴィンセント殿よりこちらの靴をそっと返しておいてほしいと頼まれまして…」


スッとセバスチャンは足元に置いていた箱を手に取り、その中からグララスでシャルロット様が片方落としてしまったビジューがたくさん散りばめられたキラキラと輝く靴を取り出しました。


「あら!その靴…」

「返すタイミングを失っていらっしゃったようで…」

「てっきり姫様がどこかで無くされてしまったのかと思っておりましたら…おやまぁ」

「ヴィンセント殿も拗らせておりますからねぇ」

「若いですわねぇ~」

「えぇ本当に。さてシャンティ、私もお手伝いいたしましょう」


シャルロット様の靴をシューズケースの中に入れると、セバスチャンは上着を脱いで入り口近くの椅子に掛けて袖口をまくりました。ばあやはおや、と目を丸くしてずれた眼鏡を掛け直します。


「おやおや…他の仕事は良いのですかい、セバスチャン」

「えぇ。今日は陛下は半日外出、シャルロット様とヴィンセント殿はピアノレッスンとダンスレッスン中ですから割と手が空いているんです」

「じゃあお言葉に甘えましょうかね」

「たまには貴女も甘えてもいいんですよ、シャンティ」

「嬉しいことを言ってくれるじゃないですか、セバスチャン。そんなこと言ってくれるのは亡くなったウチの亭主ぐらいでしたよ」

「…えぇ存じておりますよ。貴女の亡くなられたご主人…ヴェントと一緒に居る時の貴女の花のような笑顔が私はずっと大好きでしたから」

「おやまぁ…嬉しいことを言ってくれるじゃないですかい!」


照れ隠しでしょうか、バシバシとばあやはセバスチャンの背中を叩きながらケラケラと笑い出します。フッと口角を上げて優しく微笑み、セバスチャンは近くにあった箱を手に取りテキパキと動き始めました。


「貴女は私の大切な親友のヴェントの素敵な奥方ですからね。ヴェントと貴女が幸せでいてくれるのが私の幸せでしたよ」

「おやおや…かつてのローザタニアのプレイボーイは歳をとっても変わらないねぇ」

「さぁ…お喋りはここまでにして早く片付けてしまいましょう。そしてゆっくりお茶でもいかがですか、シャンティ」

「そうですねぇ…そうしましょうか」


ばあやもにっこりと微笑み返し二人は顔を見合すと、長年の連れ添いで息の合ったテンポで衣裳部屋を動き回ります。若かりし頃の昔と変わらず、二人は今日も誰よりもテキパキと働いているのでした。


・・・・・・・・・・


「はぁ…ダメだわ…今日本当にダメだわ…。私いったい何やってるんだろう…」


はぁ~っと思いっきり大きな溜息をつきながら、セシルは一心不乱にゴシゴシと洗濯をして洗い終えた洗濯カゴを抱えてお庭へと出てきました。雲一つない青空に心地よい風が吹き抜け、爽やかな石鹸の香りがするのに、セシルの心はどこかモヤモヤとして晴れ渡りそうにもそりませんでした。


「いけないいけない…仕事に私情を持ちこんではダメよセシル!こんなんじゃ姫様付のメイドとしてやっていけないわ!!」


モヤモヤを晴らそうと頭を激しく横に振って両手で頬をパンッと挟むと、セシルはよし!と自分を鼓舞して仕事にとりかかろうとします。パーンッとシーツを叩き、洗濯干しに掛けようとした時にセシルはお庭のすぐ横の廊下でたくさんの書類の束を抱えてげっそりとしてフラフラと歩いているケヴィンの姿を見つけました。

あ、ヤバい隠れなきゃっと思ったのもつかの間、廊下を歩いていたケヴィンもセシルの姿を見つけるとお互い真顔で見つめ合い、しばし二人の間に沈黙が流れました。


「よ…よぉ!セシル元気?」

「う、うん。そっちこそ…調子はどう?」

「お…俺はこの通り、こんなにもたくさん書類の束持てるほど元気だよ…っ!」

「そ、そう!それはよかったわ!わ…私は今からたっくさん洗濯物干さないといけないのっ!じゃあねぇ~!!」


なんだか少しよそよそしい様子で、二人は顔は合わせているもののまったく目が笑っていない状態でした。セシルは早くケヴィンにこの場から去ってほしいというオーラを出しまくっておりましたが、当のケヴィンはそれを無視してセシルに声を掛けようと近寄ったその時、ちょうどすぐ足元にあった洗濯カゴを蹴飛ばしてしまい中に入っていた洗濯物が派手に飛び散ってしまいました。そして運が悪いことにお庭のお花の植え替えの時期でしょうか、土がたくさん露出しておりその上に無残にも洗濯物がたくさん舞い降りたのです。

セシルはあーーーーーーーっ!!と叫んで土まみれになった洗濯物を急いで拾いに行きました。


「ちょっとケヴィン!」

「ごっ!ごめんセシルっ!!」

「あ~…もう…っ!!もう一回洗濯し直さなきゃいけないじゃない…っ!まったく…っ!!」

「ごめんってば…っ!」

「…もう!ケヴィンのバカっ!!」


土だらけになってしまった洗濯物を拾い上げ、セシルは思いっきり溜息をつくとケヴィンの横を足早に駆け抜けてもう一度洗濯場へと足早に向かって行きました。

セシルに無視されてしまったケヴィンは戸惑いマックスな顔のまま去っていくセシルの後姿を見つめておりました。


「踏んだり蹴ったりで…いったい何なんだよぉ~…」


思わずはぁ…と溜息をつきながらケヴィンは肩をがっくりと落としてしゃがみこみました。ふと空を見上げると白い雲がゆっくりと流れ去っていきます。

ケヴィンは頭を掻きながら、セシルの去って行った方向を振り返りますがもうそこにはセシルの姿はありませんでした。

はぁ…と大きく肩を落とし、ケヴィンはもう一度流れて行く雲をぼんやり見つめて一人ぽつんっとお庭で黄昏ているのでした。

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