第5話 10年前────かつての教会にて
司祭の話を聞いた後は、必ず歌うことにしている。
拍手や歓声はいらない。聴衆など別に居なくても構わない。ただ声が出せれば良い。
それがイチヨウにとっての祈りだった。日曜の教会に訪れる裕福な人の中で祈りの言葉を唱えても、神に届くとは思えなかった。
教会からの帰り道、貧民街へと続く細い路地を歩きながら、舞台を探す。
出来るだけ人目につかない、声がよく響く場所がお気に入りだ。天井に大きな穴が空いた廃墟では、差し込んできた陽の光がまるでスポットライトのようになる。
右手に、石造りの廃墟があった。もう随分前に打ち捨てられた、教会の跡地である。
入口で立ち止まり、耳をすませた。
気をつけなければならない音はわかっている。
雨風を凌ごうと潜り込んだ浮浪者の
酒で理性を飛ばした酔っぱらいの怒声。
怪しげな薬に溺れた狂人の笑い声。
盛りのついた男女の嬌声。
(··········大丈夫ね)
何も聞こえて来ない。異臭もない。静かだった。
ここにはイチヨウしかいない。それを確かめて、大きく息をついた。
天井に空いた大きな穴から、白い光がこぼれ落ちていた。壁に掛けられた大きな十字架を、きらきらと照らしている。
何を歌うのかは、予め決めていた。救世主をこの世に産み落とした、聖母を称える歌だ。
イチヨウに学は無い。学校に通うことを許されず、楽譜の読み解き方どころか文字の読み書きすらまともにできない彼女が知っている歌と言えば、酒場の酔っ払いの下品で卑猥な歌か、もしくは教会で耳にした聖歌ぐらいだ。
聖書に書かれた文字が暗号にしか見えなくても、その教えや祈りの言葉の意味がわからなくても、聖歌の美しさだけは、理解できた。
背筋を伸ばし、大きく息を吸う。肺には入れない。腹の内に溜めた空気を声に変えて、天まで届けと響かせる。
聖書では、女は人間扱いをされていない。主人たる男に従う
だからこそ、聖書の中で尊ばれる数少ない女性────聖母に、イチヨウは惹かれていた。
彼女が女性でありながら尊敬を集めるのは、
我が子の死を民衆に望まれた聖母の歌は、物悲しい旋律を用いることが多い。聖書の中では、救世主の母として選ばれたことを喜んでいる。
喜ばなければならないのだ。我が子に課せられた運命は、名誉ある役目なのだから。喜ぶべきだ。我が子の死を。
だが、もしこの子が、救世主でなければ。普通の子であったなら────
聖書の中には現れない聖母の葛藤。それが、聖歌の中にはあった。
最後の一音は、光の中へ溶け込むように消えていった。イチヨウが口を閉ざせば、元の静かな廃墟に戻る。
「すっごーい!」
神への祈りと、この場で歌うことの感謝を込めて一礼する。それで終わりのはずだった。背後から無邪気な歓声と、拍手が聞こえなければ。
イチヨウの背後に、目をきらきらと輝かせた少女が立っていた。
「なっ··········なっ··········」
「あなた、いつもここで歌っているの? 聖母様の歌、凄く綺麗だった! 私、歌うことは好きなんだけど、でも全然思い通りに歌えなくて。ねえ、さっきのってどうやって────」
「なんでここにいるのよ!?」
イチヨウの声はほとんど悲鳴だった。少女────イチカは、不思議そうに首を傾げる。
「え? なんでって────」
「あんたは、イチカ・ミタニでしょう!?」
叫んだ後に、イチヨウは唇を強く噛み締めた。
イチカ・ミタニ。
母の言葉が真実ならば、腹違いの妹になる。母の言葉が、真実であれば。
「あんたみたいなお嬢様がなんでこんなところに居るのよ! 浮浪者に襲われたらどうするの!?」
「··········ごめんなさい。心配してくれたのね。でも、届けたいものがあったから」
イチヨウの目の前に、一冊の聖書が差し出された。擦り切れてくたびれた、使い古された聖書。母が酒場から拾って、イチヨウに投げ渡したものだ。
「これは」
「あなたが座っていた席に置いてあったの。凄く大切に使われていたみたいだから、早く届けなくちゃと思って」
「··········そう。ありがとう」
────酒場の酔っ払いがゴミみたいに放り出したものよ。大切になんかしてないわ。こんなものがあったって、どうせ私には読めやしないもの!
喉元までせり上がってきた言葉を飲み下し、イチヨウは聖書を受け取った。
染みだらけでも、擦り切れていても、内容を読むことができなくても、イチヨウの聖書はこれだけだ。
用が済めば立ち去るだろう。そう思っていたのに、イチカは実に無邪気に続けた。
「ねえ、あなた、いつもここで歌っているの? 今日は聖母様の歌だったけど、他にも歌っていたりするのかしら。ああ、ごめんなさい。いつまでもあなたじゃ失礼よね。えっと、私はイチカなんだけど」
「··········イチヨウよ」
イチヨウ・ミタニとは名乗れなかった。
イチヨウは、母の姓を知らない。母は死ぬまでミタニを名乗っていた。娘にもそれを強要した。
自分こそがクレハ・ミタニの正妻なのだと。イチヨウこそクレハの長女なのだと、事ある毎に周囲に言いふらしていた。
そのたびに浴びた嘲笑を、侮蔑を、罵倒を、イチヨウは一生忘れないだろう。
名乗れるはずがなかった。クレハ・ミタニの
「イチヨウ? あなた、イチヨウって言うの?」
「そうだけど。何か文句ある?」
「ううん、ないわ。ただ、私はイチカで、あなたはイチヨウでしょ? 名前が似てるから、姉妹みたいだなって思って」
「··········っ」
思わずイチヨウは息を呑んだ。
知らないはずだ。この娘は、何も。
イチカはふわりと、聖母のような笑みを浮かべた。無邪気な調子で言う。
「ねえ、イチヨウ。私に歌を教えて。私もあなたみたいに歌えるようになりたいの」
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