第4話 10年前────春の教会にて
「救世主様は仰いました。『光あれ』と。すると、分厚い雲の合間から太陽の光が零れ落ち、まるで救世主様を称えるように照らし出したのです」
細く高い少女の声が、礼拝堂の中で響いている。
その日、教会には数多くの人々が詰めかけていた。
その大半は、結婚式か葬式か、何か行事でもなければ教会へ近づくことすらない少年や少女である。
最初から真面目に話を聞くつもりなどないのだろう。彼らは実に自由気ままに振舞っていた。
すぐ隣の友人に何かを囁いては、一人でくすくすと笑っている少女。
口を半開きにして、唇の端から涎を垂らしながら堂々と眠っている少年。
手慰みに持ち込んだボールを放り投げては、反対の手で受け止める少年。
聖書を衝立代わりにして、その影に隠した紙に何やら一生懸命書きつけている少女。
(なんでこんなことになってるのよ)
祭壇から見て右側、最後尾から二番目の列の右端───いつもの席に収まっていたイチヨウは、日曜日の教会にあるまじきこの騒々しさに顔をしかめていた。
「光に照らされた救世主様のお姿を目にした人々は、歓喜の声を上げました。すぐ近くの人と抱き合い、肩を叩きあって、救世主様と共に在る幸せを分かちあったのです」
若い女性司祭は、涼しい顔で聖書の朗読を続けている。好き勝手に振る舞う少年少女のことなど、まるで目に入っていないようだ。
先週まではこうではなかった。聖書を朗読────と言うより、嗄れた声で唸っているようにしか聞こえなかったが───していたのは、今年で八十歳を迎える皺だらけの男性司教だったし、教会に足を運んでいたのは司教と同じぐらい皺だらけの老人ばかりだった。
好き勝手に振る舞う若者に恐れを為したのか、今日は老人の姿は見当たらない。いつも聖書に向かって唸り声を上げている司教は、若い女性司祭のやや後ろで、彼女の姿をにこにこと眺めていた。
何故、今日に限っていつもは教会に訪れないような連中ばかりが集まっているのか。答えは単純だ。彼らは、世にも珍しい若い女性司祭を見に来たのである。
「救世主様は人々に暖かな笑みを向けました。そして、女と子供を除く全ての人々にパンと葡萄酒を────」
(あの子が
イチカ・ミタニ。
十五歳の若さで見習いから司祭になり、教会での講話を任されるようになった才女。いずれは父親のクレハ・ミタニの後を継ぐであろう、次期教導師長候補。
彼女がこの教会にやって来ることは、風の便りで聞いてはいた。どんな女がやって来るかと、イチヨウも少しだけ気になってはいた。
いつものよぼよぼ爺さん司教ではなく、自分達とそう変わらない少女司祭がやって来る。それに、彼らは興味を持ったのだろう。
けれどその好奇心はイチカの姿を見ただけで満たされた。彼らにとって、聖書の朗読など退屈なだけだ。だから、若い女性司祭と老司教が注意をしないのを良いことに、好き勝手に振舞っている。
「あら、変ですね」
イチカは可愛らしく小首を傾げて見せた。
「
前方の席から、小さく笑い声が上がる。大半は好き勝手に過ごしているが、真面目に話を聞いている者もいるようだ。
「これは私の想像なんですけど、ご婦人と子供達は、焼き菓子とお紅茶を賜ったんだと思います。パンや葡萄酒も勿論嬉しいけれど、甘いお菓子とお紅茶ならもっと嬉しいわ」
珍しいタイプの司祭だと思った。
全ての人を罪から救う救世主と称えられながら、彼の施しを賜ることができるのは、常に男だけである。それなら素直に『その場にいる男に』と書けば良いものを、わざわざ回りくどく
救世主の施しを賜る男が特別扱いをされているのではない。女と子供の方が、救世主からの施しを受ける資格がないのだ。
何故なら、女と子供は男の所有物だからである。持ち主である男が救われれば、彼に隷従する女と子供も救われる。
それが当たり前だと言われてきた。女と子供に救世主が何を施したのか。そんなことを気にする聖職者は今まで居なかった。
「そこの··········そうね、一番前から三番目のあなた。あなたは、救世主様はご婦人や子供達に何をお与えになったと思います?」
イチカに指名された少女は────この集団の中では珍しい、真面目に講話を聞いていた少女だ────、小さな声で何かを呟いた。それを聞いたイチカが、明るく笑う。
「なるほど、お花ね! 素敵だわ。綺麗なお花があれば、それだけで優しい気持ちになれますもの」
あなたは?────次にイチカが指名したのは、中央の列に座っている少年だった。
手慰みにボールを投げていた少年だ。まさか自分が指名されるとは思わなかったのか、彼は大きく目を見開き、投げあげたボールを受け止め損ねた。
床に転がったボールを拾い上げ、イチカは真っ直ぐ持ち主の元へ向かった。口をぱくぱくと開閉する少年に向かって、再度尋ねる。
「あなたは? 救世主様は、ご婦人や子供達に何をお与えになったと思う?」
少年の答えは、『パンと葡萄酒』だった。
おっさん達がパンと葡萄酒を貰っているんだから、おれ達だって同じはずだ。そう主張する少年に、イチカは「そうね。その通りだわ」と大きく頷いていた。
真面目に聞いていた者にもふざけていた者にも、イチカは分け隔てなく同じ問いを投げかけた。そのうちに、お喋りに興じていた少女達は口を閉ざし、好き勝手にふざけていた少年達の姿勢はほんの少しマシになった。
イチカに問いかけられる前に、己の意見を叫ぶ少年がいる。一人では何も言えなかった少女は、近くにいた友人と話し合ってから答えを出した。
