第6話 10年前────季節が二度巡るまで

「馬鹿じゃないの!?」

 朽ちた教会の中に、怒声が響く。

 擦り切れたスカートを両手で掴み、イチヨウはイチカを鋭く睨みつけた。

「私は音楽学校の生徒なんかじゃないわ。見てみなさいよ、この格好。こんな服着て学校に行ってる奴なんて居る!? あんたみたいなお嬢様と一緒にしないで!」

 イチカの細い肩が、小さく跳ねた。澄んだ瞳に、怯えたような影が見える。

 それに、少しだけ満足した。慈悲深く、無邪気な聖職者の表情が、凍りついたことに。

「大体、あんたみたいなお嬢様なら、パパにおねだりすれば少年聖歌隊だろうがオペラ歌手だろうが好きに呼べるじゃない。こんな、貧民街スラムの酌とり女なんかに習うことなんて────」

「あなたが良いの」

 今度はイチヨウが凍りつく番だった。

 このまま罵倒し続けていれば、育ちの良いイチカはきっと怯えて自分に近づかなくなる。

 そう思っていたのに、イチカはほんの僅かな間に、あの聖職者の笑みを取り戻していた。

 怯えの影など、どこにもない。

「私は、あなたみたいに歌いたいの。少年聖歌隊やオペラ歌手の方だって、きっと素晴らしい声をしていると思うわ。でも、私が聴いた中で、今までで一番綺麗な歌はあなたの歌なのよ、イチヨウ」

「··········っ」

 イチヨウは息を呑んだ。

 生まれて初めて、「あなたが一番だ」と言われた。

 罵声、嘲笑、軽蔑、侮辱。相手がイチヨウであるなら、好き放題に罵り、嘲笑い、見下し、辱める。

「のろのろしてんじゃねえよ、ブス!」

「あんた教会に行ってるんだって? 自分の名前すら書けないのに?」

「お前さ、生きてて恥ずかしくなんないの。こんなにクズで、のろまで、ブサイクで、良いとこなんかひとつもないじゃん。俺ならさっさと首を吊るね。お前、何の権利があって生意気に息してんの? 早く死んだ方が良いよ。その方が世の中のためだろ」

「あんたさー、お高く止まっちゃってるけど、もっと自分がブスだって自覚したら? あんたみたいな底辺女を相手にしてくれる男とか聖人じゃん。触って頂いたことを感謝するならともかく、振り払うとかマジでないわー」

 他人から浴びせられたのは、そういう言葉だけだ。

 褒め言葉など聞いた事がない。ましてや、「あなたが一番」などと。

「ごめんなさい。いきなり教えて欲しいだなんて無理よね。でも、もし良かったら··········また、私に聴かせてくれる?」


 それから、イチヨウにとって、奇妙な習慣が続くことになった。

 毎週日曜日、礼拝に訪れた人々が教会から去った後、イチカの前で聖歌を歌う。

 報酬はその日の昼食や、司祭達お手製の焼き菓子だ。

 始めは一曲歌ってさっさと帰るつもりだった。食事や焼き菓子を受け取るつもりもなかった。

 お嬢様の気まぐれに付き合ってやっているだけだ。イチヨウが歌える聖歌は三曲だけ。すぐにイチカは飽きて、用済みになるだろうと思っていた。

「私もこれからお昼ご飯なの。一緒に食べましょう」

 しかし、イチカはイチヨウの歌に飽きたりなどしなかった。

「今日のお菓子は私が焼いたの。お茶にしましょう」

 慈悲深く、無邪気な聖職者の笑みを浮かべて、そんなことを言う。

 イチカはとてもお喋りな少女だった。イチヨウの歌の感想、今日の礼拝に選んだ題材について、司教様や先輩司祭から聞いた面白い話などを、楽しそうに語って聞かせていた。

 イチヨウは聞き役に徹していた。正確には、イチカに聞かせられるような話題が無かったのだ。

 酒に酔った男の武勇伝や────「今日はあの生意気な黒っちいの前歯を叩きおってやったんだ!」────商売女の品評会────「あの坊やはなまっちろいお嬢ちゃんみたいな子だけど、のは取り柄だわね」────など、イチカのような聖職者には刺激が強すぎるだろう。


