第3話 11年前、独りの娼婦が首を吊った

 ‎────お前はね、いつか教会の偉い人になるのよ。

 それが母の口癖だった。

 娼婦として、男に身体を売りながら生きてきた母。彼女が唯一堕ろさず産み落とした娘がイチヨウだ。

 金さえ積まれればどんな醜男にも股を開く娼婦の娘だ。誰が父親なのかわからないと、周囲の大人達は嘲笑っていたが、母だけは、イチヨウの父親はだと信じていた。

 ‎────お前のお父様はね、教導師長様なのさ。

 静寂の耕地クワイエット・パディランド東地区教導師長、クレハ・ミタニ。

 母はイチヨウの父親を、その男だと断言した。

 いつか教会からが来るのだと、母は信じて疑わなかった。

 いつその時が来ても良いようにと、母はイチヨウに、自分と同じように身体を売ることを禁じていた。日曜の朝には必ず教会に行けと命令した。

 だが、娼婦の母にできたのは、それだけだ。

 イチヨウは文字を書くことができない。読むこともできない。

 母には、イチヨウを学校に通わせるだけの金が無かった。

 物心ついた頃には、イチヨウは酒場の給仕として働いていた。酔客が置き忘れた染みだらけの聖書を投げ渡されたところで、それを読むことなどできなかった。

 学が無いのは母も同じだ。彼女は、娘に読み書きを教えられなかった。

 ────なんで読めないんだ、お前の父親は教導師長様なのに!

 母は怒り狂った。吸殻が山盛りになった灰皿、中身が僅かに残った酒瓶、大きくひび割れたコップ────その場にある物を、手当たり次第にイチヨウに向かって投げつけた。

 ────お前のせいだ、お前がそんな、出来損ないだから、お父様は迎えに来ないんだ!

 母の狂乱が鎮まるまで、イチヨウはひたすら息を殺して耐えていた。

 反論などできない。下手な相槌も打てない。避けるなどもってのほかだ。こうなった母は、イチヨウの行動全てに怒り狂う。

 ────お前のせいだ! お前がグズでのろまで出来損ない不細工だから、あの人は来ないんだ!

 思う存分怒鳴り散らし、手当たり次第に物を投げつけ、最後は子供のように泣きじゃくり、体力が尽き果てるまで暴れた後、母はぱたりと死んだように眠ってしまう。

 いつものことだ。だからイチヨウは、その日もいつも通り、眠った母の脇をすり抜けるようにして、仕事へ向かった。

 酷く寒い、雪の日だった。酒場での仕事を終えて、帰宅したイチヨウを迎えたのは、いつもの母の金切り声ではなく────天井の梁からぶら下がる、母の死体だった。

 母の細い首に、太いロープが巻きついていた。顔は青白く変色して、半開きになった口から灰色の舌がだらりと垂れていた。足元に、母の下半身から流れ出した汚物の水溜まりができていた。

 学のないイチヨウでも、一目でもう死んでいるとわかる状態だった。

 きっと、何年経っても迎えに来ない夫を待ち続けることに、疲れてしまったのだろう。

 母がイチヨウの父親だと信じていた男、クレハ・ミタニは、やはり母の葬式には現れなかった。

 こうして、イチヨウは自由になった。

 だが、彼女は相変わらず、酒場の給仕として働き、日曜日には教会へ通っている。

 それ以外の生き方など知らなかった。

 もう怒り狂った母親の怒鳴り声が響くことはない。

 灰皿や酒瓶を投げつけられることもない。

 母が泣き疲れて眠るまで、ひたすら息を殺して耐え続けなくても良い。

 それだけで、十分だった。‎

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