イチカは、それをにこにこと見守っている。
(へえ··········結構やるじゃない)
関心したところで、イチヨウの隣に座っていた少年が小さく笑みを漏らした。
丸顔で色白の小太りの少年だ。そばかすが散った鼻の上に、小さな眼鏡が載っている。
思わずそちらに目を向けてしまったのは、彼の笑みがこの場にいる無邪気な少年少女を見下すような、侮蔑に満ちたものだからだ。
目が合う。少年の顔が、不愉快そうに歪んだ。
「何見てんだよ、お前────」
「なーに笑ってんだよ、
勇ましく罵声を上げた少年の声に被せるように、きゃらきゃらと甲高い笑い声が響いた。少年の頭に、食べ終わった飴の包み紙が振りかけられる。
「誰の許可を得て笑ってるんですかー」
「つーか、なんで生きてんの? ちょっと脳みそあったら自分のクズっぷりに気付くだろ」
「無理だよそんなのー。人間じゃないもん、なめくじだもん」
イチヨウと少年の背後、最後尾の列には、三人の少女が腰掛けていた。
金髪、茶髪、黒髪。ほっそりとした手足に、日焼けとは無縁の白い肌。大きなフリルに華やかなリボン、染みや継ぎ接ぎひとつ無い綺麗な服。
一目見ただけで、蝶よ花よと大切に育てられたご令嬢だとわかった。彼女達は、きゃらきゃらと愛らしい声で笑いながら、前方に座る少年に向かってゴミを投げつけ、親が聞いたら卒倒するような汚い言葉で少年を罵っている。
「ちょっと、何やってるの。やめなさいよ」
イチヨウがそう言うと、少女達は揃って目を見開いた。
「はあ?」
「誰、あんた」
「やめなさいって何を? あんたには関係ないじゃん」
「あんた達が投げたゴミがこっちにまで飛んで来てるのよ。迷惑だわ」
「メーワクだってー」
鈴を転がすような美しい声で、少女達が笑う。
「なにあんた、
「なにそれきもーい!」
「良かったねえ
(こいつら··········)
金髪の少年は動かない。俯き、膝の上で両手を固く握り締め、ひたすら息を殺している。
言葉だけで伝わらないのなら、一発殴って黙らせるしかないか────イチヨウがそう判断し、拳を固めたところで、
「何をしているの?」
無邪気な声が割り込んできた。
それまで好き勝手に楽しく罵倒していた少女達が、揃って口を閉じる。彼女達だけではない。他の参列者も、口を閉ざしていた。
教会の中が、しんと静まり返る。その中で、イチカの声だけが響いていた。
「何をしているの? そう、あなた達よ。一番最後の列にいる、三人組のお嬢さん」
背筋をぴんと伸ばし、真っ直ぐにやって来たイチカは、イチヨウすぐ近くで足を止めた。
笑顔が消えている。無邪気に質問を繰り返していた時とは、別人のようだった。
「聞こえないの? あなた達は今、何をしているのって聞いてるんだけど」
「··········にさ」
「え?」
「なにさ、
金髪の少女が、椅子を蹴って立ち上がった。隣で俯いている茶髪の少女の腕を取って無理やり立ち上がらせ、挑むように細い顎を上げて見せる。
「色ボケババアが。あんたもこいつに惚れちゃったわけ? 聖職者のくせに、呆れたもんだね!」
「··········彼は関係ないわ」
イチカは怯まなかった。低い声で言う。
「自分が今何をしているのか、ここで言葉にしてみなさい。恥ずべき行いをしていないのなら、言えるでしょう」
「わっけわかんない! 色ボケババアが偉そうに、指図すんな!」
金髪の少女が怒鳴り散らす。イチカの表情は変わらない。
言えるわけがないだろうとイチヨウは思う。日曜日の教会で、男の子に向かってゴミを投げつけたなどと。人並みの羞恥心があるのなら言えないはずだ。
「一応教えといてあげるけど、学校じゃだーれも
長々とした捨て台詞を残して、金髪の少女は教会から出て行った。取り巻きの二人が、慌てて彼女を追いかける。
イチカは、その背中をじっと見送っていた。それから長いため息をついて、
「ごめんなさいね、中断しちゃって。さあ、続きを始めましょう」
息を吐ききり、顔を上げた頃には、もう無邪気な笑みが戻っている。
イチヨウはそれをぼんやりと見つめていた。
その後の講話は、概ね穏やかに進行した。
正午を告げる鐘の音が鳴り響き、お開きとなる。
「··········おい、お前」
帰り支度をしていると、低い声で呼び止められた。
「なに」
「調子に乗るんじゃないぞ、女のくせに」
少年は、顔を真っ赤にしてイチヨウのことを睨みつけていた。憎々しげに吐き捨てる。
「お前、僕のことを馬鹿にしてるだろ。あいつらみたいに。お前だって女だもんな。女はみんなそうなんだ」
(何言ってるのこいつ)
「僕は女なんかとは違うんだ。聖書にだって書いてある。女は男に従えって。僕は男だから、大人になれば救世主様から贈り物を貰えるけど、お前ら女は男のオマケなんだから一生貰えないんだ! ぶ、ぶ、分を弁えろ! 馬鹿女が!」
好き勝手に怒鳴り散らした後、少年はどすどすと荒い足音を残して去って行った。
後にはイチヨウだけが残される。
「はあ? 何よあれ。何様のつもり? 誰が馬鹿だって?」
今更になって、怒りが込み上げてくる。既に少年の姿はない。
「寝言ほざいてんじゃないわよ、
癇癪を起こしてその場で地団駄を踏む。どれだけ怒鳴り散らしても、元凶の姿はない。ただ虚しいだけだった。
それでも、イチカのように、ため息一つで切り替えることはできなかった。
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