「ねえ、あんたも歌ってみなさいよ」

 ふと思いついてそう言った時、イチカは大きな瞳を更に大きく見開いた。怯えたように左右を見回し、顔の前で両手を振り回し、「そんなの無理!」と繰り返す。

 いつもの慈愛に満ちた聖職者の顔ではなく、十代半ばの少女の顔だった。少しだけ愉快な気持ちになり、イチヨウは逃げるイチカを追いかけた。

「無理じゃないでしょ。もう何度も聴いてるんだから、あんたならもう覚えられたでしょ。私みたいに歌いたいんじゃなかったの?」

「でも、だって、全然練習してないし··········」

「じゃあ今から練習しましょ。どうせ居るのは私だけなんだし、大丈夫でしょ」

「でも、でもでも、本当に下手なのよ。酷いのよ」

「いいから。やってみなさいよ。嘲笑わらったりなんかしないから」

 何とか説き伏せて歌わせた結果、何故イチカが人前で歌おうとしないのかを思い知る羽目になった。

 イチカが覚悟を決めたように大きく息を吸い込んだ途端、彼女の首から上がいきなり真っ赤に染まった。

 大きな瞳は周囲を警戒するように忙しなく左右に彷徨い、背中は老婆のように丸まり、小さく窄めた唇が小さくもごもごと動いている。

 こんな有様で、まともに歌えるわけがない。イチカの声は、細く掠れて、おまけに酷く震えていた。

 イチカに無理に歌わせたのはイチヨウだ。せめて彼女が歌い終わるまでは、笑わずにいようと何とか堪えていたのだが────イチカの眉間に深い皺が刻まれ、おまけに寄り目になったあたりで耐えられなくなった。

「ちょっと! 笑わないって言ったのに! 嘘つき!」

 腹を抱えて笑うイチヨウの肩を、涙目になったイチカがポカポカと叩く。流石に本気で殴るのは聖職者としてあるまじき行いだと自制して手加減しているのか、痛みはほとんど無かった。

「ごめんごめん。悪かったってば。笑うつもりなんてなかったのよ。どんな下手な歌かと身構えてたら、変顔とか··········くくくっ」

「だから言ったのに! だから言ったのにぃぃぃ!」

「いや本当に悪かったわよ··········ふっ、ふふふ」

「もおおぉぉぉ────!」

 謝罪の最中に笑いだしてしまっては、説得力などまるで無い。

 イチヨウが何とか立ち直った時には、イチカはすっかり打ちひしがれ、項垂れていた。

「そんなに落ちこまないでよ。どうしようもない音痴ってわけじゃないんだから」

「そうなの? 本当に?」

 イチカががばりと身を起こす。大きな瞳が、きらきらと輝いていた。

「あんたいつも日曜日に説教してるじゃない。礼拝堂で。特にマイクなんか使わなくても、あんたの声は一番後ろの席まで届いてる。歌う時も同じようにしてみたら?」

「日曜日のお話と一緒··········? でも、お喋りと歌は違うんじゃ··········」

「大勢を相手に、のは一緒でしょ」

 イチヨウは音楽のことなど知らない。学校に通った経験すらない。

 だからこれは、当てずっぽうのでたらめだ。

「まずは姿勢を何とかしなさい。いつもみたいに、胸を張って自信満々な顔して立ってなさいよ」

 これでイチカの歌は上達する。

 何の根拠もないのに、その時はそう信じていた。


 一緒に昼食を摂り、イチカに聖歌を聴かせた後、イチカの歌の指導をする。それから午後のお茶だ。

 イチヨウを見て目を剥いていた老司教も、イチカと一緒に礼拝堂の掃除をする姿を見て、態度を和らげた。今では、会釈をし合うまでになった。

「納得できないわ!」

 その日、イチヨウは苛立っていた。今日、イチカが披露した聖書の一説がどうしても気に入らないのだ。

「『罪を犯したことのない者だけ石を投げよ』────そこまでは良いわよ。でも、じゃあなんで一人だけ平気な顔して石を投げ続けたの? 女に向かって石を投げることは罪にならないってわけ!?」

 とある町で、人々がボロ布をまとった女に向かって石を投げていた。救世主一行がそれを咎めると、町の人はいけしゃあしゃあとこう言った。

 この女は罪人だ。自分が何をやったのかを思い知らせるために、石を投げてやっているのだ。

 救世主は美しく整った顔を僅かに歪めた。そして、人々に向かってこう仰せになった。

 ────生まれてから今まで、一度も罪を犯したことがない者のみ、この罪人に向かって石を投げよ。

 救世主は身を屈め、足元の石を拾い、罪人の女に向かってそれを投げつけた────人々の中に混ざって。

 はじめは誰も気にしなかった。救世主が女に向かって石を投げたことを喜ぶ者さえ居た。

 だが、そのうちに────救世主の完壁に整った美しい顔や、真っ直ぐに伸びた背筋、希望の光を宿した冷静な瞳を見るうちに────人々は、一人、また一人と、手のひらに握った石を手放した。

 そして最後に、女に石を投げつけているのは、清らかなる救世主のみになった。

「なんでわざわざ罪人を女にしたのかしら。パンや葡萄酒を分け与えるのもだとか勿体ぶった言い回しをしてるけど、要は男たちだけにお恵みを与えたってわけよね。女は所詮男の持ち物で人間扱いされないのはよぉぉーく知ってるけど、それにしたってあんまりじゃない!?」

 もしも罪人が男だったのなら、救世主は、それでも石を投げただろうか。

 怒り狂うイチヨウを、イチカは困ったように見つめていた。やがて、意を決したようにぽつりと言う。

「··········救世主様は罪を犯したわ」

「え?」

「罪人とはいえ、女性に向かって石を投げた。それは罪よ。たとえ救世主様でも、罪は罪なの」

 それまでの怒りを忘れて、イチヨウはイチカの顔を呆然と見つめた。

 聖職者にとって、救世主は絶対的な存在だ。神に仕える者が、彼を断罪するなどありえない。

「救世主様は、人の罪を背負うお方だから。ご自分の罪も全て背負って、神の御許に旅立つのよ」


「ねえ、イチヨウ。提案があるんだけど」

「提案?」

 イチカと出会ってから、二度目の春。

 よく晴れた日だった。雲ひとつない青空が広がっていたことを、覚えている。

 その日のイチカは、いつにも増して上機嫌だった。

「次の礼拝で聖母様の歌を、みんなの前で歌おうと思ってるの」

「へえ、良いんじゃない」

 その頃のイチカは、人前でも胸を張って堂々と歌えるようになっていた。意味もなくきょろきょろと辺りを見回したり、声が無様に震えることも無い。

「だからね、私がみんなに聖歌を披露する時に、イチヨウも一緒に歌って欲しいの」

「··········なんですって?」

「だってこれ、二声の曲だもの。一人じゃ意味ないわ」

 イチカに説明されるまでもない。彼女が一人で主旋律を歌えるようになった後に、もう一つの声部を歌ったのはイチヨウだ。

 最後まで歌いきった時、イチカは信じられないと言うように大きく目を見開いていた。それからイチヨウの方を見て、満面の笑みを浮かべたのだ。

「ねえ、良いでしょ、お願い! 私、イチヨウと一緒ならきちんと歌えると思うの!」

「··········別に」

 ────別に私なんか居なくたって大丈夫でしょ。あんた一人で歌いなさいよ。

 そう言うつもりだった。

 教導師長の娘であり、自身も司祭であるイチカが人々の前で聖歌を披露するのは、何の問題も無い。

 だが、貧民街に住むイチヨウは違う。

 文字もまともに読めない酒場の給仕が、聖歌を歌うなど、それだけで嘲笑の的になるだろう。

 だから断るつもりだった。それなのに、

「別に、良いわよ。私でいいなら」

「ほんと!? 良かったあ!」

 イチカが歓声を上げる。イチヨウの両手を握りしめ、小さな子供のようにぴょんぴょんと跳ねていた。

「良かった! ほんとに良かった! あなたが居れば大丈夫、何も怖くないわ。だってイチヨウが一緒だもの!」

 イチヨウはそれを呆然と眺めていた。自分が何を口走ったのか、今更自覚した。

 すぐに取り消すべきだ。まだ間に合う。頭の中ではそう思っているのに、口からは別の言葉が飛び出している。

「それなら、しっかり練習しないとね。人前で失敗なんてしたくないし」

「うん!」

 その時のイチカは、本当に嬉しそうに笑っていた。



 イチカと出会ってから、二年。

 イチヨウは、ようやく認めることができた。

 毎週日曜日、教会に行ってイチカと会う。

 それが楽しみになっている。



 

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